文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御苑 清水谷家の椋

京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく) 2010年1月17日訪問

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京都御苑 清水谷家の椋

 京都御苑 蛤御門で来嶋隊の築地内闖入までを見てきた。この清水谷家の椋の項では守衛側の反撃から国司軍の崩壊までを追って行く。

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国司軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製

 現在、蛤御門より御苑内に入り御所方向を眺めると御所の先に仙洞御所の築地の北西角と東山の山並みが見える。この眺めを遮るものは御所の南西角にある巨木のみである。文久3年(1863)に作られた「内裏図」を見ると、このあたりに清水谷家邸があったことが分かる。樹齢300年と云われる椋の木は、幕末でも150年近くの大樹であったと考えられる。 実は前からこの木の位置について疑問を感じていた。現在の京都御所は、安政2年(1855)の安政度内裏造営から大きく変わっていないはずである。そうなると御所の築地の南西角の位置は現在と元治元年(1864)は同じではずである。この築地の西南角から、椋までの距離は直線距離で15mも無い様に見える。台所門(宜秋門)前の苑路幅は凡そ27m、南門(建礼門)前が37m、そして現在の蛤御門から椋に通じる苑路幅は23m位に見える。これは実測値ではなく国土地理院が提供している測量計算サイトで提供している地図上の距離であるので、多少の誤差はあると思う。この木が清水谷家の築地内に収まっていたとしたら南門前の東西路は正味3~4mということになる。
 試しに幕末の公家町を現在の京都御苑の上に載せてみた。使用する公家町の地図は、「京都の歴史7 維新の激動」(京都市史編さん所 1974年刊)に添付されている「政治都市=京都の復活」である。この地図は慶応4年段階の京都を再現したもので、特に現在の京都御苑周辺の公家町を13,000分の一の地図上に表現している。これをGooGleMapの航空写真に載せたのが下図の4つの図である。
 先ず、図1は GooGleMap上での清水谷家の椋である。赤い円の中にある清水谷家の椋が、いかに御所の築地に近いかが分かると思う。図2はGoogleMapとほぼ同じ縮尺に合わせた「京都の歴史7」の地図である。かつての御所南門前の東西路がかなり幅広であったことが分かる。現在と比べると、清水谷家のあたりで道幅が少し絞られていたようだ。図3は図1と図2を重ねたものである。かなり大まかな比較ではあるが、現在の清水谷家の椋がかつての邸宅から、いかに離れていたかは明らかである。最後の図4は「京都の歴史7」の地図に現在の椋の木の位置を表示したものである。

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左上: 図1 清水谷家の椋 GoogleMap より      
右上: 図2 清水谷家の椋
                 「京都の歴史7 維新の激動」の地図より               
左下: 図3 清水谷家の椋 2つの地図の重ね合わせ      
右下: 図4 清水谷家の椋
          「京都の歴史7 維新の激動」の地図上の椋の位置

 さて問題は、いつから清水谷家の椋がこの地にあったのかということである。椋は樹齢300年と推定されていることから1700年頃から御苑内で植生していたことになる。
 御所の造営の歴史については、京都御所 その3からその4その5を使用して説明してきたが、江戸時代に入ってからの造営は下記の8回である。

1 慶長度造営  1613年
2 寛永度造営  1642年
3 承応度造営  1655年
4 寛文度造営  1662年
5 延宝度造営  1675年
6 宝永度造営  1709年
7 寛政度造営  1790年
8 安政度造営  1855年

 このうち 承応度造営以降は火災焼失による再建である。清水谷家の椋が樹齢300年ということは、丁度宝永度造営頃に植えられたのかもしれない。この宝永度造営の際に、現在の京都御苑の敷地内にあった民家の移築、公家町の再編を行っている。これは新三本木の町並みで触れたとおりである。「別冊太陽 京都古地図散歩」(平凡社 No86 1994年夏刊)には、延宝5年(1677)の「新改内裏之図」が所収されている。現在の蛤御門、すなわち中長者町通から南側、相之町通(間之町通)から以西を町家が占めている。これらの町家全てを宝永度造営で移築させ、この地に公家町を新たに作り出した。これは御所及び公家町の防災を目的とした再編であったが、その後も幾度か焼失しているので、完全なものではなかったということであろう。なお、公家町の防災については、登谷伸宏氏の「公家町の再編過程に関する基礎的考察 : 宝永の大火と公家町再編に関する研究 その1」(日本建築学会計画系論文集 2006年2月28日)が詳しいので興味のある方はご参照くださいと言いたいところではあるが、CiNiiでは有料、日本建築学会も未加入者に対しての公開は行っていない。登谷氏は公家町の再編を防火対策と集住形態で生じる諸問題の解決策と見ており、その内で防火対策の側面に注目している。宝永5年(1708)3月8日の宝永の大火被災後、同月11日に本格的な普請を禁ずる触を出し、屋敷替を行うことを明示している。さらに殿舎の難燃化や隣棟間隔の確保、屋敷間に新道の敷設や既存の通りの拡幅、防火帯としての明屋敷の設置などが講じられている。

