清凉寺 その2
浄土宗 五台山 清凉寺(せいりょうじ) その2 2008年12月21日訪問
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には江戸時代中期の清涼寺の境内が描かれている。これと清涼寺の拝観の栞にある境内図を比較すると、仁王門、本堂、阿弥陀堂、方丈そして多宝塔の位置関係が同じことが分かる。それ以外にも八宗論池や嵯峨帝塔、融大臣塔、愛宕社、薬師堂もまた江戸時代中期から継承されている。
一条通に面した仁王門の左には5つの道標が建つ。右側から、小楠公御首塚の寺、三宅安兵衛遺志の源融公栖霞観地、小倉山・二尊院西二町、嵯峨帝陵東北十六町、御室・北野方面が並ぶ。これらの碑を見ながら仁王門を潜り境内に入る。本堂は仁王門の軸線上の正面ではなく、やや右手側に配置されている。元禄14年(1701)に再建された単層入母屋造本瓦葺で、桃山建築の名残を示す豪華さを現している。本堂の東側には、江戸時代も押し詰まった文久3年(1863)に再建された阿弥陀堂がある。この堂宇は西向きに建てられている。これら清涼寺の伽藍の中核を構成する堂宇の北東に方丈と庫裏が配されているが、それ以外にも実に多くの堂宇や墓が境内に並んでいる。これは源融の棲霞寺が奝然の清涼寺を受入れ、宗派も華厳宗から浄土宗と改宗した清涼寺の変容の歴史を体現しているのかもしれない。
まず本堂の左手前に元禄16年(1703)に建立された多宝塔、嵯峨天皇と檀林皇后宝塔、源融の墓と伝わる宝篋印塔、そして開山の奝然の墓などが見える。
門前に建つ碑の一つである嵯峨帝陵東北十六町の道標には、嵯峨帝陵 東北十六町、後宇多帝陵 東北十六町、今林陵 東北三町、清和帝陵 西北二里十一町、後亀山帝陵 西北八町、檀林皇后陵 西北二十二町と多くの陵の位置関係が記されている。嵯峨天皇陵すなわち嵯峨山上陵は、大覚寺の西北、直指庵の西に位置している。また檀林皇后嵯峨陵は嵯峨鳥居本のつたやの三叉路を西に入っていった奥にあるようだ。つたやの脇に建つ清和天皇水尾山陵の道標には、この道が清和天皇水尾山陵とともに嵯峨天皇皇后嵯峨陵の参道であることを記している。 深く仏教に帰依していた檀林皇后は、六道の辻にある西福寺に残る檀林皇后九想図のように帷子ノ辻で風葬されたという伝説も残されているが、実際のところは遺言により薄葬されたようだ。しかし宮廷による山陵祭祀も適用されなかったためか、江戸時代以前はこの清凉寺の宝塔が檀林皇后陵とされて法要も行われている。檀林皇后嵯峨陵は明治に入ってから治定され、現在のような石造の鳥居のある標準仕様に整備されたものである。檀林皇后の遺志よりは山稜整備の方が優先された結果とも思える。 多宝塔の奥には法隆寺・夢殿を燃した八角の堂宇の聖徳太子殿がある。開山の奝然は秦氏の出身であることからも、太秦の広隆寺のような太子信仰が残されているのだろうか?それにしては堂宇が新しい。
もともと境外墓地にあった奝然の墓を昭和60年(1985)の釈迦如来造像1000年を期に、境内に移建している。また旧寺院地蔵院墓地には円覚上人の石幢とする浄瑠璃や歌舞伎で有名な大坂新町扇屋の夕霧太夫の墓がある。太夫の出身地は諸説あるが、現在の京都市右京区嵯峨の近くであるともいわれている。
一方、棲霞寺の元となる別荘・栖霞観を建てた源融の墓とされる宝篋印塔も檀林皇后の宝塔の南に残されている。清凉寺の拝観の栞には、棲霞寺開山淳和天皇の皇子である恒寂法親王の墓ともいわれるとしている。恒寂法親王は恒貞親王であり、大覚寺の開山である。兄の嵯峨天皇の皇子が源融であり、弟の淳和天皇の皇子が恒寂法親王である。時代的には近いが墓の主としては大きな違いである。
法然房源空24歳求道青年像は、保元元年(1156)の時、清涼寺釈迦堂で7日7夜の参籠を行った故事に因んで建立されている。浄土宗の公式HPに掲載された法然上人の略歴によると、承安5年(1175)法然は西塔黒谷を出て西山広谷に移り、やがて東山大谷に住している。この時期を立教開竣の年とするか、建久2年(1191)頃を立教開宗の頃とする2つの説を併記している。いずれにしても清凉寺での参籠はそれよりかなり以前の出来事であり、比叡山での修行中から天台宗の影響下にあった時期と考えられる。清凉寺が現在の浄土宗に改宗されたのは、享禄3年(1530)円誉が入寺してからのこととされているため、かなり後の時代の出来事であった。 