鞍馬寺 その6
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その6 2010年9月18日訪問
鞍馬寺 その5では、鞍馬寺と与謝野鉄幹・晶子夫妻の関係から2人が創設に関わった文化学院の挫折、そして2人の歌碑と冬柏亭を見てきた。ここからは鞍馬寺の教義の推移、鞍馬山と修験者について書いてみたい。鞍馬寺の成り立ちを知る上で、第一に挙げねばならない書物は「鞍馬蓋寺縁起」であろう。これは室町時代に纏められたもので、大日本仏教全集に収録されている。「鞍馬蓋寺縁起」はその名称通り鞍馬寺開創の歴史を綴ったものである。上一と二段に鑑禎上人が鬼女と毘沙門天王に出会った説話が残されているが、この説話は「鞍馬蓋寺縁起」以外に見ることができない。そして三段目より藤原伊勢人が現れる。東寺を造営する中自らの一堂を建立し観音を安置することを願っていた伊勢人は、夢のお告げに従い平安京の北の崔嵬の峰に出かけると白髪の老翁に出会う。老翁は「斯地ハ殊勝第一の霊地也。宜土木の功を課して。伽藍を草建せんとす。」と告げ、「我是此ノ處ノ地主。貴布禰ノ神ノ也。」と名乗る。同様の記述は平安時代末期に成立したと考えられている「今昔物語集」巻11第35話 藤原伊勢人始建鞍馬寺語にも見られる。
「鞍馬蓋寺縁起」に続いて、「鞍馬寺史」も鞍馬寺を知る上で必要な書物と言える。「鞍馬寺史」は大正15年(1926)に信楽真純(香雲)によって刊行されている。鞍馬寺史序において、先代の真晁僧正が寺史の稿本を真純に示し志を継承し完成させることを望んでいた旨が記されているので、この寺史編纂は真純が入寺する大正元年(1912)以前から始まっていたようだ。いずれにしても真純が鞍馬寺貫主となり、伽藍の整備を行い貞明皇后の行啓を得るに至った後に、大谷大学教授で歴史学者であり仏教史学者でもあった橋川正の協力を得て「鞍馬寺史」を纏めている。橋本は第一章の最初に以下のような鞍馬寺開創に関する意見を述べている。
寺伝によればその創立は奈良時代宝亀年間にありとなし、過海大師鑑真と共に来朝したる鑑禎を以て創建者に擬すれども、古書に多く載する諸説の一致するところに拠れば桓武天皇の延暦十五年創立とすべきなり。
また同時に、伊勢人の一私寺に過ぎない鞍馬寺が本尊として毘沙門天という四天王の一人で北方の守護者を祀っていることにも注目している。鞍馬寺創立の役割について、これ以上の言及はないが、貴船神社と鞍馬寺の関係について「地主神と寺院との関係と解せざるべからず。然らばこゝにも亦わが国固有の思想信仰と仏教との調和を計りし苦心の痕を認むべきにあらずや。」と記述している。この記述をどのように理解すればよいのだろうか?貴船神社 本宮でも記したように、貴船の神が祀られたのは奈良時代以前に遡ると推測されている。つまり初期の貴船神社は貴船山を神体山とし清浄な湧水と巨石群を神聖なものと崇めていたと考えられる。しかし平安時代に入ると貴船の状況は一変し、山間部のささやかな地域神であった貴船の社祠が平安京全体の治水や祈雨止雨を担うようになっていく。これは鞍馬寺の創立とそれ程変わらない時期の出来事である。つまり貴船神社を平安京鎮護ための社に昇格させていく過程で、鞍馬寺も一私寺から国家の守護的な役割を担うものになり、それに伴い開創の説話に変化が生じたとのかもしれない。平安京造営以前から都の北を護るために存在していたこと、そして藤原伊勢人と貴布禰神の関係を加えることで貴船神社と鞍馬寺の関係を強化したということだろうか。後に貴船神社は賀茂神社、鞍馬寺は延暦寺の影響が濃くなり、関係性が疎遠になったが平安時代初期にはもっと密接だったのだろう。
ところで創立時の鞍馬寺の宗派についての記述が「鞍馬寺史」には見当たらない。ほぼ同時期に創立した清水寺が法相宗、鑑禎の唐招提寺が律宗であることから考えて南都六宗のいずれかであったと考えるのが妥当であろう。
