本阿弥光悦京屋敷跡 その3
本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その3 2010年1月17日訪問
本阿弥光悦京屋敷跡 その2では室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆への法華宗の浸透について見てきた。この項では、応仁の乱以後の法華宗の発展と法難、そして本題である光悦の京屋敷について調べてみる。
文正2年(1467)1月18日早朝、後から考えれば応仁の乱の前哨戦となる戦闘が洛中で起きている。前年末から窮地に追い込まれてきた畠山政長は、遂に耐えられず自らの邸宅に火をかけ上御霊神社に陣を敷いている。政長に対抗する畠山義就は山名政豊や朝倉孝景らの支援を受け、自らの軍を上御霊へ進める。これが御霊合戦あるいは上御霊神社の戦いと呼ばれる戦さの始まりであった。この軍事衝突は翌19日には義就の勝利で終結するが、これを契機として5月の上京の戦いが行われ、遂には東西両軍に分かれ10年及ぶ応仁の乱へと繋がっていく。法華宗の諸寺にも戦禍は及び、多くの堂宇は焼かれ寺宝の略奪も生じた。しかし他宗の寺院が廃絶や衰微する中、法華宗寺院の復興には目覚しいものがあった。この力の源泉こそが「京都の半分」あるいは「京中に充満す」と謂われた町衆信者によってもたらされた。相国寺などを除くと禅林の多くは静かな環境で修行を行うため、京の郊外に立地していた。これに対して、法華本山の多くが商工業者の生活する下京に建てられた。この地理的な近接も再興の大きな貢献となった。 乱が終結して50余年経た天文初年(1532)頃には、洛中法華宗二十一ヵ本山がその山容を誇っていた。上京には妙顕寺(二条西洞院)を始めとし住本寺(二条堀川)、妙伝寺(一条尻切屋町)、妙覚寺(二条衣棚)、頂妙寺(高倉中御門)、本満寺(東洞院土御門、今出川新町)があった。また下京の商工業者の住む地域には本圀寺(六条堀川)を筆頭に、妙満寺(錦小路東洞院)、立本寺(四条櫛笥)、本能寺(六角大宮)、妙蓮寺(綾小路大宮)、上行院(六角油小路)、本法寺(三条万里小路)、妙泉寺(三条油小路)、本隆寺(四条大宮)、本禅寺(四条油小路)、本覚寺(三条猪熊)、宝国寺(本圀寺隣接)、学養寺(四条南辺)などの諸山があった。この他にも現在では所在地が判明しない弘経寺と大妙寺が洛内に存在していた。これらの法華宗本山は、東は万里小路辺り、西は大宮から櫛笥、南は六条、北は近衛(出水通)あるいは中御門(丸太町通)辺りの東西半里、南北1里の範囲に集中していた。これは現在の京都と比較するとかなり狭い地域となるが、応仁の乱後の京に於いては洛中と呼ばれる範囲にほぼ一致していた。五山十刹の殆どが京の近郊に建立されたため、北辺の相国寺と南辺の東寺以外はほぼ法華本山という状況になってしまった。この中でも特に、妙顕寺が東は西洞院、西は油小路、南は三条坊門(御池通)、北は二条大通の八町町、本能寺も東は大宮、西は櫛笥、南は四条坊門(蛸薬師通)、北は六角を境とする四町町という広大な寺域を占めていた。法華宗二十一ヵ本山の総面積が当時の狭小な洛中において、いかに巨大なものであったかが分る。 教団経営の点からも、法華宗勢力は積極的に宮廷貴族に対する浸透を進め、諸本山の住持に公家出身者が就くことも増加した。教義の伸張とともに、洛中に多くの末寺寺院が建立され、本山と連携して信者の拡大を図るようになった。
また本圀寺、本能寺、妙顕寺などの巨大な寺域を占める本山には堀や土塁で囲まれた構と称される防衛施設を備えるようになった。織田信長を始めとする戦国武将の上洛時の宿館に使用されたことからも明白である。また防御装置と共に自衛を名目として本山自体の武装化も進んだ。先ず法華宗の教義が宗門自衛を自認するものであり、それは宗祖・日蓮上人の述作した日蓮御書まで遡ることができる。特に南北朝時代の頃に諸門流とも一層積極的に武装化が推し進められた。内陣への勤仕の際の武装は禁じられたものの、寺中警護のために法華僧俗の武装は洛内の各門流ともに認められていたようだ。そのため既に永享年間(1429~41)の妙顕寺には多くの浪人が雇われていたとされている。これが教化の支障となって日隆が分派して本能寺を建立したが、本能寺の非武装化も日隆の時代だけで、文明3年(1471)には宗徒の非武装の条文が削除されている。
