東福寺 即宗院 その3
東福寺 即宗院(とうふくじ そくしゅういん) その3 2008年11月22日訪問
公開されていないが、即宗院墓地には、道島五郎兵衛、奈良原喜左衛門、田中新兵衛そして中井弘(桜洲)の墓が残されている。
文久2年(1862)4月23日伏見の旅館・寺田屋に集まった薩摩藩尊攘派を鎮撫するため、道島五郎兵衛は大山綱良や奈良原繁と共に島津久光によって使わされた。急進派の有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵の6名が死亡、重傷を負った田中謙助と森山新五左衛門の2名も切腹、さらに大阪藩邸で療養していたため寺田屋に参加できなかった山本四郎も藩命に背き抵抗した後、自害している。以上の9名の遺骸は伏見の大黒寺に葬られている。上方詰めの藩士が亡くなった場合は菩提寺である東福寺塔頭即宗院に葬られるのが通例であったが、この9名は暴徒と見なされていた。またその遺族も庶人に落とされたうえに、親類預かりという処分が為された。しかし2年後の元治元年(1864)には大赦により、士籍を復せられ墓石建立も許された。この時期は、久光が上洛し京都における薩摩藩の政治的位置が確立した時期に一致している。 鎮撫使として寺田屋に赴いた道島五郎兵衛は、有馬新七に組み合われところを橋口吉之丞によって新七とともに刺し殺されたこととなっている。五郎兵衛は、新七とは異なり即宗院に埋葬されている。ちなみに新七の父・有馬正直は、関白近衛忠熈に嫁いだ興子(島津斉興一女)のお付きの家来として在京し京都で亡くなり、即宗院に葬られている。作家の桐野作人さんのHP・膏肓記には有馬正直のこと、新七が墓参のため即宗院を訪れた事が書かれている。道島五郎兵衛は、自らと共に寺田屋で死んでいった有馬新七の父と同じ墓地に、そして新七は南西に離れた伏見の大黒寺で眠っている。
奈良原喜左衛門は寺田屋に鎮撫使として赴いた奈良原繁の兄にあたる。文久2年(1862)8月21日に起きた生麦事件において、英国人チャールズ・レノックス・リチャードソンを刺殺したとされている。さらに翌年の文久3年(1863 )7月に起きた薩英戦争では、海江田信義とともにスイカ商人に扮して敵艦を奪おうと画策するも失敗している。元治元年(1864)の禁門の変に、出水隊の物主として活躍したが、慶応元年(1865)京都二本松の薩摩藩邸で没している。
田中新兵衛の墓がこの即宗院にあるのには違和感がある。
天保3年(1832)生まれの薩摩藩士で、天保5年(1834)生まれの肥後藩の河上彦斎、天保9年(1838)生まれの薩摩藩の中村半次郎、そして土佐藩の岡田以蔵とともに幕末四大人斬りと呼ばれている。
彦斎が天保5年(1834)、半次郎と以蔵が天保9年(1838)生まれのであるので、新兵衛が最も年長であった。
新兵衛は文久2年(1862)に上京している。そして同年7月20日に起きた島田左近暗殺に関与している。左近は安政の大獄の弾圧に加担しただけでなく、文久元年(1861)の皇女・和宮降嫁に際しても政治力を行使している。左近亡き後、京の政情を陰惨な手法で支配した土佐勤王党の武市瑞山と出会い義兄弟となる。その後、土佐藩の岡田以蔵などと共に、閏8月20日に本間精一郎、9月23日には近江石部宿で京都町奉行与力の渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞を襲撃し、暗殺している。
文久3年(1863)5月20日の朔平門外の変で姉小路公知が暗殺される。現場に新兵衛の愛刀が残されていたことにより捕縛される。新兵衛は尋問の隙をついて自刃したため真相は闇の中となった。
この事件は三条実美や姉小路公知などの尊攘急進派公卿を忌避し、後ろ盾となっている長州藩の擡頭を警戒した薩摩藩の仕業であると流布された。さらに新兵衛の自刃が罪を認めたと見なされ、薩摩藩の立場はますます危うくなった。薩摩藩は御所の乾御門警備の任から外され、さらに薩摩藩関係者の九門内往来が禁じられるなど次第に京都政局から排除されていく。この政治的孤立が、会津藩を巻き込んだ文久3年(1863)の八月十八日の政変につながっていくことになる。
姉小路公知暗殺は新兵衛の仕業と考えられているが、どのような動機で行われたかは分かっていない。勝海舟に篭絡されたと考えた破約攘夷派が公知を排除したとも言われているが、その暗殺に藩士が関わったことは薩摩藩としては大きな痛手を負っている。仮に新兵衛が真犯人であったとして単独犯で、ノイローゼの末の犯行とされている。ならばどうして即宗院に葬られたのであろう?それが最初の違和感である。
司馬遼太郎の短編小説集「幕末」(文藝春秋新社 1963年)に掲載されている「猿ケ辻の血闘」では、文久3年(1863)2月22日に起きた足利三代木像梟首事件に連座した会津藩の密偵・大庭恭平が新兵衛の仕業として暗殺している。木像梟首事件で大庭恭平は捕縛され、信濃国上田藩に流罪されている。釈放されたのは戊辰戦争が始まった後であるから、もちろん司馬の創作である。
巨大な旧鹿児島藩士招魂碑の手前には、中井桜洲山人墓所を示す道標が建つ。中井弘は天保9年(1839))薩摩藩鹿児島城下に生まれる。脱藩し浪人となり後藤象二郎や坂本龍馬らと交流する中で、英国への密航留学を行う。帰国後、宇和島藩周旋方として京都で活躍する。新政府においては寺島宗則らとともに外交面で活躍した後、滋賀県知事、貴族院議員を経て京都府知事になる。京都府知事在任中は、第四回内国勧業博覧会や京都舞鶴間鉄道の建設に力を尽くしたが、執務中に脳出血で倒れ、明治27年(1894)享年57で死去する。 鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府は、慶応4年(1868)2月30日に、イギリス公使・パークスは明治天皇に謁見している。宿所の知恩院から御所に向う途上、四条縄手通で三枝蓊と朱雀操の2人が行列に斬り込んでいる。イギリス兵9人に負傷を負わせるが、朱雀は中井弘と斬り合いになり、後から駆けつけた土佐藩参政後藤象二郎に斬殺。三枝も重傷を負ったところを捕縛されている。新政府では三枝らの身分を武士から平民に落し罪人として、3月4日に粟田口刑場で三枝を斬首に処し、朱雀の首と共に3日間晒している。三枝は文久3年(1863)の天誅組の挙兵、慶応3年(1867)高野山義軍に参加しているにもかかわらず、靖国神社にも祀られていない。それでも朱雀とともに霊山墓地に碑が建立されているのは、明治維新以後も節を曲げて生き延びた旧尊攘派の後ろめたさによるものだったのではないか?
先の「猿ケ辻の血闘」が掲載されている司馬遼太郎の短編小説集「幕末」(文藝春秋新社 1963年)は「桜田門外の変」で始まり、「最後の攘夷志士」で締めくくられている。
中井は頭部に傷を負いながらも、パークスらを救った功績により後藤象二郎とともに英国ビクトリア女王から宝刀を贈られている。このあたりの経緯は、作家の桐野作人さんが南日本新聞に寄稿している「さつま人国誌」(http://373news.com/_bunka/jikokushi/133.php : リンク先が無くなりました )に掲載されている。
そして中井は脱藩した薩摩藩の縁の深い即宗院に墓所を求めたことになる。
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