西寺址
西寺址(さいじあと) 2008年05月18日訪問
羅城門遺址のある花園児童公園から再び九条通に戻り、東寺から歩いた距離と同じだけ西に進む。スーパーのある七本松通の角を北に曲がり進む。市立唐橋小学校を過ぎると、ぽっかりと広がる唐橋西寺公園が現れる。
東寺の項でも触れたたように、平安京造営時は、羅城門を入った内側には東西の鴻臚館が建てられ、外交および海外交易の場として使われてきた。この平安京の鴻臚館は筑紫や難波の鴻臚館と比較して、最も遅く建設され、主に渤海使を迎賓していた。北路にて来訪した渤海使は能登客院(石川県羽咋郡志賀町)や松原客院(福井県敦賀市)を経由して都に上る。鴻臚館で入朝の儀を行った後、内蔵寮と交易し、次に都の者と、その次に都外の者と交易をしていた。 嵯峨天皇の弘仁年間(810~824)に朱雀大路を跨いだ七条に西鴻臚館と東鴻臚館として移転し、この地は空海と守敏両雲水に下されて東西大寺院と成り、僧綱所などが置かれたとされている。
守敏は平安時代前期の僧で生没もその出自についても不詳である。大和国石淵寺の勤操らに三論・法相を学び、真言密教にも通じている。守敏は東寺の空海とは何事にも対立していたとされている。東寺が真言密教の道場となっていったのに対し、西寺は鎮護国家の官寺として発展している。弘仁15年(824)淳和天皇の勅命により東寺の空海と西寺の守敏の祈雨の法力競い合いが、神泉苑で行われている。空海は北印度の無熱池の善女龍王を勧請し、日本国中に雨を降らせたとされている。空海に敗れた西寺は、空海に矢を放ったが地蔵菩薩に阻まれたという説話が残されている。羅城門跡の傍らに矢取地蔵が祀られている。この法力競いに勝った空海の東寺は栄え、敗れた守敏の西寺は荒廃したとも言われている。東寺に比べ、西寺はその地形的な条件で不利益があったと思われる。 もともと平安京の西側の右京部分は、桂川の形作る湿地帯にあたり、9世紀に入っても宅地化が進まなかった。朱雀大路より西の京が湿地帯であったため、市民の生活に適していなかった。これに伴い、西寺も廃れていったとも考えられる。正暦元年(990)に伽藍がほぼ焼失し、保延2年(1136)と天福元年(1233)にも再び焼失し廃絶している。
大正10年(1921)国の史跡・西寺跡に指定され、大正15年(1926)には「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ」として西寺阯の石碑が建てられる。昭和34年(1959)からの発掘調査により、金堂・廻廊・僧坊・食堂院・南大門等の遺構が確認され、当初の未指定部分が同41年(1966)に追加指定されている。現在に残る土壇は講堂跡と判明する。現在は発掘時出土した金堂礎石の一部が残るのみで、京都市立唐橋小学校の敷地や講堂跡の都市公園唐橋西寺公園になっている。 京都市埋蔵文化財研究所の公式HPには現地説明会資料として西寺の発掘調査の経過が残されている。最も古い昭和54年(1979)の史跡西寺跡では、唐橋小学校校舎の改築工事に伴う調査として行われているが、既に昭和45年に行われたプール建設の折に東西に延びる築地の存在が確認されていた。特に調査報告書の最終ページに掲載された遺跡の配置図は、東寺の全貌を知る上で分かりやすい。昭和61年(1986)の調査は食堂のさらに北の部分で行われている。これは東寺の東櫛笥小路に対応する西櫛笥小路にあたる。そして昭和63年(1988)の平安京右京九条一坊の調査報告書の表紙の東寺と西寺そして朱雀大路が書き込まれた航空写真は、平安京がどのような規模のものであったかを知る上で最も分かりやすいものである。さらにこの報告書中には、旧西寺の境内で行われた調査の歴史が一覧表として掲載されている。
唐橋西寺公園近くの南区唐橋平垣町には、西寺が小寺院として現存する。
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