松尾大社 蓬莱の庭
松尾大社 蓬莱の庭(まつおたいしゃ ほうらいのにわ) 2009年12月9日訪問
松尾大社の「曲水の庭」と「上古の庭」を拝観した後、磐座登拝入口の前を経て、霊亀の滝と滝御前社に至る。再び御手洗川に沿って神輩所横から出る。一之井川を東側に渡り楼門を潜り出た先には二之鳥居が見える。その手前左手に客殿があり、その脇に蓬莱の庭の入口がある。
現在の蓬莱の庭に面した場所に客殿が建設されたのは、それほど古い時代ではなかったようだ。
「松尾大社境内整備誌」(松尾大社社務所 1971年刊)に掲載されている数枚の絵図を参照すると、室町時代の初期頃より2階建ての楼門の南北に塀が建てられ、神域として東西を分けていたことが見て取れる。勿論、楼門から桂川右岸までも当時の松尾社の神苑であり、先の絵図にも民家等は描かれていないため、実質的に支配していたと考えられる。この後、元禄14年(1702)に作成された絵図は楼門と塀の関係が、先の室町初期の絵図と異なっているが、約80年後の寛政元年(1789)に奉行所に提出した社頭絵図の控えでは、やはり楼門の南北に塀が巡らされている。寛政元年の絵図はその制作目的により社殿等の建物規模が記されているため、元禄14年の鳥瞰図絵よりは精度が高い。
この寛政元年に作成された絵図の楼門より東側には、現在の職舎の位置にあったと思われる客舎しか描かれていない。さらに明治20年(1888)頃までの建物調書にも記されていないことより、明治末期に神池とともに作られたと考えられている。5間4間と3間4間の2つの平屋瓦葺の建物を継ぎ合わせ、玄関を付けた建物形状より、既存の建物を利用して建てられたものと考えられているようだ。集会所として使用され、昭和34年(1959)庇屋を設けて、潔斎所、便所、小使室に充てている。境内整備で参集殿が竣工したため、同名を避けるため現在の客殿に改められている。
「松尾大社境内整備誌」には重森三玲が作庭する以前の昭和46年(1971)10月1日付けの境内図が掲載されている。これには社務所西庭とともに客殿の庭として神池が描かれている。
重森三玲が入院したため河田晴夫宮司より細部の意匠設計と工事監理を委嘱されたと、交代の経緯を重森完途は「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)で説明している。松尾大社 松風苑 その2でも記したように、昭和50年(1975)の1月から2月にかけてのことだと推測される。既に新春より池泉の掘削工事には着手していたようだが、完途が石組を開始するのは2月28日からである。重森完途は蓬莱の庭施工前の神池の様子を下記のように記している。
この池泉庭園の場所は、もともと明治中期頃に池庭が拵えられていたが、荒廃を重ねており、庭石もなく、庭樹は乱れて、アヤメだけが、わずかに池泉のうるおいとなっていた場所である。
古代中国では人の命の永遠であることを神人や仙人に託して希求してきた。不老不死の仙人や神人の住む海上の異界や山中の異境に楽園を見出し、多くの神仙たちを信仰し、また神仙に至るための実践を求めようとした。これらは道教思想の基礎となり、民間の説話や神話の源泉となっている。
蓬萊は仙人が住むとされている東の海上にある仙境の1つ。中国では五神山、すなわち蓬萊、方丈、瀛州、岱輿、員喬があったが、やがて岱輿、員喬は流れて消え去り、蓬萊、方丈、瀛州の東方三神山に変わって行く。徐福が秦の始皇帝の求めに応じて不老不死の霊薬を探すために船出したのも、東方三神山を訪れることが目的であった。
このような神仙蓬莱思想が中国から日本に入ってきたのは飛鳥時代とされている。日本でも神仙思想に基づいた庭園が多く作られたと考えられているが、残念ながら当時の姿をそのまま現在に残す庭園がない。飛鳥宮庭園跡や島庄遺跡などが発掘され、日本最古の庭園の姿が次第に明らかになってきた。また平城京左京三条二坊宮跡庭園や平城京東院庭園などが発掘復元されたため、私たちにも奈良時代の庭園を直接目にすることができるようになった。
