文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御苑 清水谷家の椋 その4

京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その4 2010年1月17日訪問

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京都御苑 清水谷家の椋 2014年10月8日撮影

 京都御苑 清水谷家の椋 その3では、公家門前の戦いに薩摩藩が参戦したことにより形勢が一変し、御所内から長州兵を追い出した上で、圧倒的な火力を以って中立売烏丸通に詰めていた国司軍の後備を掃討している。この項では来嶋又兵衛の戦いぶりとその最期について書いてみる。

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国司軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製

 先ずは末松謙澄著の「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))から見て行く。末松は既に何回か触れたように甲子戦争に至る経緯を詳しく記述しているものの、実際の戦闘については潤色せずに簡潔に記すに留めている。

嵯峨方面に在りては十八日夜半国司信濃兵八百余を率ゐて天龍寺を発し途北野を経一条戻橋に至り軍を分て一と為し一は来嶋又兵衛をして率ゐて蛤門に向はしめ一は中村九郎と共に自ら之を率ゐて中立売門に向ふ時に会津の兵蛤門を守り筑前の兵中立売門を守る筑兵守を失て走る長兵合して一と為り力を蛤門に集め門を破て入る会兵殆ど支へず桑兵の公卿門を守るもの来て会兵を援く此に於て両軍奮戦時あり薩兵乾門に在り横に長兵を突く長兵遂に支ふること能はずして敗れ来島又兵衛等之れに死す

 末松は宍戸左馬介が世子へ送った報告や竹内正兵衛の報告書の一部を引用しているが、実際の戦闘状況についての確認できないこととし、その描写を避けたのではないかと思われる。
 続いても長州側の記述として、中原邦平の「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)を見てみる。

嵯峨の一手と云ふものは、十九日の午前二時頃(昔しの八ッ時であります)天龍寺から繰り出しましたが、何処を通ったか、其の時居った人に聞いても、アノ時は何処から這入ったか知らぬが、北野天神の松が見えたから、アノ方から這入ったらうと云ふことで、其の道筋は能く分りませぬが、来島が蛤御門に向ひ、国司が中立売に向ひました。来島と云ふ人は勇将でありますから、手下にも弱卒はない、且つ力士隊と云ふやうな勇壮な者も居りますから、無暗に蛤御門を撃ち破つて、御所内に進入した、此処は会津が守つて居たが、会津の兵は殆ど将棋倒しに斃されたさうであります、所が薩州の兵が乾御門の方からやつて来て、後ろから撃出した、来島は馬上で、金の采配を以て指揮して居たさうですが、薩州の川路利良と云ふ人が、アノ大将を狙ひ撃ちをしたら勝てると云ふので、来島を狙撃して撃ち落した、其の死骸は力士隊の力士が引つ担いで、山崎に引取りましたが、来島が死んでから総崩れとなりました、嘗て品川子爵から聞いたことがありますが、来島の手下で討死した者は、皆頭を敵の方へ向けて、倒れて居つたと云ふことです、会津の方の届書を見ると、会津兵は非常に死んで居て、コチらの敗軍より死人が多い、ドウ云ふ訳かと云ふと、狼狽へて同士打が多うかつたさうで、自分の先陣が崩れて来たから、先陣に向つてドンく撃つたと云ふことであります。其れから国司信濃の兵は中立売御門を這入つて、勧修寺家の裏門から進んで、筑前の兵を撃ち破り、二番手の会津兵に懸つた、此の時は時刻が遅れて、蛤御門守衛の兵杯が援兵に来て、それが為に遂に撃破られて、散りくに為つて敗走いたしました

 中原は戦闘状況を記述することで、長州兵がどのように御所内に攻め入り、そして守衛兵の抵抗に遭遇し敗れ去ったが明らかになっている。特に来嶋又兵衛が狙撃されて討死したこと、そしてそれを命じたのが薩摩藩の川路利良であったことを明記している。これが来嶋又兵衛の最期の情景の定番となっている。
 またそれ以外にも注目したい点は、中立売御門、公家門前と蛤御門での戦いが何時行われたかという点である。上記の記述によると、先ずは蛤御門を攻略し、次に中立売御門から勧修寺家を経由して御所内に闖入したと読める。そして蛤御門の守衛が公家門前の戦いに加勢したことにより、国司隊の敗戦が決定付けられたという点である。公家門前の戦いは、大砲と共に北側から責下って来た薩摩兵の支援によって決したもので、さらに、この薩摩兵は蛤御門で来嶋隊に致命的な打撃を与えたことで長州軍が総崩れとなったと考えていたが、この中原の記述では蛤御門の戦いは、先に決していたことになる。そうすると誰が来嶋又兵衛を討ち取ったのだろうか?

