新島襄旧邸
新島襄旧邸(にいじまじょうきゅうてい) 2008/05/13訪問
梨木神社の鳥居をくぐり、清和院御門の前の広場に再び出る。寺町通を南下する。右手は京都御苑の清和院駐車場が細長く続く。駐車場のさらに奥は仙洞御所である。単調な景色が続くので、府立鴨沂高等学校の角で左に入り、寺町通の一本東の新烏丸通を南下する。
ところで旧九条殿河原町邸はどこにあったのだろうか?九条殿は、閑院宮とともに御所内の南西にあったが、河原町邸は別のものと思われる。鴨川に架かる丸太町橋の西詰めに、昭和7年(1932)京都鴨沂会が創立60周年を記念して建てた碑が現在も残っている。この碑より、“本邦高校女学校之濫觴”である女紅場址が南西150メートルあたりに存在していたことが分かる。濫觴とは難しい言葉だが物事の起こり、起源という意味を持っている。すなわち九条殿河原町邸は碑の示す位置に存在していた訳である。時代は少し下り、明治28年(1895)に制作された京都市図の丸太町橋の西詰めに高等女学校の名称が見える。碑のあった一角が敷地であったと考えてもよいようだ。
府立鴨沂高等学校を通りすぎ、そのまま新烏丸通を南下する。京都市歴史資料館を過ぎたところを西に曲がり再び寺町通に出た角に新島襄旧邸がある。
新島は先ず函館に入り込み、ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと出会う。このカサートキンの協力を得て、米船ベルリン号で函館から出国し、上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、慶応元年(1865)7月にボストンに到着する。
その後、ワイルド・ローヴァー号の船主A.ハーディー夫妻の援助をうけ、マサチューセッツ州アンドーヴァーにあるフィリップス・アカデミーへの入学がかなう。慶応2年(1866)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受け、慶応3年(1867)にフィリップス・アカデミーを卒業、明治3年(1870)にアマースト大学を卒業。これは日本人初の学士の学位取得であった。
このように、多くの新島襄と同世代の若者が、自らの意志で密出国したり、あるいはそれより少し遅れて藩命によって渡航していたりしていた訳である。
日下部はラトガース大学付属のグラマースクールで基礎教育を受け、その後すぐにラトガース大の1年生に編入される。もとより福井藩が期待して送り込んだ人物であるので優秀の上、非常に勤勉であった。そのため学年のトップクラスの成績をおさめていた。しかし卒業を目の前に控えた明治3年(1870)4月に肺結核を患い異国の地で亡くなる。大学は日下部に卒業の資格を認定し、その上に成績優秀な学生からなる米国最古の学生友愛会ファイ・ベータ・カッパの会員にも推挙している。単に日下部の才能を惜しむだけではなく、それ以上に遠く日本から勉強のために来た若者の非業の死を悼む気持ちが強かったのではないかと思われる。またアメリカに到着した日下部を迎えてくれた横井左平太と大平も若くして結核で亡くなっている。異国の地で身を削って勉学を続けることが、現在では想像できないほどの大きなストレスを与えていたのだろう。
明治7年(1874)アンドーヴァー神学校を卒業する。同年10月に開催されたアメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で、日本にキリスト教主義大学を設立することを訴え、5000ドルの寄付の約束を得た。そして帰国後の明治8年(1875)11月29日、高松保実子爵より屋敷を借り受け、官許同志社英学校を開校し初代社長に就任した。これは旧主家の板倉氏が京都所司代を務めていたことから公家華族とも広く親交があったことによっている。開校については京都府知事 槇村正直、府顧問 山本覚馬の賛同を得ていた。新島とJ.D.デイヴィスの2人が教員、元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人の生徒が同志社英学校の始まりだった。高松保実子爵邸は上京第22区寺町通丸太町上ル松蔭町18番地にあり、後に新島襄の私邸となった。
明治21年(1888)11月、新島襄は「同志社大学設立ノ旨意」を全国の主要な雑誌や新聞に掲載し、同志社設立を呼びかけた。そして明治23年(1890)、設立運動のために訪れていた群馬県の前橋で倒れ、静養先の神奈川県大磯の旅館で徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去する。享年46歳であった。同志社が大学令に基づき、大学に昇格したのは大正9年(1920)のことであった。 関西地区で初めての昇格であり、同志社大学文学部(神学科、英文学科)、法学部(政治学科、経済学科)、大学院、予科を開校した。新島の死後30年の時が過ぎていた。
今回は建物を見ることはできなかった。
三方にベランダを巡らし白い壁面に鎧戸がつけられた窓のあるコロニアル様式風の外観をしているが、田の字型プランに真壁造りと構造的には日本建築である。
この建物は新島襄が設計したとも伝えられているが、設計者・施工者とも明らかではない。おそらく同志社教員で医師・宣教師でもあったW.テイラーの助言を得ながら造られたものであろうと同志社の公式HPも考えている。昭和60年(1985)京都市指定有形文化財に指定。
なお新島襄の妻は、同志社英学校を開校した時に協力した京都府顧問 山本覚馬の妹八重である。ここでは詳しくは書けないが、波乱万丈の人生を送った明治の女性である。先日(2009年4月22日)NHKの歴史秘話ヒストリア「明治悪妻伝説 初代“ハンサムウーマン”新島八重の生涯」で紹介されていたのでご覧になった方も多くおられるのではないだろうか。
八重は戊辰戦争後の明治4年(1871)兄の山本覚馬を頼って上洛している。兄の推薦を得て京都女紅場の権舎長・教道試補となり、ここで茶道に親しむようになったと言われている。先にも紹介したように京都女紅場は明治5年(1872)新英学級及女紅場となり、その後、京都府立京都第一高等女学校を経て京都府立鴨沂高等学校となっている。そして明治33年(1900)九条殿河原町邸から現在の地に移る際に九条殿の正門と茶室を移築している。八重は夫の死後、洋式中心であった生活を和式に戻し、茶道を楽しむことが多かったと言われている。これも偶然の巡り会わせなのだろうか?
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