京都御苑 清水谷家の椋 その2
京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その2 2010年1月17日訪問
京都御苑 清水谷家の椋では、清水谷家がこの地に移った時期の推定と椋の木の位置に付いて考えてみた。清水谷家が賀陽宮邸跡から御所の築地南西角に引っ越してきたのは、およそ宝暦13年(1763)から明和6年(1769)の頃と考えた。元の邸宅の敷地に姉小路定子の准后御殿が造営されたための配置替えであったと思われる。この後、天明8年1月30日(1788)に団栗焼けとも呼ばれる天明の大火が発生している。鴨川東側の宮川町団栗辻子で発生した火災は鴨川を越えて河原町、木屋町を焼き、西は智恵光院通、大宮通そして千本通まで達している。この大火により御所、仙洞御所、摂関家の邸宅から二条城、京都所司代屋敷さらに東西両奉行所までもが焼失している。 天明の大火後、寛政2年(1790)に御所は寛政度造営により、裏松光世による平安内裏の考証を取り入れた復古様式で再建された。この造営により御所の規模は宝永度造営より拡大している。具体的には北側に16間程度、そして南側に中央部のみ12間余の拡張が施されている。中央部のみというのは、南側築地の東側に16間5尺、西側に9間半の欠き込みを作ったということである。宝永年度造営において南門の前の東西路の幅員12間の位置に清水谷邸の北側の塀が設けられたとしたら、寛政度造営の際に南西角に欠き込みを作られなかったら御所の築地に当ってしまったのではないかと考える。
そして嘉永7年(1854)4月6日の午刻、女院御住居の局より出火した火は後院の殿舎を炎上させ、内侍所、紫宸殿に移り、内裏、准后御殿と公家屋敷や町家を焼失している。西は千本通、北は今出川通、南は下立売通まで達している。なお安政への改元は、嘉永7年(1854)11月27日であり、その理由は内裏炎上、地震そして黒船来航などの災異が重なったためとされている。この寛政度と安政度造営については、既に京都御所 その5で触れていますので、そちらをご参照下さい。 安政度造営は10月2日の新殿地鎮祭を経て、11月23日に孝明天皇の新宮還幸がなされている。なお惣奉行の阿部正弘は江戸で国事にあたっていたため京都出張はなかった。そのため所司代の脇坂安宅が代役を勤めている。嘉永7年(1854)1月16日にペリーの再来があり、3月3日には日米和親条約の締結が行われている。この後、阿部は攘夷派の徳川斉昭を政権につなぎとめながら、開国派との調整に忙殺される。そのような状況下で内裏造営に関与することなど無理な注文であった。
安政度造営の内裏の規模は寛政度造営と同じものであった。ただし、南側築地両端部の欠き込みを無くしている。南東は仙洞御所の西北隅に欠き込みを設けることで道路を通し、南西では清水谷家の敷地の一部を新たな道路としている。恐らく、この時に清水谷家内にあった椋の大樹が、築地南西角の通りの上に現れたのであろう。その後の元治甲子戦争では邸内の巨木ではなく、御所近傍の巨木であったと考える。
さて清水谷家の椋の木についての説明が長々と続いてしまったが、ここから再び国司軍に対する守衛側の反撃について書いて行く。国司軍は中立売御門、蛤御門そして下立売御門の3門を攻め、一番南の門を攻撃した児玉隊は、「元治夢物語-幕末同時代史」(岩波書店 2008年刊)の「児玉の隊は憤激して、法皇宮旧殿の北、町家との間の墻を押破り、此所より残らず乗入たり」という記述通り、下立売御門と蛤御門の中間にある中川宮邸の北側の墻を破り、新在家の公家町内に闖入している。また蛤御門を攻めた来嶋隊も、この児島隊の闖入あるいは事前に公家町内に潜んでいた別働隊と連携し、混乱に乗じて九門内に入り込んでいる。この蛤御門の内外での戦闘については、守衛側と攻撃側では異なった描写となっている。
国司信濃は、精兵七百を率ゐて、天龍寺を出で、間道を回り、下立売、蛤、中立売の諸門に向ひ、先つ新在家町より、蛤門に迫る守衛会津藩の一瀬伝五郎、林権助隊善く拒く、賊更に近隣の公卿屋敷に入り、第門墻垣に出没して、会兵を悩ます、唐門前なる会将山内蔵人、応援し来りて、共に戦ふこと久し。(「続日本史籍協会叢書 七年史 二」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))
