京都御苑 白雲神社
京都御苑 白雲神社(きょうとぎょえん しらくもじんじゃ) 2010年1月17日訪問
京都御苑内の3つの井戸に続いて、3つの神社について記す。
京都御所の南西隅の目印、清水谷家の椋から南に下ったところに西園寺家跡がある。その南側、丁度出水通の延長線上に白雲神社が位置する。
白雲神社は旧西園寺家の鎮守社で祭神は市杵島姫命。市杵島姫命は宗像三女神の一柱で、天照大神と建速須佐之男命が誓約を交わした際に生まれたとされている。後に仏教の弁才天と習合し、神仏習合思想の一つである本地垂迹において同神とされている。西園寺家の家業が四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)、有職故実そして雅楽の琵琶であることから、琵琶を持つ弁財天を祀ってきたとされている。
西園寺家は藤原公実の四男藤原通季を祖とする清華家の家格を有する公家で一条家の家礼。藤原北家閑院流の一門で支流・分流に今出川家(菊亭家)、洞院家、清水谷家、四辻家、橋本家、大宮家などがある。
通季の曾孫にあたる西園寺公経は源頼朝の姪全子を妻とし、摂家将軍藤原頼経の祖父に当たることから鎌倉幕府との関係は緊密であった。そのため承久の乱に際しては幕府に内応する恐れありとして後鳥羽上皇によって幽閉されている。しかしこの幽閉が幕府の信任を受けることとなり、乱後には内大臣を経て貞応元年(1222)には太政大臣、そして翌貞応2年(1223)には従一位に昇進、婿の九条道家とともに朝廷の実権を握っている。そのため公経が西園寺家の実質的な祖とされている。なお西園寺の家名は、元仁元年(1224)に公経が現在の鹿苑寺の辺りに西園寺を建立したことによる。
公経より公宗までの七代は朝幕間の交渉役である関東申次を務めた他、娘を次々と入内立后させ、天皇の外戚として一時は摂関家をも凌ぐ権勢を振るったが、7代目の実兼が大覚寺統に接近し亀山法皇や後醍醐天皇に娘を入れたが、反幕府的姿勢が強くなってきた大覚寺統から離脱し、8代目の公衡以降は次第に持明院統との関係を深めてきた。鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇による建武政権が始まると、後ろ盾を失った西園寺家は衰退してゆく。10代目の公宗は北条泰家を匿い、後醍醐を暗殺して持明院統の後伏見上皇を擁立する謀叛を計画したが、弟公重の密告によって発覚したために処刑される。西園寺家は公重が継承したが南朝へ参候したため、公宗の遺児実俊が右大臣に昇って家名を再興している。しかし往時の権勢は完全に失われた。
公経が北山に建立した西園寺も西園寺家の退勢とともに衰退し、室町幕府3代将軍足利義満がこの地に北山第の造営に伴い、文和元年(1352)室町に移っている。初めは真言宗の寺院であったが、その後浄土宗に改められ、天文23年(1554)に秀吉の寺町形成により現在の寺町通鞍馬口下ルに移されている。
西園寺公経が元仁元年(1224)に北山殿を造営した際、市杵島姫命を祀る妙音堂も建立されたと考えられている。その後、数度の変転を経て赤八幡京極寺にもしばらく鎮座されていたが、明和6年(1769)の西園寺邸の移転と共に現在地に移り再興、禁裏御祈祷所に定められている。そして禁裏だけに止まらず、京都の庶民の信仰をも集めるようになった。
明治になって西園寺家が東京へ移り、御所周辺の公家町の解体が始まると、妙音堂も廃祀の危機に見舞われる。地元有志の尽力により、明治11年(1878)かつての鎮座地名をとり現社名に改められる。今も御所の弁天さんとして市民の崇敬を集めている。
琵琶の道につきていささか憂ふる事侍りける祈り申さむため、
妙音堂へ参りける折ふし、雪深く降りて侍りければ
音絶えてむせぶ道には悩むとも 埋れなはてぞ雪の下水
(玉葉集 巻十四 雑歌一) 入道前太政大臣
入道前太政大臣は7代目西園寺実兼。続拾遺和歌集、玉葉和歌集、続千載和歌集などの勅撰集に入集するなど有名な歌人で、琵琶の名手でもあった。元亨2年(1322)没す。享年74。この歌は北山殿内にあった頃の妙音堂を唄ったものである。
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