禁門変長州藩殉難者塔 その3
禁門変長州藩殉難者塔(きんもんのへんちょうしゅうはんじゅんなんしゃのとう)その3 2010年1月17日訪問
禁門変長州藩殉難者塔 その2では、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)を中心に長州兵の戦闘状況を見てきた。いよいよ、この項では相国寺の首塚に葬られたと思われる人物について書いてみる。
薩摩藩戦死者の墓 その3でも書いたように、ここに祀られている人々が明治16年(1883)6月の第13回合祀祭から始まる幕末の志士達の合祀活動から外れているとは考えにくい。 旧長州藩としては、明治21年(1888)5月の第16回合祀祭で長州藩士民601名が合祀されている。安政の大獄で刑死した吉田松陰、池田屋事件で闘死した吉田稔麿から四境戦争で病死した高杉晋作や長州で暗殺された中山忠光までが含まれているが、その中心となるものは凡そ240名の甲子戦争で戦死あるいは自刃した人々である。責任を負って切腹した三家老や斬首された四参謀を含め、久坂玄瑞、寺嶋忠三郎そして入江九一等松下村塾門下生から来島又兵衛までがこの時にまとめて合祀されている。さらに補うように、同年11月に第17回合祀祭が行われ、天王山で玉砕した真木和泉守以下と原道太を含む久留米藩の18名が加えている。ちなみに第16回合祀祭で土佐藩は5名を追加したが岡田以蔵だけは忌避されている。
政府は明治24年11月の第20回合祀祭を以って維新前殉難者の合祀を終了しようとしたが、まだ追加要請が出たため、明治26年(1893)11月に第21回合祀祭を行い、茨城県、熊本県、東京府などの80名を追加している。ここで合祀されなかった主な者とその理由として、窪田伴治、野村勘兵衛、野村藤七郎等が「禁門守衛戦死につき除外」、本間精一郎が「事蹟疑義に渉るにつき除外」、岸静江が「長防の役戦死につき除外」であった。
この後、甲子戦争の守衛側が合祀されるのは、薩摩藩戦死者の墓が建立された大正4年(1915)4月の第39回合祀祭のことであった。
さらに昭和4年(1929)4月の第45回合祀祭では姉小路公知、月性、所郁太郎、住谷寅之助、相楽総三そして伊東甲子太郎等15名、昭和8年(1933)4月の第47回合祀祭では四境戦争において幕府側で戦死した岸静江等浜田藩士が最後の維新前殉難者となっている。そして昭和10年(1935)4月に行われた第49回合祀祭で二本松藩の三浦権太夫が最後の戊辰戦争での殉難者となった。土佐藩の80名が合祀されてから50年が過ぎていた。維新前2876、戊辰戦争4418、維新前後殉難者は合計7399柱となっている。
このように靖国神社への合祀は、50余年という長い時間を掛けて何度も検討が行われてきたので、歴史上実在した人物が選考から落としてしまうことは多くないと思われる。
さて相国寺の首塚に葬られているのは誰だろうか。副碑の建立された明治40年(1907)でも首級21あるいは29と定まっていない。根拠は示されていないものの「幕末維新全殉難者名鑑」には相国寺に葬られた人の名前が記されている。
阿野軍治 義清 国司信濃家来。
元治元年七月十九日烏丸邸前で戦死。二十歳。
京都・相国寺、霊山と山口県楠町万倉峠に墓。靖国。
有川恒槌 紀綱 乃右衛門嫡子。精兵隊。久坂義助勢。
元治元年七月十九日蛤門で戦死。十九歳。
京都霊山、相国寺と下関桜山に墓。贈正五位。靖国。
市川守雄 正直 国司信濃家来朝賀の長男。
元治元年七月十九日蛤門で戦死。三十六歳。
京都・相国寺と霊山、山口県楠町万倉峠に墓。靖国。
河内柳太郎 誠友 国司信濃家来太郎右衛門の長男。
元治元年七月十九日蛤門で戦死。二十三歳。
京都・相国寺、霊山と山口県楠町万倉峠に墓。靖国。
来島植松 高茂 国司信濃中間。
元治元年七月十九日蛤門で戦死。
京都霊山、相国寺と山口県楠町万倉峠に墓。靖国。
佐々木半四郎 尊友 国司信濃家来。
元治元年七月十九日蛤門で戦死。三十六歳。
京都霊山、相国寺と山口県楠町万倉峠に墓。靖国。
佐竹直衛 秀行 周防国分寺家来。文久三年国分寺隊を結成、隊長。
元治元年荻野隊に加わり、七月十九日蛤門で戦死。四十歳。
京都霊山と上京区・相国寺に墓。靖国。
篠原秀太郎 忠孝 篠田とも。国司信濃家来。
元治元年七月十九日醍醐邸前で薩摩藩士川路正之進、