天明長人新在家町より来り犯す。蛤門守衛の我一瀬伝五郎隊及び大砲隊応戦甚勉む。賊更に近隣の公卿屋敷に入りて第門墻垣に出没して我を悩ます。唐門前なる我山内蔵人隊応援し来て二隊と共に奮戦する事二時間余、賊将森鬼太郎を斃す。敵兵破れて走る。(「守護職小史」(「幕末維新史料叢書 4」(人物往来社 1968年刊)))
会津藩の記述には蛤御門を来嶋に撃ち破られたという記述は見られない。これに対して長州の末松謙澄は「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))で以下の様に簡潔に記している。
嵯峨方面に在りては十八日夜半国司信濃兵八百余を率ゐて天龍寺を発し途北野を経一条戻橋に至り軍を分て一と為し一は来嶋又兵衛をして率ゐて蛤門に向はしめ一は中村九郎と共に自ら之を率ゐて中立売門に向ふ時に会津の兵蛤門を守り筑前の兵中立売門を守る筑兵守うを失て走る長兵合して一と為り力を蛤門に集め門を破て入る会兵殆ど支へず桑兵の公卿門を守るもの来て会兵を援く此に於て両軍奮戦時あり
さらに中原邦平の「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)には以下のようにある。
来島と云ふ人は勇将でありますから、手下にも弱卒はない、且つ力士隊と云ふやうな勇壮な者も居りますから、無暗に蛤御門を撃ち破つて、御所内に進入した、此処は会津が守つて居たが、会津の兵は殆ど将棋倒しに倒れたさうであります
これが一般的な蛤御門の戦いのイメージであり、テレビドラマや映画の有名なシーンであろう。「忠正公勤王事蹟」は読み物としては面白いが、どうも脚色が強過ぎるように感じる。
国司隊も中立売御門を撃ち破り、九門内に入り込み公家門(宜秋門)に迫っている。山川浩の「京都守護職始末」(東洋文庫 「京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1966年刊))でも下記のように長州藩の攻撃を認めている。
中立売門の筑前兵を撃ち破り、門内に闖入してきた。また、ほかの一手は、中立売門の南にある烏丸邸の裡門から邸内に闖入し、それから日野邸の正門を押しひらき、唐門を守衛していたわが藩の内藤信節の軍に砲撃をしかけてきた。
この国司隊以外にも日野邸や烏丸邸には前日から長州兵あるいは長州を支援する浪士達が既に潜んでいたとする書もある。国司隊の九門内での攻撃を公家門に集中したようである。桑名藩の加太邦憲は「維新史料編纂会講演速記録」(「続日本史籍協会叢書 維新史料編纂会講演速記録 一」(東京大学出版会 1911年発行 1977年覆刻))で、中立売御門から直進した長州兵の数はあまり多くなく、台所門周辺での目立った交戦はなかったと語っている。ここでの戦闘は激烈を極めたようだ。「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史 二」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))でも下記のように描写している。
忽にして賊の一軍、日野大納言の邸より突出して、会将内藤近之助が隊の側面を襲ひ進んで唐門を犯さんとす、兵勢頗る猛烈にして、会兵沮む、近之助急に指揮し、槍を執て突貫せしめれば、窪田伴治声に応じ、自から姓名を呼んで、一番槍といひ、疾走賊を仆せは、飛丸又伴治を仆す。飯河小膳、町野源之助、相踵きて進み、皆傷を被る、会兵の守り殆んと失はんとす
会津藩が台所門前で劣勢に陥ったのを救ったのは乾御門から駆け付けた薩摩兵であった。「七年史」では会津側から見た戦況を下記のように記している。
此時、薩州の一将、水引物主野村勘兵衛勇奮能く戦うて仆る。賊兵日野邸に入る者は、肥後守が参内を待て、鏖殺せんとの謀略なりしも、肥後守は、建春門より入りたるを以て其謀略を逞うするを得ざりしなりと云へり。薩兵の、天龍寺に向はんとする者、馳せ来り、砲四門を連発して、賊兵を撃ちて之を敗る。信濃の別隊、烏丸近傍にありし者又薩兵と戦ふ者久し。