町衆の拡大によって新しい街が造られるようになってくると、自らの手で治め自衛する意識が向上してくる。この運動は応仁の乱後に一層高まり、町衆の武装化へと発展していく。元々京の住人には武家の被官も多く、江戸時代のように身分制度が確立する以前だったこともあり、商人、手工業者そして農民も必要な時は武器をとって戦闘に参加していたと考えられている。近郊住民による土一揆による襲撃対象は酒屋や土倉など富が集中する場所であり、その近辺で生活する下層生活者も戦禍から逃れるため自衛に結束していった。その結果、16世紀に入ると上京、下京の町衆は市民軍とも呼ぶべき相当の自衛力を備え、それを背景に地子銭や年貢の半減要求など自治権の獲得を目指すようになっていく。これらが新たに生じる法華一揆の基盤となった。
以上のように法華宗本山の他宗派からの攻撃に対する自衛と、町衆の自治獲得のための武装化が天文年間(1532~55)京における法華一揆に結びつく。
享禄5年(1532)6月20日一向一揆による堺・顕本寺焼き打ちにより三好元長が自刃している。元長は熱心な法華宗の信者であり、有力な外護者でもあった。この本願寺が主体となった一揆勢力は7月17日に大和に入り興福寺焼き討ちに及ぶ。山内の坊舎が略奪放火され、経典や仏具が路上に散乱するなどの狼藉が各所で行われた。この知らせは当日のうちに京都に届いている。公家や武家だけでなく一般の町衆に恐怖と憎悪を与えた。さらに8月2日には一向門徒は堺北庄の細川晴元を攻めた。晴元は本願寺と敵対する諸宗寺院に支援を求めた。ほぼ同じ頃、浄土真宗本願寺教団の門徒の入京の噂が広がる。同年7月28日洛内の法華門徒は立ち上がり法華一揆となった。翌29日、戦乱などの災異のため改元され天文となる。8月初旬は法華一揆、一向一揆共に京の周辺地域で示威行為を繰り返していたが、8月23日に細川晴元の残留部隊、近江・六角定頼軍は法華勢とともに山科本願寺に押掛け包囲を完了する。この時の攻め手は三万人とも謂われているが主力は洛内の法華門徒達であった。翌24日構の諸口より京勢が乱入し寺町周辺を放火し戦闘の大勢が決する。威容を誇った山科本願寺は社坊ひとつ残さず灰燼に帰した。
法華一揆と一向一揆の衝突はこれで終わらなかった。山科本願寺が消滅して東方からの脅威はなくなったが、摂津、河内、和泉での一向衆の動きは相変わらず活発であった。京を護る法華衆も山崎での戦いで苦戦していた。必ずしも京勢有利でない状況の中、同年12月10日には土一揆が発生する。土倉衆に率いられた上京衆、下京衆は一揆の拠点と目された西京、太秦、北山の集落を攻撃し焼き払っている。翌天文2年(1533)の前半、法華衆は京都防衛だけでなく友軍の細川晴元の支援に多くの時間を費やすようになっている。伊丹城を囲む一向衆を撃破した後、4月26日には堺に進軍し本願寺派を一掃し町を奪回している。そして5月から石山本願寺攻めが開始される。晴元のために京を離れて大坂に駐留している間の6月18日、細川晴国率いる丹波勢が高雄・栂尾から攻め入り仁和寺付近で戦闘となり京勢は敗北する。翌19日より法華衆による打ち回りの示威行為が行われたが、24日に二条西洞院の妙顕寺にまで押し寄せてきた。防戦した法華衆に多くの戦死者が発生した。晴国の京都乱入に大きな衝撃を受けた法華衆と細川晴元は同月20日に石山本願寺と和睦を結び、急遽兵を洛中に戻し晴国軍を京より駆逐した。本願寺との和睦後も残存する細川晴国軍や近郊で発生する土一揆への対応が残った。これは天文2年の夏からほぼ一年間続いた。天文3年(1534)8月28日、細川晴元が摂津から上洛すると、同9月3日には長らく近江に出奔していた将軍・義晴も建仁寺に入り両者の間で和解が成立する。空白であった幕府組織が再編されたことにより、これから2年間は洛中及び近郊での武力蜂起は見られなくなった。