川上助八郎と激闘、傷、死。十六歳。
京都霊山、相国寺と山口県楠町万倉峠に墓。靖国。
柴尾盛衛 光政 国司信濃家来。
元治元年荻野隊に加わり、七月十九日蛤門で戦死。四十一歳。
京都霊山、相国寺と山口県楠町万倉峠に墓。靖国。
兵千代 国司信濃中間。小荷駄付小者。
元治元年七月十九日京都新町中長者町上ルで戦死。二十一歳。
京都霊山、相国寺と山口県楠町万倉峠に墓。靖国。
湯川庄蔵 庄三とも。百四十七石、八組士。遊撃隊参謀。
元治元年七月十九日蛤門で戦死。三十二歳。
京都霊山、相国寺と山口県楠町万倉峠に墓。靖国。
「幕末維新全殉難者名鑑」は、以上11名が相国寺に葬られたとしている。山崎忠和が明治29年(1896)に出版した「柴山景綱事歴」(非売品 1896年刊)の「元治元年大ニ下ニ防戦シタル事」には下記のような記述が見られる。
蛤御門内ニテハ肥後藩高木藤五左衛門初メ積屍麻ノ如シ又貴島又兵衛ノ屍ハ傍ノ邸ニ暫時横フアルヲ見ル此日薩ニ獲ル所ノ首級二十一首数ハ是レカ真実ナリ生擒セラルヽ者廿四人衣服等悉ク厚ク給セサルナシ後各之ヲ国ニ送還ス景綱等朝夕往テ之ヲ慰ス擒中ニ両三人面首寵スヘキ者アルヲ見テ屢贈ルニ財物ヲ以テス宮城殿重富殿二将其得ル所ノ首級ヲ近衛家ノ門前ニ撿ス桂小五郎ノ首ニ姓名ノ付箋アリ当時人皆以テ真トス
柴山の記憶に従うならば相国寺に葬られた首級は21であり、そのほぼ半数の姓名が「幕末維新全殉難者名鑑」に記されている。副碑では「而其姓名亦未得詳之葢湯川庄蔵有川常槌等在其中也」としているように二人とも含まれている。
湯川庄蔵は藩主直属の家臣で藩内門閥士族。馬上を許された上級家臣でいわゆる馬廻組。さらに遊撃隊参謀を勤める147石取である。石高でも桂小五郎に匹敵する家格である。また有川恒槌は有川常三郎という名で「元治夢物語」に出ている。有川は支藩の長府藩士で、文久2年(1862)11月に尊攘派の同志とともに脱藩している。洞3年正月に罪が許され6月に帰藩、8月には精兵隊を組織している。この年の10月に上京し、8月18日の政変以降、久坂玄瑞と行動を共にしている。戦闘の当日、有川は鷹司邸にはいなかったようだ。三原清堯著の「来嶋又兵衛伝」(来島又兵衛翁顕彰会 1963年刊 1992年覆刻)によれば下記のようにして甲子戦争が始まっている。
(前略)前夜から勧修寺家に潜伏していた長府藩有川常三郎、金子四郎以下三十名が塀内から一度に蜂起して、会津勢の後方構えに討ちかヽった。会津勢は思いがけなぬ不意うをうたれ混乱したが、その時、桑名勢がこれ一大事と横側からこの伏兵に向って大砲を向け、一発ぶっ放した。ところが火薬の装填が余り多かったので、車台そのものが吹き飛んで用をなさなくなってしまった。この機会を逸せず、石山家に潜伏していた川上彦介、黒瀬市之介、萱野嘉左衛門等十七八名の長兵は、数本のちしゃの木によじ登り、会兵を眼下に見下して狙撃したので、会兵は完膚なきまでに撃ちまくられた。
これらは来島又兵衛が蛤門内に入る前に起こった公家町内での戦闘であり、この攻撃に気を取られた会津兵は来島の侵入を許してしまい、蛤門の激戦が始まる。蛤門での開戦と同時に、公家町内の民家から押し入った児玉隊は、川上等の先導を得て石山家邸内を通り八条殿の前町に押し出した。来島隊の圧力を受けとめていた蛤門の会津軍は、新たな児玉隊をも支えなければならなかった。このように二面からの攻撃を受けた会津軍は、圧力を逸らすために凝華洞方面に押し込められ、全軍崩壊の危機を迎えた。
この時、乾門より応援に駆けつけたのは嵯峨天龍寺に出張する予定の薩摩軍であった。砲撃を行いながら南に下ってきた薩摩軍によって来島隊の会津掃討の手が緩み、会津軍は兵の建て直す機会を得た。素より人数の多い守衛側は薩摩の支援を得て、勢いを取り返し来島隊攻撃に転じた。苦境を支えた指揮官の来島又兵衛が被弾、自決すると、今度は長州軍の崩壊が始まる。来島隊が敗れると児玉隊が、この方面の攻撃を受けることとなる。「元治夢物語」は下記のように記す。
今朝より息をも次がず働きしかば、身体つかれ、有川常三郎・田中・湯川・奈須等、深入して、討死し、宍戸は重手を被り、追々死亡の者多く出来、落失、始め勢い半ばにも過ざりけり
田中とは田中幾蔵、湯川は湯川庄蔵、奈須は那須唯一そして宍戸は宍戸金之助のことである。前後のつながりからすると、彼等は来島又兵衛の軍ではなく児玉小民部に所属し戦ったように思われる。そして児玉隊に対する最期の攻撃が薩摩軍によって行われたことが、相国寺に葬られていることから分かる。