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京都御苑 凝華洞
元は後西院の仙洞御所、東山院御所があった 2014年10月8日撮影

 清水谷家がある地もこの宝永年間の公家町再編時に編入されている。ただし宝永度造営の際、実際に清水谷家がこの地にあった訳ではなかった。上記の宝永度造営の際には御所の南側に東山院御所が作られ、その北西、すなわち清水谷家の現在ある部分には女院御所があったことが分かる。「別冊太陽 京都古地図散歩」に所収されている「京都明細大絵図」を見れば明らかである。この絵図は正徳4年(1714)から享保6年(1721)の7年間の京都の状況を現わしたとされている。御所の南に東山院御旧殿と女院御所と記されている。東山法皇は宝永6年(1709)に崩御、中宮の承秋門院は享保5年(1720)まで永らえているのでこのような表記となったのであろう。
 もともと御所の南側には二条殿があった。「内匠寮本図面篇 第一」(中央公論美術出版 1976年刊)によれば、二条殿が移転した後この地に寛文初年に後西院のための仙洞御所が建設されている。寛文13年(1673)の火災の後も後西院は再営されている。貞享2年(1685)の後西院崩御の後、宝永に入り東宮御所が造営されたが宝永5年(1708)に起きた宝永の大火により焼失している。そして宝永度造営と共に東山院御所が造営されている。このような焼失と再建を繰り返す中で、寛文の後西院、延宝の後西院そして宝永の東山院と逐次西南方向に拡張がなされている。この御所の南に位置する敷地については、宝永度造営で東山院御所が建てられて以降、新たな御所の建設はなかったことも「内匠寮本図面篇 第一」より分かる。

 谷直樹編の「大工頭中井家建築指図集」(思文閣出版 2003年刊)に、京の地図が数多く所収されている。有名な手書き彩色の「洛中絵図(515)」は、付属する袋に記さている「正徳六年申水野和泉守殿御所司代之時此絵図被仰付」から制作年が特定されている。この正徳6年(1716)は大火のあった宝永5年(1708)から8年経過しているため、復興中の京都の姿を現わしている。「洛中絵図」が賀茂川を東限とした御土居内の洛中を描いたのに対して、先にあげた「京都明細大絵図」は洛外の様子を描き足している。中井家の「洛中絵図」を写したため、洛中部分に関しては5000分の1の縮尺で正確に描かれている。この他にも、「御所近傍之図・昔之図也(224)」、「御築地廻り公家衆屋舗割絵図(225)」、「御所廻絵図(226)」、「御所廻り絵図(227)」など4点と、「御所二条廻り并町筋絵図(517)」、「御所二条廻り并町筋図(518)」の2点が所収されている。夫々の制作年は、貞享2年(1685)頃、宝永5年(1708)作成の翌年に加筆、文政元年(1818)から弘化4年(1847)頃、正徳5年(1715)頃と「大工頭中井家建築指図集」は推定している。御所の南の敷地は、224が「後西院御旧地」、225は「新院御所・中宮御所」、226は「東山院御旧地」、227は「東山院御旧殿・女院御所」とある。この内、226に清水谷家が初めて描かれている。その出現は正徳5年(1715)以降で弘化4年(1847)頃ということになる。また、立正大学情報メディアセンターに収蔵されている天保8年(1831)「改正京町繪圖細見大成」にも清水谷家が描かれているので、弘化4年(1847)までは下らないということが、とりあえず分かった。
 清水谷家の歴史については、国文学研究資料館の「山城国京都清水谷家文書」が詳しい。清水谷家は藤原北家閑院宮流、西園寺家庶流の流れを汲む堂上であり、鎌倉時代初期の太政大臣西園寺公経の次男実有が家祖となっている。はじめ一条あるいは大宮とも称していた。実有以後、戦国期の公松の代に一時中絶するものの近世初頭に閑院宮一流の権大納言阿野実顕の弟忠定が再興している。近世の家格は羽林家で、左近衛少将、参議、権中納言と昇進し、権大納言を極官とした。また、小番詰、内々小番、小御所奉行などの朝廷の役職に就任するとともに、さまざまな臨時御用を勤めている。家禄は二〇〇石。知行村は葛野郡上桂村100石、同郡岡村25石、乙訓郡上馬場村73石余、同郡植野村0.2石であった。 清水谷家の家職は書道で、代々能書をもって朝廷に仕えてきた。また家職ではないが和歌に堪能であり、「清水谷家文書」の中にも和歌に関する史料が多くある。清水谷家邸は禁裏の東側の公家衆屋敷の並びにあったことが、元禄22年(1700)の「改正御公家当鑑」より分かる。ここには「中筋東側中程」とある。しかし宝暦12年(1762)の「懐玉雲上要覧」には「新在家御門内下ル東側」とあり、天保15年(1844)の「年々改正袖中雲上便覧」には「蛤御門内下ル東側」とある。蛤御門の正式名称が新在家門であるが、両書が必ずしも同じ位置を示しているかは明らかではない。つまり宝永の大火以前は御所の東側の中筋に位置していたが、いつかは分からないものの宝暦12年(1762)には御所の西南方向に移転を済ませ、天保15年(1844)頃までには現在の地に移っていたということだけが上記から分かる。

