随心院
真言宗善通寺派大本山 随心院(ずいしんいん) 2008/05/11訪問
勧修寺から次の随心院までは歩いていくことにしていた。勧修寺の前を南北に走る醍醐道に出ると次の交差点まで進む、その後左にまがり、地下鉄小野駅を越えてそのまま東に歩く。地図の上では分からなかったが東に進むにつれてやや上り道となっている。勧修寺を出てほぼ15分で白壁で囲まれた随心院の駐車場に着いた。
真言宗善通寺派 隋心院門跡
正暦2年(991)弘法大師より8代目の弟子であり真言宗小野流の祖である仁海僧正が、一条天皇から寺地を下賜されこの地に牛皮山曼荼羅寺を創建した。
言い伝えによれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を鳥羽の辺りで探し出し飼育したが程なく死んだ。これを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、寺名は名付けられたという。また仁海は深く宮中の御帰依を受け、勅命により神泉苑にて雨乞の祈祷を9回行い、そのたびに霊験あって雨が降ったため、「雨僧正」とも称された。
その後第5世増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられ、続く6世顕厳の時には順徳天皇、後堀河天皇、四条天皇の祈願所となっている。寛喜元年(1229)東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳が入寺し、後堀河天皇の宣旨により門跡寺院となった。
その後多くの伽藍が建造され、山城、播磨、紀伊などに多くの寺領を有したが応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))によりそのほとんどを焼失した。慶長4年(1599)、九条家出身の24世増孝により本堂が再興された。これ以降も九条二条両宮家より門跡が入山し、由緒を持って寄進再建された。
西に面した総門をくぐると左に白壁、右につつじの刈り込みの参道が続く。右手にはうす紅色のはねず梅が有名な尾の梅園が広がる。
参道の先に随心院の長屋門と薬医門がある。薬医門の先には大玄関があり、表書院そして本堂へと連なる。長屋門は北を向き現在は閉じられている。長屋門の脇には庭園、殿舎拝観入口という立札とともに塀に設けられた小さな門が開いている。その先にある庫裡より殿舎に上がる。
建物内は庫裡より反時計回りの順路で廻る。
本堂は桃山期(1599)の建築で寝殿造り。薬医門・大玄関・書院は九条家ゆかりの天真院尼の寄進により寛永年間(1624~1631)に建造されたと伝えられている。総門と庫裡は宝暦3年(1753)二条家よりの移築である。書院と本堂の間にある能の間は九条家の寄進により宝暦年間(1753~1764)に建造されている。
大玄関から表書院に出ると目の前に苔を敷き詰めた書院庭園が広がる。大玄関と表書院のつながるあたりに植え込み等が配置されているが、書院から見る限り、あまり奥行きを感じられるような造りにはなっていない。大玄関の右横の門より入り、書院庭園を通り抜け本堂方向へとつながる道筋が見える。能の間を過ぎ本堂から庭を眺めると書院前に広がる庭は本堂のために苔を敷き詰めて作られたことが分かるような気がする。
本堂南には池が造られ、大玄関の右横の門からの道筋はここにつながっている。
もとより随心院のある小野は小野氏の領地であった。孝昭天皇の皇子である天押帯日子命を祖とし7世紀前半から平安時代中期にかけて活躍した。近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市内)周辺を本拠とし、山城国愛宕郡小野郷(現在の京都市左京区内)も支配下にあったと考えられている。
小野氏には遣隋使となった小野妹子をはじめ、遣唐使などを務めたものが多く、小野篁や小野道風などを輩出している。
平安前期9世紀頃の女流歌人で六歌仙・三十六歌仙として有名な小野小町は、仁明天皇の更衣で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたといたと言われている。小町には晩年、随心院のある小野の地で暮らしたという説もある。随心院にも小町に関わるものや言い伝えが多数残されている。
都名所図会には
「小野随心院は勧修寺の東なり、曼陀羅寺と号す。真言宗にして、開基は仁海僧正なり。法務は小野御門跡と称す、摂家の御連枝住職し給ふ。」
という由来とともに、小町水、栢の樹、深草少将の通ひ路、桜塚、野色山、員塚などが既にあげられている。また天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会にはほぼ現在の境内の姿が見られる。
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