相国寺に葬られた残りの10名あるいは10余命が誰であったか分からないが、国司軍に加わり7月19日に中立売門、醍醐邸、烏丸通そして蛤門で戦死したと考えられる79名の中に必ずいるはずである。
さて、長州側の甲子戦争によって死亡した者について見てきたが、これはあくまでも直接的に戦闘に参加した者の戦況についてである。たまたま同時期に京阪に滞在した長州藩士に降りかかった厄災は別に説明しなければならない。つまり実際の犠牲者は、これだけに収まらなかった。京都の長州藩邸にいた藩士は戦乱に紛れて逃走、大阪藩邸も話し合いにより、藩邸より退居し無事に帰国している。これに対して江戸藩邸の藩士達は7月26日に全員拘禁し、後に諸藩預かりにしている。預けられた先での苛酷な処遇により病死者が続出し、この江戸藩邸だけでさらに53名が犠牲となっている。
京に出陣した三家老、すなわち益田右衛門介、福原越後、国司信濃は、戦後いずれも帰国している。7月23日、朝廷は幕府に対して長州追討の勅命を発する。これにより、幕府は長州藩主毛利敬親と養嗣子の定広に禁門の変を起こした責任を問い伏罪をさせるため、尾張藩、越前藩および西国諸藩より成る征長軍を編成し、翌8月13日には諸藩の攻め口が定められ芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口より藩主父子のいる山口へ向かうことが決定する。幕府や征長軍内においては厳罰的な案を含めていくつかの案が出されたが、10月24日征長軍総督の尾張藩前々藩主である徳川慶勝は西郷吉之助の案を採用し、長州藩との交渉を任せる。11月4日、岩国に入った西郷は吉川経幹と会談し、三家老の切腹、四参謀の斬首を催促する。これにより11日、徳山藩に預けられていた国司親相と益田親施、翌12日に岩国藩に於いて福原元僴が切腹。同日に佐久間佐兵衛、宍戸佐馬之介、竹内正兵衛、中村九郎の四参謀も野山獄で斬首されている。
「幕末維新全殉難者名鑑」は甲子戦争の終結後から長州征討の恭順の過程で犠牲となった24名の名前を挙げている。三家老四参謀を除く17名には徳山藩士で執政富山源次郎を暗殺しようとして殺害あるいは捕らえられた児玉治郎彦、江村彦之進、井上唯一、河田佳蔵そして信田作太夫、本城清、浅見安之丞の徳山七士。そして9月26日に山口矢原で自死した家老の周布政之助、12月19日に萩野山獄で斬首された楢崎弥八郎、前田孫右衛門、松島剛蔵、毛利登人、山田亦介、大和国之助、渡辺内蔵太の7名が含まれている。彼等は四参謀と合わせて甲子殉難十一烈士と称される。さらに周布政之助とともに正義派と恭順派の沈静化を図ってきた家老の清水清太郎も謹慎となり12月25日に切腹している。この他に恭順派に属していたにもかかわらず、10月1日に暗殺された藩目付役の林郡兵衛の名もある。
「禁門変長州藩殉難者塔 その3」 の地図
禁門変長州藩殉難者塔 その3 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 相国寺 禁門変長州藩殉難者墓所 | 35.0329 | 135.7606 | |
01 | ▼ 相国寺 勅使門 | 35.0306 | 135.762 |
02 | ▼ 相国寺 総門 | 35.0306 | 135.7622 |
03 | ▼ 相国寺 法堂 | 35.033 | 135.7621 |
04 | ▼ 相国寺 方丈 | 35.033 | 135.762 |
05 | ▼ 相国寺 庫裏 | 35.033 | 135.7623 |
06 | ▼ 相国寺 東門 | 35.0319 | 135.7636 |
06 | ▼ 相国寺 東門 | 35.0319 | 135.7636 |
07 | ▼ 相国寺 薩摩藩戦死者墓 | 35.0321 | 135.7641 |
08 | ▼ 後水尾天皇髪歯塚 | 35.0322 | 135.7614 |
09 | ▼ 宗旦神社 | 35.0322 | 135.7626 |
10 | ▼ 相国寺 西門 | 35.0319 | 135.76 |
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