一向一揆と土一揆による脅威から京を護った町衆(=法華衆)にとって、自治権の強化が新たな目標となっていった。洛中に多くの所領や権益を保有する旧仏教系諸大寺にとって、法華宗の排他性の強い教義だけではなく、収入減となる経済的な脅威となった。特に山門(比叡山延暦寺)は応仁の乱以降も法華宗追放を目指して動いてきたが、いずれも不発に終わってきた。上記のように将軍が都に戻ってくると不在中に失った寺領を回復できる機会と考え、この天文3年より再び法華宗攻撃を強めていった。
延暦寺は日蓮宗が法華宗を名乗るのを止めるよう室町幕府に裁定を求めたがこの裁判で敗れる。そして天文5年(1536)2月、延暦寺の華王房が日蓮宗の一般宗徒に論破されるという松本問答が起こる。延暦寺の僧が俗人との宗論で負けたという噂になり、瞬く間に洛中に広まってしまう。山門と法華宗の対立関係は遂に修復不可能な状況に陥る。山門は白川から北の東山山麓に兵を配し、一向一揆の際は法華衆側に付いた近江の大名・六角定頼も山門の要請に応じ東山に陣取った。こうして京の法華衆は北と東の二方面を完全に遮断された。同年7月22日早朝、山門は実力行使に出る。先ず洛北松ヶ崎城が山徒の襲撃を受け落城、松ヶ崎集落は全焼。ついで現在の田中神社の地にあった田中構が陥落し田中集落も焼かれる。主戦場は三条口と四条口に移る。戦況は法華衆に有利に動いていたが、27日に近江衆が四条口攻略に加わったため、四条口ついで三条口も破られ山門及び近江衆が洛中になだれ込んだ。日蓮宗二十一本山はことごとく焼き払われ、僧侶の戦死者も多数出た。諸本山は本尊と聖教を持って堺に逃れるしか方策はなかった。
町中に建立された洛中法華宗本山の破却は、街自体の破壊でもあった。町衆はそのことを理解していたので武器を取り戦った。その先頭に立ったのが、後藤(妙覚寺の檀越)、茶屋(本能寺の檀越)、野本(西陣の商人)等の有力町衆であり本阿弥(本法寺の檀越)もその一人であった。西陣の町々と東陣(新在家六丁町)は特に最後まで激しく戦い、法華門徒の戦死者は3千とも1万とも言われた。
山門に屈した法華門徒は洛外追放となり以後6年間京に於いて日蓮宗は禁教となる。天文11年(1542)11月14日に法華宗二十一ヵ寺に対する京都帰還を許す勅許が下り、天文15年(1546)頃には十五ヵ寺が再建されていた。上行院と住本寺が合併し要法寺となった他、弘経寺が堺に移転、本覚寺が文正元年(1466)妙顕寺に編入され、学養寺は勝光寺が継承、大妙寺は妙顕寺の塔頭、宝国寺も本圀寺の塔頭となった。
以上、京での法華一揆は天文元年(1532)から同5年(1536)までの5年間に限って発生したことになる。最初の3年間は一向一揆、土一揆あるいは細川晴国の京都侵略から法華本山を護ったが、天文法華の乱と呼ばれる山門との対立において壊滅的な敗北を喫し、本山を堺へ移さざるを得ない状況になった。また本山を支えた法華門徒である町衆も街を護るため多大な犠牲を出した。この享禄・天文の乱より凡そ25年後の永禄元年(1558)に光悦が生まれたのであるから、法華門徒として戦ったのは大永2年(1522)生まれとされる父・光二よりもさらに上の世代であっただろう。何れにしても光悦が法華宗の熱心な信者であったとしても、享禄・天文の乱のように武器を携えて信教や自治を護る時代では既になかったことは確かである。
最後に本題である本阿弥家邸宅について、江戸時代初期の2つの洛中絵図で確認する。