その後、極楽浄土の庭や禅の庭などが渡ってくるが、その中にも必ず鶴や亀が入るようになる。例えば龍門の滝の横に鶴島亀島があり、蓬莱山も現れる。また禅の庭にも蓬莱山が混在する。これらが日本の庭園を分かり難くしていることは確かであるが、それだけ神仙思想が日本人にとってなじみ深いものになっている証でもある。恐らく神仙思想の中核となっている不老不死への希求にあるのではないだろうか。すなわち、異なった思想の庭が作られるようになっても、根幹の部分には神仙思想が必ず残されるようになっている。ちなみに鶴や亀は長寿の動物とされ、長寿延年を祈願するために用いられている。
上代に造られた信仰の対象としての神池・神島を除くと、池泉庭園は舟遊びを主として意匠されてきた。このことは平安期の記録や諸文献からも明らかである。しかし武家が政権を握るようになると、廻遊的な要素が池泉に加えられて行く。貴族文化の文学的教養に対して、武道と禅的修業が武家にとって必要となったためと、重森三玲は「日本庭園史大系3 鎌倉の庭(一)」(社会思想社 1971年刊)で説明している。ただし詩歌管弦の舟遊びが完全に禁止された訳ではなく、禅的修業としての歩行を中心とした廻遊が次第に大きくなって行った。そして鎌倉初期を過ぎると舟遊びは行われなくなり、廻遊だけの意匠によって池泉がデザインされるようになる。ここから大和絵的な「作庭記」伝のものと、北宋山水画としての墨画形式を示す蘭渓道隆の流れを汲むものが現れる。
蓬莱の庭は、上記のように鎌倉中期以降の回遊式池泉庭園をイメージして造られた現代庭園である。石組からは禅宗寺院の枯山水のような厳しさと力強さを感じるが、池泉の入江に見られる曲線には大和絵の優美さも見える。
どうしても三玲の庭というと白砂や赤砂を用いた枯山水の印象が強い。そのため池泉庭園は珍しく感じる。その中でも晩年の作品である泉涌寺善能寺の庭とともに印象深い作品になっている。北側の滝石組が築かれ、西にむけて流れを設け、自然石の石橋を架けている。この石橋は観賞用ではなく、廻遊路の一部として使用されている。池泉の岸は州浜の意匠としているが、ここでは汀まで玉石を敷き詰めるのではなく、モルタルで護岸をつくりその中に白砂あるいは玉石を敷き詰める現代的な手法で表現している。池泉には蓬莱島を中心とした中島四島と岩島を随所に配している。護岸石を用いずにモルタルで形成された中島はスギゴケと石組で構成されているため、平面的な州浜の中から立体的に浮かび上がってくる。池泉には見事な形状の舟石も配されている。
中田勝康氏の「重森三玲庭園の全貌」(学芸出版社 2009年刊)によると重森三玲は生涯で15の龍門瀑を手掛けているらしい。中田氏は三玲が作った龍門瀑の中でも最も立体的な構成であり、完全に立ち上がった巨大な鯉魚石に新しい意匠を見ている。設計者に替わり、この庭の施工を手掛けた重森完途は昭和50年(1975)2月28日から石組に着手している。当日には水落石、滝添石、咽喉石等を組上げている。この巨石を用いた龍門瀑は、蓬莱の庭の規模に合わせて設計されたものである。龍門瀑を組上げた完途は、一旦東京の自宅に戻り、3日間を開けて再び石組を行う。このようにして、「松尾大社境内整備誌」によると1週間程度で石組を完了したようだ。「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」には、設計者=重森三玲が監理すれば、こしたであろうと思われるものを細部意匠の決定を行ったとし、具体的には滝石組、池泉石組、野筋の意匠とその素材、刈込の形態、池泉の緑と廻遊路の色彩意匠等をあげている。
池泉は南北に細長く意匠され、岩島などにも大きな石が用いられているため、穏やかな海原というよりは、あたかも仙人が住むような異相の海を表しているようにも見える。池泉の水深は平均して40センチメートル程度である。水は一之井川から引いたもので、当初から魚が入っていたようだが、現在では鯉が飼われている。滝は池泉の水を循環させている。
蓬莱の庭の庭石も、上古の庭や曲水の庭と同じく緑泥片岩が用いられている。植栽は在来からあったものを多く用いている。すなわちアカマツ、クロマツ、カシ、サクラ、ツバキ、スギ、モミジで、野筋の植栽はヒメツゲやサツキで、刈込みの意匠は重森完途が行っている。地被はスギゴケとともに高麗芝も用いている。
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