創立からほぼ1世紀経た寛平年間(889~98)、東寺十禅師の峯延上人が伊勢人の孫にあたる峰直に迎えられ鞍馬寺に入寺する。ここより鞍馬寺は真言宗の寺院となる。峯延は承和8年(841)生まれで延喜20年(920)に80歳で遷化している。峯延上人には大蛇退治の説話が残されている。ある日、山の北の方より大蛇が現れ毒気を吐きながら上人に近づき飲み込もうとした。上人は毘沙門天の大呪を以って加持を行ったところ大蛇は呪縛され倒れてしまった。この大蛇は雄蛇で、もう一匹雌の大蛇が現れたが、暴れることなく鞍馬山の水を守護することを誓ったため許されている。退治された雄蛇は三段に切り裂かれ静原山の奥山に捨てられた。この静原の奥山が現在の竜王岳と謂われている。鞍馬寺の正面にあたる峰で、本殿金堂から翔雲臺越しによく見える。また大蛇が捨てられた場所は「拾遺往生伝」によれば「大虫峰」と呼ばれている。鞍馬寺にとって峯延上人は今も続く竹伐り会のもとを作った人物であり、この頃より鞍馬寺は朝野の信仰を集めるようになっている。これらは伽藍を整備し鞍馬寺の寺院としての形態を纏めあげた上人の功績でもあった。
大蛇退治を行った峯延上人から凡そ250年が過ぎた保延年間(1135~41)、重怡上人によって鞍馬寺の宗派は真言宗から天台宗に代わっている。重怡は承保2年(1075)伯耆(現在の鳥取県)に生まれている。長く比叡山で顕教と密教に通じ、後に鞍馬寺に移ったとされている。上人は53歳の大治2年(1127)から13年間、毎日弥陀の宝号を唱え続け、四千日の間に十二万遍の念仏を唱えたとされている。大治元年(1126)12月19日には鞍馬寺の堂宇を焼失している。早くも翌大治2年(1127)には再建が進み、吉祥天像が造られている。さらに保元元年(1120)には十日間にわたる写経会を行っている。これが年中行事として受け継がれている鞍馬山如法写経会の始まりとされている。この写経から派生した埋塚は、鞍馬寺経塚遺物として昭和8年(1933)に重要文化財に指定され、戦後の昭和30年(1955)に国宝に指定されている。なお経塚からは保元元年(1120)、治承3年(1179)、文応元年(1260)の銘の入った遺物が出土されている。峯延上人と同様、重怡上人もまた鞍馬寺を再興した貫主であった。
現在、鞍馬寺が云う奥の院は元々僧正谷と呼ばれてきた。「日本歴史地名体系 京都市の地名」(平凡社 1977年刊行)には以下のように説明している。
鞍馬寺奥の院不動堂から貴船へ至る鞍馬山中の渓谷。貞治年間(1362~68)頃の「河海抄」に「貴布禰は鞍馬寺鎮守也、鞍馬貴船の間に僧正か谷といふ処あり、薬師不動尊霊験の地なり」とあり、山岳修行者の霊地であった。
ここで云う山岳修行者とは修験道の行者のことで、有髪俗体の法身形、摘髪の報身形、剃髪墨染で僧体の応身形の三種があった。いずれも兜巾を戴き、篠懸および結袈裟をつけ笈を背負い、金剛杖をつき、法螺を鳴らし、山野に露宿して修行していた。いわゆる現代の私たちが想像する山伏である。宮本袈裟雄氏は「天狗と修験者」(人文書院 1989年刊)で、修験者が修めた修験道を下記のように定義している。
修験道は、原始山岳信仰をもとに、仏教・道教・陰陽道などが習合して形成された日本独自の民族宗教であり、且つ山岳修行を通して超自然的・霊的な能力獲得し、それをもとに人々の悩みを究極的に解決しようとする宗教であるといえよう。また「日本の山岳信仰の一形態。山岳に登拝修行することにより並みならぬ験力を獲得する道、かつその力を得たものへの帰依信仰をいう」(日本民族事典」)とも称されているように、山岳修行者、修験者を中心とした宗教ともいえる。
修験道は、原始山岳信仰をもとに、仏教・道教・陰陽道などが習合して形成された日本独自の民族宗教であり、且つ山岳修行を通して超自然的・霊的な能力獲得し、それをもとに人々の悩みを究極的に解決しようとする宗教であるといえよう。また「日本の山岳信仰の一形態。山岳に登拝修行することにより並みならぬ験力を獲得する道、かつその力を得たものへの帰依信仰をいう」(日本民族事典」)とも称されているように、山岳修行者、修験者を中心とした宗教ともいえる。
