嵯峨野の町並み その2
嵯峨野の町並み(さがののまちなみ)その2 2009年11月29日訪問
既に嵐山の町並みや嵯峨野の町並みで記したように、地名としての嵐山は桂川の右岸の西京区を指す。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会の嵐山の項でも下記のように記している。
嵐山は大井川を帯て北に向ひたる山なり。 亀山院吉野の桜をうつし給ひし所とぞ
そして渡月橋を手前にした桂川の右岸地域の図会を掲載している。このことからも少なくとも江戸時代中期頃から現在と同じ地理的な認識であったことが分かる。
嵯峨あるいは嵯峨野という地名は、東西は小倉山の東から太秦や宇多野の西まで。南北は愛宕山麓の南から桂川の北までの地域を指し示す。行政地区名としての嵯峨は、嵯峨野よりも多いように見えるが、観光地としては嵐山から鳥居本あたりまでの小倉山に沿った社寺が建ち並ぶ地域を嵯峨野と呼ぶのが一般化している。
葛野と紀伊を本拠地とした渡来人の秦氏によって嵯峨から嵐山にかけて開発が進められたのは5世紀頃のことだと考えられている。葛野は早くから生産力のある地域となり、桓武天皇が平城京から遷都を検討する際にも外すことのできない候補地となっていた。また秦氏自身もこの葛野の地に都を誘致すべく、財政的にも、技術的にもかなりの助力を行ったと考えられている。
平安遷都後の嵯峨野は、風光明媚なことより天皇や大宮人たちの遊猟や行楽地となった。特に桓武天皇の第2皇子であった嵯峨天皇は嵯峨院という離宮を造営し居住している。その崩御後は外孫の恒寂入道親王が離宮を寺院に改め大覚寺を創設している。元慶6年(882)陽成天皇は「樵夫牧竪の外、鷹を放ち兎を追うこと莫れ」ということで、嵯峨野は「禁野」となった。「京都の地名由来辞典」(東京堂出版 2005年刊)によると、はじめ北野と呼ばれたこの地では、平安時代編纂の「類聚国史」には桓武天皇が遊猟した記述が残されている。そして上記の元慶6年(882)以降禁野となり、以来嵯峨野と呼ばれるようになったとしている。
また、先の都名所図会の嵯峨野の項には下記のように記されている。
嵯峨野は、大覚寺清凉寺のほとりを北嵯峨といひ、天龍寺法輪寺の辺を下嵯峨となづく、野々 ゝ宮は其中途なり。
ここからは、渡月橋の南、嵐山の一部分である法輪寺までを含んで嵯峨と呼んでいたことも分かる。また、やや遅れること天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会には、
嵯峨野とは北嵯峨、上嵯峨、下嵯峨の惣名なり。
嵯峨野と嵯峨を区別した上で、北、上、下に分類していたことがわかる。現在でも北嵯峨という地名は広沢池から大覚寺にかけて存在しているが、上嵯峨や下嵯峨の区別は地名としては残らず、嵯峨が頭につく町名になっている。
Wikipediaでは嵯峨野の地名の由来を、坂あるいは険しなどの地形に起因するという説と中国西安郊外の巀辥山を嵯峨山と読んだという説に求めている。しかし「京都の地名 検証 風土・歴史・文化をよむ」(勉誠出版 2005年刊)によると、サガは「ささなみの志賀」「白須加の須加」「真管よし曽我の川原」「清々し清宮」などのシガ・ソガ・スガと同意の地形語で、渕や瀬の多い水辺の地名としている。さらに新洲川が有栖川になったように、嵐山(アラシヤマ)から嵐山(ランザン)、洲処から嵯峨・栖霞などの唐風雅名に転じたと推測している。
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