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京都御苑 蛤御門

 甲子戦争の終結から程なくして記された馬場文英の「元治夢物語-幕末同時代史」(岩波書店 2008年刊)を見てみる。

然る所に長州方、次第々々に御所近く進み来るよし、頻りに註進有ければ、「心得たり」と下立売御門までの間、築地の陰に鉄炮打手の者二、三十人宛まばらに埋伏させ、長州賊をそしと待かけたり。長州方には斯とも知らず、近々と寄かかれば、中川宮の塀の隠より会津勢二、三十人、筒先をそろへて打出せば、矢庭長州方十四、五人打倒され、手負数知れず。長州方は思もよらぬ事なれば、前後に別れ、さつと引き、前へすすみたる長州方の中へ、又続ざまに二、三十発打込ば、又三、四人打倒され、「敵には如何なる謀計有やも量り難し」と少し白けて見へたる所に、大将政久声をかけ、「敵に少の謀略ありとも、何程の事かあらん。伏見・山崎の手も早く乗入れて、有無の勝負を決するとみへたり。此手のみ後れを取りて、諸手の者に笑はれな。参や人々、進めや者ども」と大音に呼はれば、此詞に励まされ、勇み進んで打向ひ、討ども突ども厭ひなく、死骸の上を飛越反越、無二無三に切立れば、会津勢も、敵間近くすすみける故、鉄炮投捨、鑓刀を以て戦ひけるに、長州方の勇猛に切立られ、色めく所へ長州より鉄炮を放し掛れば、会津方も支へ兼、蛤御門の内へ引退く。長州方は勝に乗て追迫れば、御門を閉て墻の上、或は物陰より鉄炮をうち出せば、長州よりも大炮をはなち、御門の際まで推よせたり。
此時会藩、御門をさつとをし開き、筒口をそろへ、二、三十人うちたおし、此勢ひに乗じ、血気の若武者百人ばかり走出れば、長兵は少しも騒がず、踏込々々血戦す。会津方より「久保田半次」と名のり、「一番鑓」と喚はり踊り出、忽ち敵兵二、三人突止しが、長州より放つ鉄炮に中り、亡たり。会津方も「此所を破られては叶ふまじ」と火水に成て防ぎ戦ひしが、二の手の児玉小民部の勢、南の築地を打破り、宮中へ込入しと聞へしかば、是に気を呑れ、怯む所を、得たりと付入、御門内へ乗入ければ、児玉の隊は憤激して、法皇宮旧殿の北、町家との間の墻を押破り、此所より残らず乗入たり。

 既に指摘している通り、久保田半次は窪田伴治のことであり、蛤御門ではなく公家門前の戦いで戦死している。どうも混戦の中で色々と情報が錯綜しているようだ。蛤御門の戦いは、事前に来嶋隊が攻め入ってくることを知っていた会津兵が、御門前面に狙撃陣を敷いて迎撃していたことが分かる。それにも係わらず来嶋隊に押し込まれ、門の内と外での攻防になっている。この時新在家町方向で長州兵の攻撃が起こっている。これは児玉隊が御所内に進入したのか、あるいは前日より石山家に潜入していた長州兵が活動を開始したのかの何れかであろう。この騒動に気をとられた会津兵の隙を突いて来嶋又兵衛は御所内に闖入している。また蛤御門が来嶋によって破られたのを知った「児玉の隊は憤激して、法皇宮旧殿の北、町家との間の墻を押破り、此所より残らず乗入たり。」とあるので、先に新在家町で攻撃を行ったのは潜入していた兵かも知れない。さらに「元治夢物語」は公家門前の戦いと来嶋隊の奮戦を描いている。