享保10年(1725)から同19年(1734)にかけて成立したとされている山城名所寺社物語(「新修 京都叢書 第2巻 扶桑京華志・日次紀事・山城名所寺社物語・都花月名所」(光彩社 1967年刊))の巻之四に僧正谷の記述が見られる。
此谷は大天狗僧正坊の住し所といふはあやまりなり 僧正が谷といふは壹演僧正の閑居の地なり 岩石みちく松杉の大木枝をたれしげみをあらそひ月の光りもみへず おほく猿のあつまりいる いにしへ源の牛若丸此山居給ひ
ここに登場する壹演(壱演)僧正とは平安前期の真言宗の僧侶で京都の人である。俗名は大中臣正棟。内舎人となったが二人の兄の死に会い甥と共に出家している。薬師寺の戒明に従い承和2年(835)または3年に受戒している。無欲で居所を一定せず市井や船に身を寄せてきたが、一老女から土地を与えられ太政大臣藤原良房の援助を受けて貞観8年(865)山城国山崎に相応寺を建立する。しかし翌年船上で遷化したため薬師寺で供養が行われた。諡は慈済。
追塩千尋氏の「壱演をめぐる伝承について」(北海学園大学 2016年刊)によれば、壹演は承和から貞観にかけて、皇太后(淳和皇后正子、仁明皇后順子あるいは文徳皇后明子のいずれかは不明)や太政大臣藤原良房の病気平癒を行っている。このことは、平安時代末期に成立したと見られる「今昔物語」巻14第34話に「壱演僧正誦金剛般若施霊験語 第卅四」として残されている。その功から貞観7年(865)に権僧正に直任されている。壹演は加持(「今昔物語」では金剛般若経)を以って皇太后や太政大臣の治療を行い、権僧正まで昇り詰めている。この時の様子は、鎌倉時代末期の正中2年(1325)に成立した「真言伝」(「大日本仏教全集 巻106」)の「巻四 権僧正慈済」に下記のように記されている。
貞観六年。忠仁興ノ病ニ臥コト数日。百方シルシナシ。法師加持ヲ致スニ。病悩忽ニ除コリテ。呪験ヲ得タリ。
この「呪験ヲ得タリ。」から壹演は修験者であったと考えられている。また時の皇太后や太政大臣から依頼されていることは、その能力が既に世に広く知られていたからであろう。「不定居処、居留任意」と称される沙弥や聖であった壹演に権僧正が授けられるのは異例の出来事と考えてよいだろう。本来、権僧正補任には律師や僧都の階梯を経るのが決まりであり、これらを経ないでの特進は一階僧正と呼ばれ、壹演がその初めとされている。
験者が治療行為を行うことについて宮本袈裟雄氏は上記の「天狗と修験者」で「修験道と民間医療」という章を設け説明している。一般的に験者が行う治病法とは、まず病人に護法を憑かせることから始まる。そして病人に憑いている物の怪を一旦憑坐に乗り移らせ、護法を駆使して憑坐の物の怪を排除するという二段構えの戦法である。憑坐とは 依代 となる人間のことで男女の幼童を用いることが多く、護法童子とも呼ばれる。確かに童子に乗り移った物の怪が、童子の口を使って自らの正体を告げる場面をよく見かける。
また宮崎は修験道で行う加持についても以下の3つに分類している。第一は祈り・祀り型で修験者が崇拝する不動明王を始めとする諸神諸仏に祈ることによって病気を治すものである。第二は教化型で、教え諭して霊が本来居るべき場所に霊の本性を返そうとすることである。そして最後の第三は調伏・排除型である。修験者と不動明王のような崇拝対象が一体になって霊を縛り封じ込めることである。これらの加持は、病気は全て疫病神が齎すという民間信仰の上に成り立っている。
上記の「真言伝」の「権僧正慈済」では下記の記述で壹演の業績を締めくっている。
鞍馬寺ノ僧正カ谷。稲荷山ノ僧正カ峯ナトモ。此僧正行ヒ給ケルアトナン申シツタヘ侍ル