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京都御苑 京都迎賓館

 最初に清水谷家のあったとされる中筋とは、御所の東側築地前の日之御門通と二階町通の間の南北路である。かつての清水谷家は現在の京都迎賓館の敷地内にあったことが、迎賓館建設のための発掘調査記録、「平安京左京北辺四坊- 京都御所東方公家屋敷群跡-発掘調査現地説明会資料3」にも記されている。この現地説明会資料には「寛永後万治前 洛中絵図」と「増補再板京大絵図」の2つの絵図を比較し、宝永の大火前後の公家町の変遷を明らかにしている。「寛永後万治前 洛中絵図」は寛永19年(1647)頃で、「増補再板京大絵図」は寛保元年(1741)に作成された絵図とされている。前者の絵図には清水谷家は、柳原家の北側に「志水谷中将殿 廿間」という書き込みがあったが、後者の絵図には柳原家のみとなっている。大火以前は公家町が背中合わせに2列に配置されていたのを、中筋より西側、すなわち御所の外周部分については1列に改めている。これは、宝永年間に行われた防災上の改善策であった。 さて宝永の大火以降に行われた公家町再編の中で、清水谷家はどこに移ったのか?前記の「大工頭中井家建築指図集」に所収されている「御築地廻り公家衆屋舗割絵図(225)」を見て行くと、東山院御所と九条邸の間に西園寺家、中御門家、中院家などと共に見つけることができる。この絵図が宝永6年(1709)6月から10月の状況を描いていることからも、大火後に九条邸の北側に清水谷家が移転してきたのである。さらに筑波大学附属図書館の「増補再版京大繪圖 乾」を見る限り、清水谷家の位置は宝永6年(1709)から変わっていない。この絵図が寛保元年(1741)の絵図だとしたら、この時点ではまだ御所の南西角には移っていない。
 さらに宝永6年(1709)の「御築地廻り公家衆屋舗割絵図(225)」の古地図から分かることは、この当時の御所が西南、東南そして東北の角に大きな切り欠けが存在していたことであろう。特に清水谷家が南西築地に接するように設けられているため、切り欠けを作ることで通行が可能となっている。この時代の古地図はデフォルメされているので、残念ながらどの位の大きさであったかを古地図から測定することができない。
 藤岡通夫の「京都御所 新訂」(中央公論美術出版 1987年刊)には、寛政度敷地図(宮内庁書陵部蔵写)が所収されている。これによると、清水谷家の敷地は東西29間(57.13m)南北22間半(44.325m)であること、さらに南西角の欠き込みが東西14間7分7厘(29.0969m)で南北9間半(18.715m)と、かなり巨大なものであったことが分かる。そして南門前の道幅が12間(23.64m)であった。これは現在の蛤御門から椋の木までの苑路幅と一致する。
 上記、「京都御所 新訂」によると先の寛政年度造営に、宝永年度造営と比べて南北両方向に対して拡張している。そしてこの南北の長さが、現在の京都御所の規模と一致している。さらに安政度造営においての変更点は、南西と南東の南側築地の両端にある切り欠けがなくなったことである。特に南西角の切り欠けの解消は、前述のように清水谷家に係わる。少し大雑把ではあるが、欠き込みを解消するため、南側築地から幅12間(23.64m)分の清水谷家の敷地を削ったのではないだろうか。これにより、安政度以降の清水谷家の敷地は東西29間(57.13m)に対し南北は10間半(19.7m)という横長な敷地になり、そして屋敷内の北西にあった椋の木は、御所南西角の近くの通り内に残されたと考える。この形状は「京都の歴史7 維新の激動」に添付されている「政治都市=京都の復活」に近い。