長州方は、他家に目をかけず、唐門の前まで進み、既に宮中へ乗入んとの勢ひに見へければ、会・桑支へかね、唐門の居垣内へ逃入所を、長州付入にせんともみ立れば、会・桑必死と成て防げども、既にあやうく見へたるをりしも、戌亥御門の守衛より薩州の隊長吉利郡吉小松帯刀の弟、三百余人の手勢を卒し、大波のうつ如く走来り、長州方の真中へ数百の鉄炮打ち放せば、長州方、何かは以てたまるべき、新手の強兵に横を打れ、備へ乱れてたじろぐ所を、薩州方、得たりと付込、又後手の銃隊、筒口そろへて打出せば、長州方弥よ乱れ立、右往左往にちり失せたり。

 以上、公家門前の戦いに薩摩藩が参戦し守衛側の勝利に決したことを現わしている。続いては来嶋隊の戦いである。

其の虚に乗じ、会・桑方、力を得て備を立直し、長州の中へ鉄炮を打はなせば、長州の兵士夥しく討死し、手負過半に及たり。隊将来嶋又兵衛、麾配振立、「きたなき味方の者どもかな。今死をのがれて、又何れの時をか期すべきぞ。此所を何くと思ふぞや。禁闕の内なるぞ。とても生て帰るべき命にあらず。百騎が一騎に成までも、引な、引な、進めや討や」と大音声に下知すれば、漸く備を立直し、四、五十挺の鉄炮を連発す。是よりしばらく鉄炮戦となり、敵味方とも死人・手負多く出来て、互に勝負付ざりしが、又官軍の方には淀勢・一橋家追々加はりしかば、益々いきほひ盛んに成り、打立れば、長州方は必死と覚悟を極め、僅二、三十間ばかり隔て戦ひしが、薩州の中より打出す鉄炮に、長藩隊将来嶋又兵衛、脇つぼを撃ぬかれ、さしもの強将も急所の深手にたまり得ず、馬よりどふと落ちければ、官軍勇み立、走寄て首を取らんと争ひしかば、手負ながらも強気の政久、「我首を敵に渡さば、此上の恥やあらん。早く我首刎て、本国へ立去よ」と云へども、誰か首を討んとする者なければ、政久、「偖々頼甲斐なき者どもかな」と云ながら自ら刃に貫き死たりければ、甥北村金吾、乱軍の中に伯父の首を取て走去けり。

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薩摩藩邸跡
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薩摩藩邸跡

 激しい銃撃戦の中、馬上の来嶋は薩兵の弾丸を受けて自らの死を悟り自刃して果てたと馬場は記している。ここには西郷や川路の名は出てこない、それこそが戦場のリアリズムであろう。乱戦の中のため、薩摩の誰が来嶋を狙撃したか判明できなかったのである。こうして来嶋の首は甥の北村金吾が戦場から持ち去ったことになっている。
 宇高浩の「真木和泉守」(菊竹金文堂 1934年刊)では下記のように記している。

寅の刻十九日午前四時過、来島の兵三百喊声を発して蛤門に殺到した。会兵は忽ち砲門を開き、且つ小銃を乱射して防戦を努めたが、長兵は宿年の讐敵たる会兵であるから、同じく砲門を開いて大に戦ひ、勝敗遂に決せず、戦ひは将に酣となつた。時に前夜から勧修寺家に潜んでゐた長府藩有川常三郎・金子四郎等三十名、日野家に潜んでゐた長藩士有冨新輔・児玉鑑吉・長松秀鏑等二十名、石山家に潜んでゐた川上彦斎・黒瀬一郎助・萱野嘉左衛門等十七八名、其の他烏丸家に忍んでゐた者も、急に起つて会津藩の後方備へに討ちかゝつた。会津藩は不意を討たれて周章狼狽の状を呈したが、応援の桑名勢は会津藩の敗れるのを見て、砲門を開き来島勢を撃たんとしたが、火薬の装填が余り多かったので、車体が崩れて用をなさなくなつた。此の間に長州方の伏兵等は、石山家塀内の樹木に攀じ登り、会兵を狙撃することが急で、来島隊は勢ひに乗じてドッと蛤御門内に雪崩れ込んだ。会藩士久保田半次は之れを邀へて、一番槍を入れ、長藩士二名を貫きたが、己れは銃丸に中つて斃れた

