神泉苑
真言宗東寺派 神泉苑(しんせんえん) 2008/05/12訪問
二条城の東大手門を出て、東南隅櫓を見ながら押小路通を西に300メートル進むと左手に町屋の並びの中に塀で囲まれた木々の多い一角が現れる。ここが神泉苑の押小路通側の門となる。
神泉苑は平安京が作られたときに、大内裏の南東に接するように造営された禁苑、すなわち天皇のための庭園であった。当初の敷地はWikipediaの平安京を見れば分かるように、北は二条大通、南は三条大通、東は大宮大路そして西は壬生大路に囲まれた広大な敷地を持つ庭であった。現在の地図上では東は「神泉苑東端線」の石碑が立つ大宮通から、西は二条城の西端を通る美福通あたりの南北500メートル、東西240メートルの敷地を占めていたと考えられる。 史料に初めて現れるのは、延暦19年(800)、桓武天皇の行幸を記した日本紀略の記事である。延暦21年(802)には雅宴が催されたとあり、この頃から神泉苑は天皇や廷臣の宴遊の場となっていたと考えられる。
神泉苑の公式HPでは当時の苑内の様子を「大池、泉、小川、小山、森林などの自然を取り込んだ大規模な庭園が造られており、敷地の北部には乾臨閣を主殿とし、右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などを伴う宏壮な宮殿が営まれていました。」としている。地下鉄東西線建設に伴う発掘調査によって船着場と思われる遺構が発見されている。平安時代初頭、ここでは現在も係留しているような竜頭鷁首の舟を使い、苑池での管弦の宴などが行われていたことが想像される。
天長元年(824)淳和天皇の勅命により東寺の空海と西寺の守敏の祈雨の法力競い合いが行われた。空海は北印度の無熱池の善女龍王を勧請し、日本国中に雨を降らせ、神泉苑の池には善女龍王がお住みになると言われた。これ以降、勝った空海の東寺は栄え、敗れた守敏の西寺は荒廃したとも言われている。
空海以後、神泉苑における密教僧の祈雨修法は盛んに行われ、恵運、常暁、安慧、真雅、教日、宗叡、益信、観賢、聖宝、元杲、元真、深覚、仁海等、鎌倉時代まで20名以上の名僧達が、請雨経法、孔雀経法、太元帥法等様々な修法で祈祷を行ったという記録がある。特に、山科小野の地に曼荼羅寺(現在の随心院)を建立した真言宗小野流の始祖 仁海僧正は、96歳で没するまで9回に渡る祈祷を神泉苑で行い、「雨僧正」と呼ばれていた。
神泉苑では京で初めて公に御霊会が行われた場所でもある。御霊会とは,政治的陰謀によって非業の死を遂げ、怨霊となった人々を慰めるために行われた祭。
貞観5年(863)には疫病が大いに流行り、神泉苑において早良親王、伊豫親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文室宮田麻呂の六つの御霊座が設けられ、御霊を鎮めるために花果が供えられ、読経をはじめ,音楽や舞,雑技などが演じられたと言われている。早良親王については藤森神社の項で触れたように、桓武天皇が平安京に遷都する以前の長岡京造営に関わる暗殺事件の嫌疑がかけられ、淡路国に配流される途中で憤死している。
また貞観11年(869)神泉苑の池で、五畿七道六十六ヶ国に因んで66本の鉾を立てて厄払いをした。これが町衆の祭典として、鉾に車を付け飾りを施して京の都を練り歩く、八坂神社の祇園祭へとつながる。
神泉苑も中世以降は荒廃し、慶長7年(1602)から始まった徳川家康による二条城の造営により、神泉苑の北側の敷地が城内に取り込まれ、湧き水が二条城の堀や池泉に使用されることになった。築城を担当していた京都初代所司代の板倉勝重は、片桐且元や、九州筑紫の僧快我上人(覚雅上人)と共に、規模は縮小されたが神泉苑の再興に尽力した。快我上人は空海請雨の旧縁により、神泉苑が東寺に所属するように取り計らったことが、都名所図会に記されている。図会には、法成就池に善女竜王社と弁天堂があることが読み取れる。多宝塔は天明の大火で焼失し再建されなかった。現在、池の西南にある本堂と方丈はいずれも東寺から移築されたものである。
法成就池の西には、京都神泉苑平八という懐石やうどんちりを供する料理店がある。創業は寛政元年(1789)で、伏見稲荷参道で茶店を開いていた。この地には昭和40年(1965)に出店している。
もともと神泉苑が真言宗の寺院と聞くまでは、鳥居もあるため神社であると思い込んでいた。そして池には竜頭鷁首の舟が浮かび、饗宴も行えるようになっていることを知り、平安時代に行われていたことが、少し形を変えてはいるが現在に引き継がれていることを学んだ。
この記事へのコメントはありません。