狂言堂は年に数回開催される嵯峨大念仏狂言の舞台である。大念仏狂言は、演者・囃子から裏方までを全て民間人の手によって行われる仮面劇である。融通念仏と大念仏会に連なる宗教的な説話を無言で演じることが特徴である。平安時代後期の天台宗の僧・良忍の「一人の念仏が他人の念仏と通じ合い、より大きな功徳を生み出す」という考えに従い、集団で念仏を称える大念仏会が生まれた。良忍の事蹟と融通念仏の様子を描いた融通念仏縁起絵巻が清凉寺にも伝わっている。この絵巻は応永24年(1417)頃に粟田口隆光によって製作されたと考えられているが、下巻第十段には清凉寺で行われた大念仏の様子が描かれている。
詞書には清凉寺の大念仏会が円覚上人によって弘安2年(1279)に開始され、「洛中辺土の道俗男女雲のごとくにのぞみ、星のごとくにつらなりて群集」したと記されている。
薬師寺本堂の南にある鐘楼は江戸時代の建築であるが、梵鐘は文明16年(1484)11月吉日の銘とともに寄進者が第8代将軍足利義政、日野富子、第9代将軍足利義尚そして堺の商人であったことが分かる。この時期には既に、義政から義尚に将軍職は渡っている。
本堂の右手前に八宗論池と一切経蔵がある。八宗論池は弘法大師が南都八宗の学僧を論破した故事に因んで名付けられた方形の池である。これは先に触れた都名所図会にも描かれている。一切経蔵は徳川時代中期の建築で、傅大士と笑仏を祀る。傅大士とは中国南北朝時代の在俗仏教者で双林寺を建て大蔵経を閲覧する便を図り、輪蔵を創始した。拝観の栞を見る限り、この一切経蔵にも、回転させることができる大蔵経を収納した八角形の書架を持った輪蔵があるようだ。この経蔵を回転させると、経典を読誦したのと同等の御利益が得られるものと信じられている。傅大士はこの輪蔵の発明者として経蔵に像が置かれることが多いようで、俗に笑い仏ともいわれる。京都ではこの清凉寺の他、西本願寺や知恩院で見ることができる。 この一切経蔵の手前には源昇の墓とされる宝筐印塔がある。源昇は平安時代前期の公卿で、源融の子で六条河原院を相続している。
本堂に上がり拝観をお願いする。本堂の東側の縁に出て、本堂の北側に廻ると、2つの島がある瓢箪型の放生池が現れる。西の島には石造多層塔が配されている。この石塔の地下には1万個を越える1石1字の写経石や戦跡で集められた小石が納められ、戦争犠牲者の霊を弔う忠霊塔となっている。東の島には正面に小さな軒唐破風を持つ宝形造の弁天堂がある。放生池と弁天堂を眺めながら渡り廊下を進むと方丈に続く。本堂の東後方には、この方丈と庫裡そして澄泉閣が並ぶ。方丈は寛永14年(1637)に類焼し、享保年間(1716~35年)に再建されている。焼失する前の建物は、徳川家康の息女一照院の位牌所として建てられている。方丈の南庭は小堀遠州作とされている。
「清凉寺 その2」 の地図
清凉寺 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 清涼寺 仁王門 | 35.0227 | 135.6747 |
02 | ▼ 清涼寺 本堂 | 35.0235 | 135.6742 |
03 | 清涼寺 阿弥陀堂 | 35.0235 | 135.6748 |
04 | 清涼寺 一切経蔵 | 35.0232 | 135.6749 |
05 | 清涼寺 八宗論池 | 35.023 | 135.6747 |
06 | ▼ 清涼寺 多宝塔 | 35.0228 | 135.6743 |
07 | ▼ 清涼寺 聖徳太子殿 | 35.0226 | 135.674 |
08 | 清涼寺 狂言堂 | 35.0229 | 135.6738 |
09 | 清涼寺 鐘楼 | 35.0231 | 135.6739 |
10 | 薬師寺 本堂 | 35.0233 | 135.6738 |
11 | 清涼寺 西門 | 35.0231 | 135.6736 |
12 | ▼ 清涼寺 弁天堂 | 35.024 | 135.674 |
13 | ▼ 清涼寺 方丈 | 35.024 | 135.6746 |
14 | 清涼寺 庫裡 | 35.0239 | 135.6748 |
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