 後半の記述は「元治夢物語」と同じく、公家門前と蛤御門の戦いが混同しているが、前半では会津藩が、前日から潜んでいた長州藩の伏兵によって撹乱され、遂には来嶋又兵衛に蛤御門を破られたことが記されている。なお来嶋・児玉隊の戦況は以下の通りである。

児玉隊は砲声が轟くに及んで、直に烏丸通下長者町下る東側弁慶良次郎邸より石山家邸内を通り抜け、八条殿前町を北をさして攻めか丶つたので、会津勢は来島・児玉両隊より挟撃を受け、東に向つて敗軍した。八条殿前町は藤堂和泉守の警衛するところで、長藩士久保無二三は唯一騎進んで二三言之れと応接したが、藤堂勢は何思ひけん兵を撤して下立売御門に向つて引揚げた。来島・児玉の兵は、勝に乗じて気勢が大に昻り、之れより進んで凝華洞へ迫らんとしたが、乾門にあつた薩兵吉利郡吉小松帯刀の弟の一隊二百名は、急を聞いて馳せ来り、長軍の中途を撃ちか丶つた。来島又兵衛は之を見て、会兵を捨て丶邀へ戦ひ、桑名勢・淀勢は、薩兵の後ろにあつて之れを応援した。薩兵は百余挺の小銃を連射して、勢いひ猛に攻めか丶り、長兵又之れに対して勇を鼓し、薩州勢の中に割つて入り、遂に双方入り乱れて白兵戦となつた。

 ほぼ「元治夢物語」記述と同じである。児玉隊と合流した来嶋隊は蛤御門を守衛する会津兵を建礼門の方向に押し込んで、凝華洞への攻撃に取り掛かったようにも読める。しかし乾門側から公家門前に押寄せてきた吉利郡吉の薩摩隊を見て、凝華洞殲滅をあきらめ、攻撃を新たな脅威となる薩摩兵に移したとしている。「真木和泉守」の記述は続く。

一たび敗退した会津勢は、薩州勢の来援によつて頽勢を挽回し、再び盛り返して東方より長州勢に攻めか丶つた。来島又兵衛は、長藩隊長中最も驍勇の聞えがある荒武者なれば、彼は馬に跨つて金の采配を打振りながら、叱咤励声して遊撃隊を指揮してゐた。強将の下弱卒なく、会津勢を悩ますこと甚しかつた。薩藩士川路良利は来島を指して、「敵の勇敢なのは彼が為である。彼の大将を狙ひ撃ちにいたせ。然らざれば我軍は負けだぞ」と兵卒を励ました。此の一言によつて来島は遂に敵弾の的となり、一丸飛び来つて深く彼の脇下に命中し、流石の勇者も馬から落ちた。味方の兵士は之れを扶け起して、「傷は浅い大丈夫だ」と励ましたが、来島は、「否俺の命数は之れで尽きた。敵に首を渡してはならぬ」と言ひ、甥北村金吾に首を討たせ、本国に持ち帰らしめた。来島時に年四十九。これより遊撃隊は総崩れとなつて敗退した。

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京都御苑 乾御門
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京都御苑 乾御門

 なお、三原清尭の「来嶋又兵衛傳」(来嶋又兵衛翁顕彰会 1963年刊)も基本的には宇高浩の「真木和泉守」を踏襲している。しかし「来嶋又兵衛傳」と称しているものの、来嶋の思想や行動を明確にしようとする意図のためか、色々な場面に脚色が見られ時代小説と化している。

又兵衛の軍配が蛤門の方向へ強く一二度指向されると、一瞬の後には、急霰のはね散るように無二無三に精兵は会津本体に突入した。又兵衛の芦毛の馬が、敵の真ったヾ中に棹立ちになったかと思うと、その瞬間に筋金入りの棍棒をもった力士隊がなだれのように割り込んでいた。やがて蛤御門の厚い門扉が、音をたてヽ破れた頃には、もう会津軍の混乱は収拾がつかないところまで追込まれていた。大体、会津勢の実力は、その個人個人の気魄において、技量において、よく訓練された遊撃、力士のそれに及びもつかなかったのである。たヾ、兵員だけが多い会津勢が、すでに指揮統制力を失って混乱に陥っているものだから、長州勢からみれば、烏合の衆を追立てるようなものであった。

