伏見奉行所跡 その2
伏見奉行所跡(ふしみぶぎょうしょあと)その2 2009年1月11日訪問
京町通の魚三楼の前を過ぎ、さらに南に進むと、東西に走る魚屋通に出会う。ここで左に折れ、近鉄京都線の高架の下を潜ると目の前に大きな団地が広がる。右に曲がり30メートルくらい進むと、団地の入口の脇に伏見奉行所跡の碑が建つ。ここが慶応4年(1868)1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いにおける伏見方面の主戦地となった伏見奉行所の跡地である。
伏見奉行は、江戸以外の幕府直轄領すなわち天領の内で重要な場所に置かれた遠国奉行の一つである。京都町奉行、大坂町奉行、駿府町奉行の各町奉行に対して伏見奉行は長崎奉行、山田奉行、日光奉行、奈良奉行、堺奉行、佐渡奉行、浦賀奉行、下田奉行、羽田奉行、新潟奉行、箱館奉行、大津奉行、清水奉行、神奈川奉行、兵庫奉行などの各奉行のひとつとされている。なお他の奉行は旗本から任ぜられるが、伏見奉行に関しては大名から選任される。伏見奉行は伏見町政、木津川の船舶の取り締まりおよび京都町奉行とともに近江国・丹波国の司法及び行政を行うため、慶長5年(1600)に創設されている。実際には寛文6年(1666)水野石見守忠貞が伏見支配に専念するようになったのを最初とする。与力10騎,同心50人が属し,伏見市街と周辺8カ村(享保以降9カ村)を支配している。なお京都新聞社の公式HPに掲載されている道ばた資料館「伏見奉行所跡 港町の発展支える(http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/michibata/070612.html : リンク先が無くなりました )」によると、伏見奉行所がこの地に移転したのは寛永2年(1625)のことで、現在の桃陵団地や桃陵中がその敷地に当たるとされている。上総請西藩第2代藩主の林忠交が最後の伏見奉行に就いたのが安政6年(1859)8月で、慶応3年(1867)6月24日に奉行在任中に伏見にて死去している。これ以降、奉行職は空席のまま、与力と同心は実質的には京都町奉行に配下に入っていたようだ。そして12月8日の王政復古を迎える。京都守護職と京都所司代の廃止に伴い、12月14日付けで京都町奉行は免職となり、奉行は遊撃隊頭となり、与力や同心も新遊撃隊に配置替えとなっている。野口武彦氏著の「鳥羽伏見の戦い 幕府の命運を決した四日間」(中央公論新社 2010年刊)では、慶応4年(1868)1月3日の鳥羽伏見の戦いにおいて伏見奉行所は既になく、正確には旧伏見奉行所に旧幕府軍が立て籠もったとしている。
既に魚三楼 その2の項で、新政府軍と旧幕府軍の配置について記したので、そちらを再びご参照ください。開戦当日の伏見奉行所はどのようなものであったかは、旧幕府軍の資料があまり残っていないので、新政府軍ほど明らかにはなっていない。奉行所内外には幕府歩兵隊の第7連隊(大沢顕一郎指揮 800名)、第12連隊(窪田鎮章指揮 人数不明)そして伝習第1大隊(小笠原政登指揮 800名)の合計3大隊が配備されていたと推測される。その内、伝習第1大隊が奉行所内で戦闘したと考えられる。滝川具挙が所持していたとされる軍配書には、伝習第1大隊は鳥羽街道に出兵する予定だったので、半隊500名程度が伏見に廻ったのかもしれない。またSyoさんの伏水街道コラムの中に掲載された「両軍伏見市街戦概要図」を見る限り、幕府歩兵第7連隊は奉行所外から京町通の西からと高瀬川の間の南北路を北上したと思われる。幕府歩兵隊以外には、土方歳三率いる新選組150名、今掘越前守以下の遊撃隊50名の剣客集団である。新選組は奉行所内に配備された。また会津藩は剣槍隊4隊、砲隊2組計8門、そして佐川官兵衛が率いる別選組1隊。これらは奉行所内と伏見での会津藩本営となった東本願寺伏見別院に配備されたようだ。高松・志摩鳥羽・浜田などの佐幕諸藩兵が後詰として控えていた。
奉行所北柵門に配備されていたのは、林権助率いる会津藩大砲隊132名であった。大砲3門の照準は、およそ100メートル先の御香宮神社に陣取る新政府軍本営に合わせられていた。1月3日午後5時頃の開戦と同時に、林隊は北門を出て接戦に持ち込もうとする。しかし薩摩小銃隊は切り込みを避けるために散兵し、各店舗に潜み至近距離より正確な狙撃を行う戦術に展開する。これによって会津藩兵の被害は急激に増大し、一時自軍陣地まで撤退する。増援要請も聞き入れられず、手持ちの兵力で戦地に留まり陣地を死守する。林権助隊長は3発被弾しても未だ意気高く、前線で指揮を執るが、左翼(奉行所西側)の幕府歩兵第7連隊の戦死者が続発し退却が始まる。敵中に孤立することを恐れた林隊は、破損した砲車2門を遺棄し砲1門を引いて橋を渡り退却する。即死者19名、負傷者24名。林隊長含む4名が下阪の後に戦病死する。
御香宮神社や桃山の東方斜面に配備された新政府軍の大砲隊からの砲撃により、次第に奉行所の建物の炎上が始まる。弾薬庫への延焼により旧幕府軍の応射が弱くなる。日にちが変わる午前0時頃、ついに奮戦してきた北門の守りが破られ、薩摩軍と長州軍が奉行所内に突入する。既に竹中丹後守重固は中書島の京橋際に陣屋を移し、その後淀の本営まで下った。他の将兵も重傷者を奉行所内に残し、堀川に架かる京橋その他の橋を渡って中書島や浜町方面へ後退し橋梁を防禦線とした。竹中重固は明確な命令もなく、慌しい戦線から離脱したことによって、諸隊はめいめいの判断で撤退を行うこととなった。この混乱は、翌日以降の伏見方面の戦闘に大きな影響を与えたと思われる。
明治以降、伏見奉行所の跡地は陸軍工兵隊の兵営となる。先の伏見奉行所跡の碑の向かい側には、伏見工兵第十六大隊跡の石碑が建つ。陸軍創設にあたった大村益次郎が陸軍用地として想定した所で、日本最古の陸軍用地として考えられている。観月橋の北にあった旧幕府伏見奉行所跡に明治維新直後から置かれた。最初は大阪の第四師団に属したが、第十六師団の設置以後はその管轄下に入った。この石標は伏見工兵第十六大隊の跡を示すものである。そして戦後は進駐軍が接収され、返還後に現在のような団地が造られた。現在は奉行所の名残として石碑と一部の石垣が残されている。
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