中井家が寛永14年(1637)に作成した洛中絵図(「洛中絵図」(宮内庁書陵部 1969年刊))の小川通上立売通下ル西入辺りには、本阿弥という書き込みが7か所見ることが出来る。次に同18年の絵図(「洛中絵図 寛永後万治前」(臨川書店 1979年刊))からは、町の北側を「本阿弥のづし」(→本阿弥辻子)と呼んでいたことが分かる。辻子あるいは図子は平安京の条坊制に基づく道ではなく、平安京の北郊の発達にともなって新たに開発された道路のことである。上立売通は一条通以北の東西路なので本阿弥辻子は平安京の北郊にあたるので街区の細分化が進んだのであろう。
「洛中絵図」解題によれば、この宮内省蔵の「洛中絵図」はその表題通り寛永14年(1637)7月2日に完成した洛中絵図の下図として作成されたものである。ここで謂う洛中とは豊臣秀吉が建設した御土居の内部の京都のことで、その外部についての記述は全く無い。原寸で南北5,050mm東西2,360mmという大判の絵図である。370mm×255mmの白紙144枚をはり合わせて作られている。縮尺はほぼ1500分の1で、方眼紙の1辺を10間となるように描かれている。当時の測量技術は高く地図としても十分使用できるものに仕上がっている。
この「洛中絵図」は上記の通り、かなり最終段階に作成された下図である。残念ながら清書は現在のところ見つかっていないが、本絵図の二倍の750分の1で描かれたものになっているようだ。精度の高い絵図であるとともに実に多くの注記が為されている。公家屋敷、大名屋敷、寺院敷地と共に医者、後藤、本阿弥、検校衆が同一色紙を利用して書き込まれている。これら4者は、当時洛中にあって特殊な身分階層にあったと考えられる。
「洛中絵図」は幕府の畿内大工頭であった中井家によって作成されたものと考えられている。しかし洛中全域に及ぶ地図の作成とその所有を、中井家独断で行ったとは考え難い。寛永期の幕府あるいは京都所司代の求めによって中井家が作成したと考える方が合理的である。つまり徳川幕府が直轄する都市の支配を行うために作成されたのであろう。幕府は寛永21年(1644)に全国諸大名に各郷村の石高帳と国郡図・城郭図を上進させているので、本絵図もその一環であったと考えられる。その制作は寛永12年から着手し2年間で完成させている。
京都大学が所蔵する「洛中絵図 寛永後万治前」と呼ばれる洛中図も、「洛中絵図」と同様に中井家によって作成されている。「洛中絵図」と「洛中絵図 寛永後万治前」の相違点は以下の3点である。
① 東側御土居外の白川口以南、綾小路以北間で、鴨川辺まで記載範囲が東へ拡張されていること。
② 「禁中御所様」の境域内の北部を仕切って「新院御所」が出現していること。
③ 朱雀野西新屋敷の傾城町島原が別紙貼紙で添付されていること。
以上のことから寛永14年作図の「洛中絵図」を基礎資料としてそれ以降に生じた変化を補正作図したと考えられる。その作成時期は寛永18年(1641)正月以降、正保2年(1645)を下ることがないと考えられる。さらに絞り込むならば寛永19年(1642)ということになるようだ。
本阿弥光悦は元和元年(1615)鷹峯の地を徳川幕府より拝領し、寛永14年(1637)2月3日にその地で没したとされている。しかし元和元年より後の時代に作成された絵図にも拘わらず本阿弥一族の邸宅が京中に残っていたことは注目に値する。「洛中絵図 寛永後万治前」は京都大学貴重資料デジタルアーカイブの寛永後萬治前洛中絵図で公開されている。この絵図でも7つの本阿弥と記された邸宅の存在を確認できる。上記、宮内省所有の「洛中絵図」解題には下記のように記されている。
光悦が鷹ヶ峯大虚庵に移住したのは元和五(1619)年頃とされるが、その後も洛中上京一帯に拠点の存在したことは本絵図「本阿弥(家)」の注記にも明瞭であろう。
つまりこれらの「洛中絵図」は、光悦の鷹峯移住は洛中の一族の屋敷を全て畳んで引っ越すような本格的なものではなかったのではないかと思わせる史料である。
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