こに対して、薩摩藩側の「紹述編年」(「続日本史籍協会叢書 史籍雑纂 一」(東京大学出版会 1912年発行 1977年覆刻))には下記のように記されている。
明れは十九日の昧爽に、我勢は第中に勢揃へして、御家老小松帯刀、御側役西郷吉之助、御軍役奉行伊地知正治等謀主となり、夫々の手くはりし、御公達図書殿、大目付町田民部、御小姓組番頭川上右膳は、府士一隊并に隈之城、水引、蒲生等の勢を率ひ、禁閥の内を守護し奉り、天龍寺へは御公達備後殿并に小松帯刀、御小姓組番頭吉利群吉、同しく府士一隊、出水、高岡、阿久根、穆佐、樋脇等の軍兵を従へ、急き出陣あらんとす、官軍の内、賊と内通せしものやありけん、天龍寺に屯せし国司信濃は、早くも三方の味方と牒し合せ、夜にまきれ禁門さして犯し入る、
薩摩軍は、乾御門と九門内の守衛の兵と天龍寺へ出張する兵が分かれ、十九日早朝に出陣の準備を行っていたことが分かる。つまり御所の守衛隊は「御公達図書殿、大目付町田民部、御小姓組番頭川上右膳は、府士一隊并に隈之城、水引、蒲生等の勢を率ひ」、天龍寺攻撃隊は「御公達備後殿并に小松帯刀、御小姓組番頭吉利群吉、同しく府士一隊、出水、高岡、阿久根、穆佐、樋脇等の軍兵を従へ」という構成であった。「紹述編年」はさらに続く。
賊の本意は、直に松平肥後守殿を打取りて、有栖川の宮、鷹司殿等、我方さまの人々を参内なし参らせ、賊兵及ひ加賀、因幡、備前の四ヶ国にて四ヶ所の宮門を固め、会津に打勝なは、勢に乗り我兵をも攻破らんとの企みにて、信濃親兵六七百を打従へ、揉みにもんで下立売御門、蛤御門、中立売御門に攻め入しに、中立売御門の筑前勢は、一支へ支へす敗走し、一橋殿及ひ諸国の勢、ひしくと備へたるも、蛛の子散すか如くに敗れたれは、賊はすかさず勧修寺殿日野殿の裏門より、宮門さして攻め掛る、こゝに我勢は、すでに天龍寺へ向んとせしか、遽かに賊の逆寄せすと聞て、直さま賊軍へ打てかゝる、府下の侍ともは、乾御門に備へたる四挺の大砲を押し進め、賊を目にかけ曳や声にて撃ち進み、砲戦の音天に震ふ、隈之城の物主野村勘兵衛は、手勢引具し公卿御門を固めしか、賊の来るを見て、真先に進み、歯かみをなして戦ひけるか、終に弾丸の下に討死せり、我勢ますく奮ひ勇みけれは、賊はこらへす日野殿の第へそ迯入ける、我兵急に追打しけれは、賊兵佯りて降参を乞ひ、忽ち裏門よりして遁れ出つ、信濃もまた其中にまきれ落行て、打洩せしこそ口惜しけれ
「京都御苑 清水谷家の椋 その2」 の地図
京都御苑 清水谷家の椋 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 京都御苑 清水谷家の椋 | 35.0231 | 135.7608 | |
安政度 御所 | 35.0246 | 135.7627 | |
01 | ▼ 京都御苑 乾御門 | 35.0274 | 135.7596 |
02 | ▼ 京都御苑 中立売御門 | 35.025 | 135.7596 |
03 | ▼ 京都御苑 蛤御門 | 35.0231 | 135.7595 |
04 | ▼ 京都御苑 下立売御門 | 35.0194 | 135.7595 |
05 | ▼ 京都御苑 堺町御門 | 35.0177 | 135.7631 |
06 | ▼ 京都御所 清所門 | 35.0258 | 135.761 |
07 | ▼ 京都御所 宜秋門 | 35.0246 | 135.761 |
08 | ▼ 京都御所 建礼門 | 35.0232 | 135.7621 |
09 | ▼ 京都御所 建春門 | 35.0236 | 135.7636 |
10 | ▼ 京都御苑 凝華洞跡 | 35.0213 | 135.7624 |
11 | ▼ 京都御苑 西園寺邸跡 | 35.0219 | 135.7609 |
12 | ▼ 京都御苑 白雲神社 | 35.0215 | 135.7613 |
13 | ▼ 京都迎賓館 | 35.025 | 135.7659 |
14 | ▼ 京都御苑 賀陽宮邸 | 35.0199 | 135.7611 |
15 | ▼ 京都御苑 学習院跡 開明門院跡 | 35.024 | 135.7643 |
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