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京都御苑 賀陽宮跡 2014年10月8日撮影

 以上をまとめると、清水谷家が御所東側の公家町から賀陽宮邸跡あたりに移ったのは宝永5年(1708)の大火の後であった。さらに西園寺家、中御門家、中院家そして清水谷家の四邸宅の場所には、L字型の敷地をした准后御殿が建設されている。大塚隆の「京都図総目録」(日本書誌学大系18 青裳堂書店 1981年刊)に資料三として所収されている「近世内裏沿革略図」によれば、宝暦11年(1761)あるいはその翌年の状況を描いたと推測される「増補再板京大絵図」には東山院舊殿の南西に当たる公家町に大きな配置替えが行われ准后御殿が出現したと記されている。そして准后とは桃園天皇の実母である姉小路定子(開明門院)であったと思われる。姉小路定子は桜町天皇の典侍であったが、女御の二条舎子(青綺門院)を実母とした。このことにより処遇に問題が生じ、准三宮を経ないで宝暦13年(1763)に院号宣下を受けている。
 さらに安永7年(1778)から天明3年(1783)にかけての公家町を描いている「御築地辺絵図」では准后御殿が新女院御殿に替わっている。准后御殿の開明門院が建春門(日之御門)の西側の女一宮様と呼ばれる地に移っている。寛政元年(1789)に開明門院が逝去すると、この地はアキ地となるが、幕末になって学習所が建つ。つまり学習院の地である。

 新女院御殿の主は一条富子すなわち桃園天皇の女御・恭礼門院である。富子は宝暦5年(1755)に入内し、同9年(1759)に准三宮の宣下を受ける。この年の12月7日に桃園天皇が崩御している。第一皇子英仁親王がまだ幼かったので、皇位は桃園天皇の姉に一時的に譲られ後桜町天皇となっている。明和7年(1770)、英仁親王は後桜町天皇から譲位を受けて即位し後桃園天皇となる。国母となった富子は明和8年5月9日(1771)に皇太后に冊立された。即日院号が宣下され恭礼門院の院号をうける。ただちに落飾して新女院、のちに女院と称する。ちなみに恭礼門院が新女院と称されていた時の女院あるいは大女院と呼ばれていたのは桜町天皇の女御で桃園天皇の実母とされた二条舎子(青綺門院)である。青綺門院が寛政2年(1790)に逝去しているので、新女院御殿が女院御殿に改められるのはそれ以降のことである。

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京都御苑 西園寺邸跡
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京都御苑 白雲神社 2008年5月13日撮影

 清水谷家の3度目の移転は准后御殿造営以前だったと思われる。なお西園寺家が現在の白雲神社の地に移ったのが明和6年(1769)とされている。これは准后御殿が完成した後になる。清水谷家もほぼ同じかそれ以前の頃だと思われる。 さて清水谷家の椋は何時の時期からあったのだろうか、樹齢300年を信じるならば、宝永の大火の後、東山院御所の女院御所に新たに植えたものか、あるいは凡そ60年後に清水谷家がこの地に移ってきた後に植えたものかは、年輪を数える以外に明らかにはならないだろう。

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京都御苑 清水谷家の椋
築地までの距離が近い 2014年10月8日撮影

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