京都御苑 祐ノ井
京都御苑 祐ノ井(きょうとぎょえん さちのい) 2010年1月17日訪問
縣井、染殿井に続き京都御苑内三つ目の井戸として祐ノ井を訪ねる。御所の東北角の猿ヶ辻については後で紹介するとして、祐ノ井はその猿ヶ辻のさらに北東にある。木村幸比古氏監修の「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊)を見ると、今出川御門から石薬師御門の間の公家町には、桂宮、一乗院宮、河端、鷲尾、中山、滋野井、藤波、樋口などの名前が並ぶ。この内の中山は中山慶子の父である中山忠能の邸宅があった場所で、今に祐ノ井が残る地となっている。
中山慶子は天保6年(1836)権大納言・中山忠能の次女として生まれている。八瀬に里子に出されていたが、17歳で典侍御雇となり宮中に出仕する。父の忠能は文化6年(1809)生まれで、弘化4年(1847年)には権大納言になっている。嘉永6年(1853)ペリーが来航し通商を求めた際には攘夷論を主張し、条約締結を巡り関白九条尚忠の批判を行っている。さらに安政5年(1858)江戸幕府老中の堀田正睦が上洛し条約の勅許による許可を求めた際には、正親町三条実愛らと共に廷臣八十八卿列参事件を起こしている。安政の大獄においては、同じ権大納言の実愛が慎十日にあったのに対して忠能は罪を免れている。安政5年(1858)5月10日には議奏を兼帯している。公武合体派の公家として万延元年(1860)和宮と14代将軍・徳川家茂の縁組の御用掛に任じられ、翌文久元年(1861)和宮江戸下向に随行する。これが尊皇攘夷派の憤激を生み、文久3年(1863)1月27日に議奏を解かれ、翌2月14日には権大納言を辞任している。元治元年(1864)長州藩が挙兵した禁門の変すなわち甲子戦争において忠能は長州藩を支持したため、変の終結後、孝明天皇の怒りを買い処罰されている。朝廷への復帰は慶応2年(1866)孝明天皇崩御まではなかった。
嘉永4年(1851)3月に典侍御雇として宮中に出仕した慶子は4月に典侍に進み、7月には権典侍と称した。懐妊の兆しが見られたのは翌嘉永5年(1852)3月で、典薬寮医師女医博士賀川満崇の診断では四ヶ月を経ていた。そして同年9月22日に中山邸で皇子祐宮(睦仁親王)を出産している。
慶子の懐妊から出産まで経緯については、大佛次郎の「天皇の世紀」(朝日新聞出版 2005年刊)に詳しく綴られている。「二日前に雪が降り、京都御所では清涼殿や常御所の北側の屋根に白く積もって残るのを見かけた。」という書き出しで始まる大著は、残念ながら北越戦争の河井継之助を描いた「金城自壊」で絶筆となっている。70歳を越えてから連載を開始した大佛が一体どこを到達点と考えていたのであろうか?ひょっとすると明治天皇の御宇全ての記述を目指していたのかもしれない。それでも徳富蘇峰の「近世日本国民史」と同様に西南戦争までは視野に入れていたと思われる。
「天皇の世紀」は嘉永6年(1853)のペリー来航の直前に、新たな時代を切り拓くために誕生した睦仁親王を中心として描いた歴史小説である。上記のように書き出しの一文は輝かしい未来の到来を感じさせるものとなっている。大佛は良く晴れた暖かい冬の日に京都御所を取材しながら、当時の宮中で行われていた様々な行事を紹介している。そして既に想像することも出来なくなりつつある凡そ一世紀前の御所の生活を再現しようとした。その中で御所の東北に位置する中山邸の様子を書き残している。
羽林家の家格を有し権大納言をつとめる中山家も御領は200石に過ぎなかった。家格に比べ収入も少なく他の公卿の屋敷に比べても狭かったため、御産所を新築する場所と普請の工面に頭を悩ましたようだ。先ずは北側の民家のある八条殿町に地所を探したが鷹司関白の許可が得られず、次に西側の前権大納言鷲尾隆純の邸内の空地を借りようと交渉したが断られている。やむなく手狭な地所内の西隅に4月18日に起工し八月下旬にはほぼ完成している。今に現存する御産所は六畳と十畳の二間に浴室と厠が付く瓦葺屋根の実に質素な建物であった。
それでも御産所の建設に百両を費やしたので、議奏東坊城聴長に金二百両の拝借を申し入れたところ、鷹司関白により百両は同意されたもののそれ以上は前例がないということで却下されている。とりあえず同意を得た百両を家計の窮状を訴え明年以後15年賦で返納する約束で拝借したいと武家伝奏に願い出ている。4月24日に手続きを行い5月12日に百両に当る銀六貫目が貸与されている。残りの百両については聴長の勧めで典侍中山績子を介して御上にお願い申し上げたが、8月20日になって半額の50両を明年以後1年賦での償還となった。この時期の朝廷ならびに公卿の窮状が良く伝わる逸話でもある。
大佛次郎が最初に中山邸を訪れた時には御産所の西側裏手の台所口にあった方形の石の井戸を祐ノ井と誤ったが、翌日許可を得て門を入った正面の茂みの中に祐ノ井を見たと記している。なお、祐ノ井は睦仁親王の産湯の水をとった井戸ではない。この井戸は嘉永6年(1853)親王2歳の夏に日照りとなり邸内の井戸が全て枯れた時に掘られたもので、清浄な水がこんこんと湧き出たことから親王の幼名に因んで祐ノ井と名付けられた。井戸の傍らには明治10年(1877)が中山忠能建立の祐井碑がある。
故郷井
わがために汲みつと聞きし祐の井の 水は今なほ懐しきかな(御集) 明治天皇
寄水祝
わが君が産湯となりし祐の井の 水は千代まで涸れじとぞ思ふ(御集) 照憲皇太后
祐宮の産湯は陰陽頭土御門晴雄の勘文に依り、出町橋の上流の水を9月4日に汲んで用いている。
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