東福寺 龍吟庵 その2
東福寺 龍吟庵 (とうふくじ りゅうぎんあん) その2 2008年11月22日訪問
方丈側から偃月橋を渡り切ると、右手の石段の上に即宗院の山門、正面の石段の上には龍吟庵の方丈へと続く表門が現れる。もともと常時公開していないためか、この表門の左手に仮設の券売所が作られている。緩やかな反りを持つ杮葺切妻屋根の表門は、桃山時代に造られ、現在は重要文化財に指定されている。この表門は偃月橋を渡る手前から、方丈の大屋根の手前に美しい姿を現しているが、公開時は券売所が邪魔をしてしまう。ここで拝観券を購入し、斜め右手に続く敷石を進み中門を潜る。右手の庫裏と正面の方丈玄関へと分かれるが、拝観は方丈のみで表門と同じく重要文化財に指定されている庫裏は公開範囲には入っていない。
方丈玄関で下足用のビニール袋を貰い、そのまま方丈の南縁に上る。嘉慶元年(1387)に建てられた龍吟庵方丈は、現存する最古の方丈建築とされ、国宝に指定されている。単層の杮葺入母屋造で、正面7間、梁間5間。中央前面の間・室中の正面を壁とし仏壇を設けないなど、近世の標準的な方丈に到達する以前の様式を見てとれる。また前面に蔀戸を用い、側面にも扉が開く形式は、書院造の中に留まった寝殿造の名残りと見ることもできる。
龍吟庵はこの方丈を中心として、白砂の美しい南庭と白と黒の砂で描かれた東庭、赤砂を敷き詰めた西庭の3つの庭園が築かれ、大明国師座像を安置する開山堂が北側に建てられている。
この3つの庭園は重森三玲が昭和39年(1964)に作庭したものである。東福寺には重森の作庭した庭が多く残されている。昭和14年(1939)に東福寺本坊(方丈)と光明院の庭園が造られ、普門院庭園が修復されている。翌昭和15年(1940)芬陀院の雪舟作と伝わる庭の修復とこれに続く東庭の作庭を行っている。そして龍吟庵の庭の後の昭和45年(1970)より霊雲院の九山八海の庭と寺号に因んだ臥雲の庭を手掛けている。また隣接する泉涌寺本坊(非公開)や善能寺遊仙苑もこれと同じ時代の作品である。重森の年譜でも初期の作品にあたる本坊や光明院から、最晩年の作品となる霊雲院や善能寺までが、洛南の限られた地域で見ることができることは非常に嬉しいことである。
方丈南側の庭は、古の禅宗寺院の南庭を再現したように、ただ白砂を敷き詰めたものとなっている。そして中央に重要文化財に指定されている表門が置かれているのみであるので、無を表現したと言うよりは非常に抽象化した結果として生み出された空間とも見える。龍吟庵が大明国師の塔所であり格式の高い塔頭であること、そして国宝に指定された最古の形式の方丈建築の南庭として考えた時、恐らくこのような原初の形にすることが、最も相応しいと重森は考えたと思う。たとえどのような意匠をこの庭に導き込んでも、それを理由付けることが困難であることを分かっていたのであろう。
南庭が方形となるように、南庭に続く西庭の間には竹垣が築かれている。ここには竹を用いて稲妻形の紋様が描かれている。方丈南庭から時計廻りに西庭に巡っていく拝観者に次の展開の予兆を与えている。
西庭の平面は台形の形状をしている。南庭との間に築かれた竹垣の裏側から始まる。南庭の境界となっていた低い築地塀は、西庭にも廻らされているが、壁の部分の色は異なっている。白砂の美しい南庭には白い壁が使われ、躍動感のある西庭には薄い茶色の壁に変えられている。西庭はこの塀の外側から、圧倒的なボリュームの紅葉した楓の枝々が差し出され、庭の上部を赤い雲のように覆っている。
このような背景を元に西庭には雲の上を飛ぶ龍の姿を、灰色と白色の砂と緑色の立石を使用して描き出している。庭の中央の灰色の砂に配された3つの立石を龍の頭部と角としている。ここから反時計回りに置かれた十数個の石で、嵐を呼ぶ黒雲から頭をもたげた龍の全貌を表現している。白砂の庭の上に灰色のモルタルで線描を行い、その内側に黒に近い灰色の砂を敷き詰め、複雑な砂紋を描いている。このような黒雲は、龍を取り巻くように6ないし7個作られている。庭全体が暗くなり過ぎなく、また龍の姿が灰色の砂で見えにくくならないように、バランスよく塗り分けている。特に頭部に使用した宝船のような「くの字」に折れた石は、まさに黒雲を蹴散らして天上に駆け上っていく龍の躍動感を表現するのに欠かせない形状となっている。紅葉の時期にはこの龍の頭上に赤い雲が覆うような構成となっている。
西庭の北部には竹垣が築かれ、方形の渦巻き紋様が描かれている。螺旋状に上昇する龍の形状をここでも使用している。
方丈の北側には竣工昭和50年(1975)と、まだ新しい開山堂が建てられている。堂内には寄木造の玉眼彩色で等身大の大明国師坐像が安置されている。鎌倉時代作とされ、重要文化財に指定されている。
そして3番目の東庭は、南庭や西庭と比較して小さな、庫裏との間の中庭となっている。一面に鞍馬の赤石を砕いたものが敷き詰めているため、見る者に衝撃を与える。西庭はその絵画的な構成に驚き、この東庭は日本庭園では見かけることが少ない色彩感覚に驚かされる。長方形の庭には北から南側に向けて3・3・3の9石が配されている。中央の石のみ高さが低い横石が置かれ、それを2つの石が挟み込んでいる。この2つの石の外側には3石が囲むように配置されている。幼少時代に病に倒れた大明国師は荒野に捨てられる。国師を襲おうとする狼の群れから二匹の犬が守ったという逸話を表現している。確かに、中央に置かれた横石は病に倒れた大明国師、その両側に置かれた2石は国師を守ろうとした二匹の犬、その両側の6石は荒野を彷徨している狼達を表している。そして白砂や黒砂でなく珍しい赤砂を使用したのは、荒野を表現するためであったのだろう。
ここでも北側のアイストップに竹垣が築かれ、山の紋様が描かれている。
「重森三玲 永遠の求めつづけたアヴァンギャルド」(京都通信社 2007年)には日本庭園歴覧辞典からの抜粋として下記のような一文が添えられている。
「方丈西部の縁側を歩きながら鑑賞すると、竜頭が歩く人々の方向に動きを見せる表現としたことを注意されたい。中庭も動的表現としての枯山水であり、いずれも現代としての永遠のモダンを加味した枯山水として完成したものである。」
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