魚三楼 その2
魚三楼(うおさぶろう)その2 2009年1月11日訪問
東福寺駅前にある仲恭天皇九条陵・崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵参道の道標を眺めながら、京福電鉄京阪本線に乗車し、7つ先の伏見桃山駅で下車する。改札口を出ると目の前を大手筋通が東西に走る。通りの名前から分かるように、豊臣秀吉が築城した伏見城の大手門へと続く道とされている。 この道を東に進み、近鉄京都線のガード下に入る手前を右に折れる。この道が京町通であることを示す表示板が立つ。伏見築城の際、桃山の伊達街道と共に城下町で最初に開通した「本通り」とされている。この道を北上すれば京に達するため、この名称になったのであろう。すなわち京町通は墨染の交差点で東に折れ墨染寺の前を通り、京阪電鉄の線路を越えた先で本町通に出合う。このように伏見街道は墨染で京町通に入り、そのまま伏見の町並みにつながって行く。
京町通はこの墨染の交差点の北側で師団通あるいは師団街道とも呼ばれる。明治38年(1905)この地に大日本帝国陸軍第16師団が編成されている。師団練兵場は龍谷大学・京都府警警察学校が利用し、司令部庁舎は学校法人聖母女学院として現在も利用されている。
大手筋通から京町通に入り南に進むと、通りの西側に魚三楼の町家が現れる。既に前回の訪問の時にも触れたように、魚三楼は江戸時代の明和元年(1764)讃岐出身の初代・三郎兵衛が創業している。巨椋池が埋め立てられた今となっては想像しづらいが、伏見の町は川陸交通の要衝であり、港町であった。この港に揚がる瀬戸内の魚や京野菜、また伏見の酒造りを支えた豊かな湧水を使い、魚三楼は各藩の大名屋敷の料理方などを務めてきた。
さて慶応4年(1868)1月3日の鳥羽伏見の戦いである。この時の新政府軍の配置は、野口武彦氏著の「鳥羽伏見の戦い 幕府の命運を決した四日間」(中央公論新社 2010年刊)に掲載されている。これによると、既に薩摩藩小銃1番隊、2番隊、外城4番隊そして1番砲隊の半分が警備していたが、1月3日正午に新たな小銃3番隊と4番隊さらに臼砲隊を増援している。そして大手筋通の高瀬川東岸から東に向かい土佐藩兵4小隊、長州藩歩兵2中隊そして薩摩藩の小銃2番隊と外城4番隊の半隊が一直線上に並ぶ。そして伏見奉行所の東面に北から薩摩藩の小銃4番隊、1番隊そして外城4番隊の半隊が詰める。さらに旧幕府軍が大手筋通に展開した防御ラインを突破した時のために、正午に到着した3番隊は京町通上に配備されていることが分かる。1番砲隊の半分は御香宮神社に陣取り、臼砲隊は桃山の東方斜面にある龍雲寺あたりに展開し奉行所を射程に入れていた。 これに対して旧幕府軍の配備状況はよく分からない。滝川具挙が所持していたとされる軍配書には、鳥羽街道、伏見、二条御城、大仏そして黒谷の拠点に配置する5つの軍が記されていた。この内、伏見、大仏、黒谷の3つの拠点へは伏見街道を進軍するように定められていたと考えて良いだろう。
伏見軍には歩兵奉行並・城和泉守、歩兵頭・窪田備前守鎮章の歩兵1大隊(第12連隊)、歩兵頭並・大沢顕一郎の歩兵1大隊(第7連隊)。そして土方歳三率いる新選組150名、今掘越前守以下の遊撃隊50名は銃装していない剣客集団である。大仏軍は東山の方広寺下にあった旧幕府兵糧貯蔵所を奪回するために出兵する。陸軍奉行並・高力主計頭、歩兵頭・横田伊豆守の歩兵2大隊(第4連隊)と会津藩兵400名。そして会津藩の別邸があった黒谷へは、歩兵奉行並・佐久間近江守と歩兵頭・河野佐渡守の歩兵2大隊(第11連隊)と会津藩兵400名が向かう。すなわち旧幕府歩兵6大隊と新選組150名、会津藩800名などが伏見街道から入京を目指した。
小枝橋で鳥羽伏見の戦いが始まったのは、1月3日の午後5時頃だとされている。4キロメートル北西の砲撃は、御香宮神社と伏見奉行所に伝わり伏見でも開戦する。以前も参照させて頂いたSyoさんの伏水街道コラムの中に掲載された「両軍伏見市街戦概要図」が一番分かりやすい資料であると思われる。このあたり南浜学区の近代史をまとめた郷土冊子「南浜100年史」が出典とされている。恐らくこの図が京町通で新選組が戦ったという根拠になっているのだろう。この地域で戦った新選組と会津藩兵は伏見奉行所から打ち出したものではないか。開戦と同時に伏見奉行所の北柵門が開き、旧幕府軍兵数百人が300メートルの幅に展開した。そして新選組や会津藩兵の刀槍隊が突撃を仕掛けるが80から90メートルまで押し寄せるものの、小銃の一斉射撃を受けて押し戻される。この攻防が京町通に広がっていったのではないだろうか?
魚三楼の窓格子には銃弾の跡が数箇所見られる。明らかに北側から南に向かって射撃された銃弾が窓格子を数本打ち抜いている。この通りの守備は薩摩藩の小銃隊であったので、恐らく彼等の痕跡であろう。
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