又兵衛政久は先頭に立って突込んで行く。日頃から鍛錬した戦場のかけ引きは、水際だった追撃戦を演じはじめた。すこし以前、又兵衛が大砲隊に命じて撃たした椋の大木の右枝が、めりめりと裂けて砂煙りをあげて落下した。南門前の大広場は、遮蔽物一つない見とおしである。攻撃する場合において遮蔽物を必要とすることは、鉄炮使用以来戦場の鉄則である。それは、たとえ一本の草であろうと、また僅かの凹みであろうと兵員の消耗を最小限に防ぐことが出来る。

 「元治夢物語」に従った宇高浩の「真木和泉守」を下敷きにして一応、時系列的に整理して戦闘場面をリアルに再現しようとした努力は見られるものの、三原は「会津勢は苦戦に苦戦を重ねていたが、この時会津の驍将野村勘兵衛が、敗勢を挽回せんと桑名兵を指揮して突進してきたものヽ、たヾ一撃のもとに撃ち仆されて桑名兵は全面的に潰走するに至った。」と野村勘兵衛の所属を誤っている。このことが司馬遼太郎の「世に棲む日日」(「世に棲む日日 (三)新装版」(文藝春秋 2003年刊))の誤りに繋がっていったのかもしれない。
 ついでながら「来嶋又兵衛傳」での来嶋又兵衛最期の場面を確認しておく。

鞍上人なく鞍下馬なしというが、人馬一如となった又兵衛の神技は、その入神の槍術とあいまって、ほとんど抗戦する暇を与えない迅速さを示していた。かれの長槍が、もう一瞬の後には薩軍の本陣を薙ぎたてるだろうと思われた瞬間であった。西郷の部下川路利良の狙い弾が、哀れ又兵衛の胸部を撃ち貫いてしまったのである。西郷吉之助が、又兵衛を撃てば必ず勝てると、川路に狙撃を命じたのである。すでに数弾をうけていたが、どうと落馬した又兵衛は、例の剛毅な気性から槍を杖に起ち上ろうとしたが、胸部の致命傷は如何とも出来ない。
「喜多村!介錯せい!」
の最後の言葉と共に、槍の鋒先を逆手に持つと、われとわが手で自分の咽喉に突き立てヽがばっと前に伏せた。これが来嶋又兵衛政久の最後である。
又兵衛の首は、かれの甥喜多村武七が介錯した。そして、それを持って逃れた。また、又兵衛の死体は力士隊の菊が浜(実名片山常吉 美弥郡真長田出身)が敵に渡すのを惜んで肩にして天竜寺に運び、甲鎧着用のまヽ境内に埋めたが、後年嗣子清蔵(亀之進)がこれを発掘し、京都東山の麓霊山に移し、鎧、扇、太刀を収めて遺品として家に留めた。また後程、峨眉山(山口県光市室積町)に会葬した。隊士が退却に際して、又兵衛の遺体を持ち帰ったところからみても、いかに部下から慕われていたかヾ窺知される。

 中原邦平の「忠正公勤王事蹟」は狙撃者として川路利良の名を挙げたが、三原清尭は「来嶋又兵衛傳」において西郷吉之助までも引き出している。長州藩にとっては、あの来嶋又兵衛が乱戦の中で雑兵の放った一発で戦死したという事実を受け入れることができなかったのであろう。
 なお薩摩側の資料に来嶋又兵衛の狙撃あるいは最期の光景を記したものは見つからない。「紹述編年」(「続日本史籍協会叢書 史籍雑纂 一」(東京大学出版会 1912年発行 1977年覆刻))の七月十九日の記述に来嶋又兵衛の名前を見つける事は出来ない。また「柴山景綱事歴」(山崎忠和著 非売品 1896年刊)には、「蛤御門内ニテハ肥後藩高木藤五郎左衛門初メ積屍麻ノ如シ貴島又兵衛ノ屍ハ傍ノ邸ニ暫時横フアルヲ見ル」とし、直接の戦闘場面の描写はない。 また西郷吉之助が鹿児島の大久保一蔵に送った7月20日付けの書簡(「西郷隆盛全集 第一巻」(大和書房 1976年刊)-92)にも戦況と税所長蔵が足に怪我をしたことを書いているだけで、自らの流れ弾による足の傷についても触れていない。

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京都御苑 清水谷家の椋
蛤御門より東山を遠望する 2014年10月8日撮影

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