壹演が鞍馬山や伏見大社の稲荷山と関係づけられるのは、この「真言伝」成立以降の事である。そのため追塩千尋氏は「壱演をめぐる伝承について」で、このような壹演伝承は12世紀頃に確立し修験者によって伝搬されて行ったと推測している。
以上のように創設時の鞍馬寺の教義が何であったかは分からないものの、ほぼ1世紀経た寛平年間(889~98)頃には東寺十禅師の峯延上人が迎えられ鞍馬寺が真言宗の寺院となっていたと考えられている。さらに250年が過ぎた保延年間(1135~41)には重怡上人によって鞍馬寺の教義は真言宗から天台宗に代わっている。ここから第二次世界大戦が終わるまで、鞍馬寺は天台宗の寺院として青蓮院の支配下にあった。しかし戦後の昭和22年(1947)に信楽香雲貫主が鞍馬弘教を開宗し、2年後の昭和24年(1949)には天台宗からの独立を果たしている。ここから現在まで鞍馬寺では鞍馬弘教の総本山として単立寺院を維持している。この鞍馬弘教の改宗については別の項で改めて説明することとする。
以上のような鞍馬寺の教義の変更と並行して、鞍馬山自体が修験者にとっての修行の場であったことも忘れてはいけない。平安時代に盛んになった修験道は、鞍馬山の天狗伝説あるいは牛若丸伝説が産み出す基盤となっていることは確かである。また現在の鞍馬弘教に与えた大きな影響についても考えてみなければならないだろう。現在、若い人達を惹きつけるパワースポットとしての貴船・鞍馬のイメージも、すでに絶えてしまった修験道の思想が転生したようにも思える。そのように考える上でも、僧正が谷の地名の由来となった壹演権僧正の存在は鞍馬山から決して外すことはできない。
「鞍馬寺 その6」 の地図
鞍馬寺 その6 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
赤● | ▼ 鞍馬寺 金堂 | 35.1181 | 135.7708 |
01 | 鞍馬寺 歓喜院・修養道場 | 35.1139 | 135.7728 |
02 | ▼ 鞍馬寺 仁王門 | 35.1143 | 135.7729 |
03 | 鞍馬寺 普明殿(ケーブル山門駅) | 35.1147 | 135.7726 |
04 | ▼ 鞍馬寺 多宝塔駅(ケーブル山上駅) | 35.1164 | 135.7727 |
05 | ▼ 鞍馬寺 多宝塔 | 35.1167 | 135.7728 |
06 | ▼ 鞍馬寺 寝殿 | 35.1176 | 135.7708 |
07 | ▼ 鞍馬寺 金剛床 | 35.1179 | 135.7709 |
08 | ▼ 鞍馬寺 閼伽井護法善神社 | 35.1183 | 135.7711 |
09 | ▼ 鞍馬寺 光明心殿 | 35.1181 | 135.7705 |
10 | ▼ 鞍馬寺 金剛寿命院 | 35.1179 | 135.7702 |
11 | ▼ 鞍馬寺 翔雲臺 | 35.1179 | 135.771 |
12 | ▼ 鞍馬寺 與謝野晶子・寛歌碑 | 35.1181 | 135.7696 |
13 | ▼ 鞍馬寺 冬柏亭 | 35.118 | 135.7694 |
14 | ▼ 鞍馬寺 牛若丸息つぎの水 | 35.1177 | 135.7691 |
15 | ▼ 鞍馬寺 革堂地蔵尊 | 35.1167 | 135.7728 |
16 | ▼ 鞍馬寺 義経公背比石 | 35.1185 | 135.7678 |
17 | ▼ 鞍馬寺 大杉権現社 | 35.1175 | 135.7669 |
18 | ▼ 鞍馬寺 僧正ガ谷不動堂 | 35.12 | 135.7673 |
19 | 鞍馬寺 義経堂 | 35.1201 | 135.7673 |
20 | ▼ 鞍馬寺 奥の院魔王殿 | 35.1211 | 135.7658 |
21 | ▼ 鞍馬寺 西門 | 35.1207 | 135.7629 |
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