嵯峨野の町並み
嵯峨野の町並み(さがののまちなみ) 2008年12月21日訪問
嵯峨あるいは嵯峨野という地名は、東西は小倉山の東から太秦や宇多野の西まで。南北は愛宕山麓の南から桂川の北までの地域を指し示す。行政地区名としては嵯峨が嵯峨野よりも多いように見えるが、観光地としては嵐山から鳥居本あたりまでの小倉山に沿った社寺が建ち並ぶ地域を嵯峨野と呼ぶのが一般化している。地名の由来には、坂あるいは険しなどの地形に起因するという説と中国西安郊外の巀辥山を嵯峨山と読んだという説があるようだ。
嵐山の町並み項でも触れたように、葛野(太秦)と紀伊(伏見)を本拠地とした渡来人の秦氏によって嵯峨から嵐山にかけて開発が進められたのは5世紀頃のことだと考えられている。これは、延暦13年(794)桓武天皇により平安京に都が定められるよりも、かなり以前のことである。葛野は早くから生産力のある地域となり、桓武天皇が平城京から遷都を検討する際にも外すことのできない候補地となっていた。また秦氏自身もこの葛野の地に都を誘致すべく、財政的にも、技術的にもかなりの助力を行ったと考えられている。
平安遷都後の嵯峨野は、風光明媚なことより天皇や大宮人たちの遊猟や行楽地となった。特に桓武天皇の第2皇子であった嵯峨天皇は嵯峨院という離宮を造営し居住している。その崩御後は外孫の恒寂入道親王が離宮を寺院に改め大覚寺を創設している。元慶6年(882)陽成天皇は「樵夫牧竪の外、鷹を放ち兎を追うこと莫れ」ということで、嵯峨野は「禁野」となった。すなわち嵯峨野は皇室の猟場となり、一般の狩猟ができなくなった。そういう措置があったため、以後貴族や文人などによる山荘、寺院建立が相次ぐ事になる。小倉百人一首文芸苑でも触れたように、宇都宮頼綱や藤原定家もこの地に山荘を造営している。
鎌倉時代中期の建長7年(1255)後嵯峨上皇が亀山殿と呼ばれる離宮を造営している。これが現在の天龍寺の元となっている。文永5年(1268)出家して後嵯峨法皇となり大覚寺に移り、新たな御所・嵯峨御所となる。後嵯峨上皇崩御後、嵯峨御所は亀山法皇から後宇多法皇に引き継がれる。そのため、亀山天皇から後二条天皇までの3代と後醍醐天皇から後亀山天皇までの南朝の4代を大覚寺統と称することとなる。
康永4年(1345)室町幕府初代将軍足利尊氏は、南朝の後醍醐天皇の菩提を弔うために天龍寺を造営している。尊氏が嵯峨野を選んだのは大覚寺統ゆかりの亀山殿がこの地にあったからである。
慶長11年(1606)角倉了以が保津川を改修し、嵯峨を丹波と京都をつなぐ水運の要衝としている。これにより木材などを扱う問屋などが並ぶようになった。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会では嵯峨野を下記のように説明している。
嵯峨野は、大覚寺清凉寺のほとりを北嵯峨といひ、天龍寺法輪寺の辺を下嵯峨となづく、野々宮は其中途なり。いにしへより閑静の地にして、故人も多くこゝにかくれ、秀咏の和歌数ふるに遑なし。
嵯峨十景
叡嶽晴雪 難瀬飛瀑 遍照孤松 愛宕雲樹 五台晨鐘
幡山霊社 嵐嶺白桜 仙翁麦浪 亀緒落月 雄蔵紅楓
野宮神社の項でも触れたように、竹林の小道が分岐する角には、三宅安兵衛遺志の檀林寺旧跡・前中書王遺跡の道標が建つ。
檀林寺は嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が承和年間(834~48)に建立した寺で、皇后自らが招請した唐の禅僧・義空が開山となっている。前述のように嵯峨天皇が嵯峨院を造営し、皇后と共に暮らしたため、皇后も日本で最初の禅学興隆の道場として檀林寺をこの地に創設している。残念ながら皇后の没後の延長6年(928)には焼失し、檀林寺は平安中期に廃絶している。安永9年(1780)に刊行された都名所図会に残されている記述では下記のとおりである。
檀林寺といふはむかし檀林皇后の草創なり、これを嵯峨の御堂と称す。〔唐の義空開基す〕亡廃して此地に浄金剛院を建る。〔今は二尊院の塔頭なり〕
檀林寺の跡に建ったといわれている浄金剛院も現在に残っていないが、財団法人 京都市埋蔵文化財研究所の発掘地図によると嵯峨天龍寺立石町、野宮神社の北東のあたりにあったことが分かる。このことからも三宅安兵衛遺志の碑がこの地に建つのは正しいこととなる。よって滝口寺と祇王寺へ続く道に檀林寺門跡という寺院があるが、別物と考えるほうがよさそうだ。
また前中書王とは醍醐天皇の第16皇子・兼明親王のことである。一時期臣籍降下して源兼明と名乗る。博学多才で前中書王と呼ばれ、甥の後中書王・具平親王と共に並び称され、天禄2年(971)には左大臣となる。貞元2年(977)源昭平を名乗っていた昭平親王とともに勅により親王に復する。この皇籍復帰には藤原兼通・兼家兄弟の争いが関係している。関白内大臣になった兼通は、弟の兼家を大納言に据え置いたまま、従兄弟にあたる藤原頼忠を左大臣に引き上げようとした。そのため左大臣にあった兼明親王を外すために、二品中務(中書)卿に任じている。寛和2年(986)親王は閑職の中務卿を辞し、嵯峨に隠棲するため山荘雄蔵殿を造営している。山荘に清泉が無いのを嘆き、亀山の神に祈って霊泉を得られたことが「本朝文粋」に記されている。天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の兼明親王亭の項には下記のように記されている。
今野の宮の南に旧蹟あり。此親王は延喜帝第十六の皇子にて、文学詩賦に達したまふ、右大臣に任ず、此地に閑棲の起は貞元二年の夏、関白兼道公のはからひにてかの官職をとゞめて中務卿に任ず。
また安永9年(1780)に刊行された都名所図会のニ尊院の項にも、以下のように記されている。
当院は嵯峨天皇芹河野に行幸の時、ならびなき勝地なりとて此所をひらき給ひ、華台寺ならび二尊教院と号せり。夫より連綿として無双の霊場となる。其芳躅をしたひ、醍醐帝の皇子兼明親王此ほとりに山荘を営、雄蔵殿と称す。
雄蔵殿も二尊院から野宮の辺りにあったことが分かる。
ちなみに後拾遺和歌集に親王の歌が残され、古典落語の道潅の本歌となっている。
七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞかなしき
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