貴船神社 本宮 その5
貴船神社 本宮(きぶねじんじゃ ほんみや)その5 2010年9月18日訪問
貴船神社 本宮 その4では、現在の貴船神社の空間構成、境外末社と白髭社について、そして二之鳥居から南参道の石段を上るところまでを書いた。ここからは貴船神社の境内の様子を記していく。
南参道の石段を上り小振りな中門を潜ると貴船神社の境内が広がる。拝殿と本殿に向かって立つと左側にはカツラの巨樹、さらにその奥には社務所がある。カツラはカツラ科カツラ属の落葉高木で、多くの萌芽枝が生長するため何本も枝分かれ株立ちし巨樹へと育っていく。また伸びた枝が上部で八方に広がる形状は龍が大地から勢いよく立ち昇っていく姿を連想させ、貴船神社の由縁に相応しい神木となっている。この神木と社務所の間には重森三玲作の天津磐境と名付けられた庭が見えるが、この庭については改めて書くこととする。
正面の拝殿と本殿は石垣が積まれた上に建てられている。この石垣の手前には左から手水舎、2頭の神馬像、そして氏子の祖霊を祀る祖霊社が並ぶ。この神馬像は祈雨止雨のために馬が奉納されてきた歴史に因んで作られたものであろう。勧請元の丹生川上神社上社にも神馬像が社殿前に設けられている。日本記略の天長6年(829)8月甲戌(27日)の条には、「奉幣貴布祢社。丹生河上雨師社。但雨師神副以白毛御馬。為停霖雨也」と白馬が献上されたことが記録されている。以後、日照りには黒馬、長雨には白馬または赤馬を献じ祈雨・止雨を祈願してきた。後の時代になり生きた馬に替えて馬形の板に色をつけた“板立馬”を奉納したと伝えられる。これが絵馬に転じたことから絵馬発祥の社としたことが神馬像の傍らにある駒札に記されている。また祖霊社は氏子の中で神葬祭を行ってきた人々の霊を合祭するための施設で、明治初年に行われた神仏分離と神葬祭の普及に伴い多く設けられるようになった。明治19年(1886)に神社の公的性格を強調するため祖霊社の創立を禁止したが、第二次世界大戦後再び神社境内に祖霊社を設ける傾向が見られる。
貴船神社 本宮 その4でも触れたように龍船閣は貴船川を望む場所に懸崖造で建てられている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会や京都府立京都学・歴彩館のデジタルアーカイブに収蔵されている黒川翠山撮影写真資料の写真001 798にもこの場所に望楼の姿が見えるので、昔からこの貴船神社の斜面地の地形を活かして建てられて来たと思われる。
拝殿左側の石段を上ると拝殿の正面に至る。本殿は一間社流造で檜皮葺、拝殿は入母屋造りの切妻向拝付き。貴船神社の公式HPによれば文久3年(1863)までに36回の造替、大正11年(1922)にも国費を使い大改修が行われてきた。これは寛永8年(1631)より賀茂社の式年遷宮復活し貴船神社でも元治元年(1864)まで式年遷宮が行われてきたことを顕わしているのであろう。
また貴船神社年表には平成17年(2005)平成の大造営が行われ本宮の社殿が竣工したと記している。これは天喜3年(1055)に現在地に本宮を創建してから950年にあたる。拝殿の西側の斜面には貴船山から湧き出た御神水が流れ落ちている。流石に水を司る神を祀る貴船神社の御神水だけに枯れることないようだ。この御神水を鑓水として斎庭が造られている。「ゆにわ」と読む斎庭は神を祀るために祓い清めた祭の庭のことで、ここでは水占神籤が行われている。水面に御神籤を浮かべると文字が浮かび上がる。ちなみに貴船神社の水占には大凶も含まれているので、しっかりと心構えして引くべきであろう。
本殿の裏側つまり北側には権殿と下から順に牛一社、川尾社、鈴鹿社の3座の末社が祀られている。現在の牛一社の御祭神は境外末社の梅宮社と同じ木花開耶姫命である。古事記では本名を神阿多都比売(かむあたつひめ)、別名を木花之佐久夜毘売とされ、日本書紀では神吾田津姫あるいは神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)、別名を木花開耶姫と表記する。読みはコノハナノサクヤビメ、コノハナサクヤビメ、コノハナサクヤヒメ、または単にサクヤビメと呼ばれることもある。日向に降臨した天照大御神の孫・邇邇芸命と出会い求婚される。父の大山津見神は喜び姉の石長比売と共に差し出したが、天孫は醜い石長比売を送り返し美しい木花之佐久夜毘売とだけと結婚した。しかし貴船神社に伝わる秘伝書「黄舩社秘書」には「丑市《牛一とも》明神といわひ申て、舌氏の祖神也。」という記述が見られる。このことは貴船神社のFacebookに、貴船神社と社人・舌家 ~牛鬼伝説~に現われてくる。もともと表紙に「不許他見」と記されているものをFacebookなどに載せていいのかとも思うが、貴船神社の社家・舌氏について分かりやすく説明しているので興味がある方は読んでいただきたい。
「黄舩社秘書」に収められている「貴布祢雙紙」によれば、貴船明神が天下万民救済のために天上界から貴船山中腹の鏡岩に御降臨された。その時に随伴したのが牛鬼とも呼ばれた仏国童子であった。貴船明神から戒められていた神界の出来事を仏国童子が悉く他言したため、怒った貴船明神は童子の舌を八つ裂きにし貴船から追放した。童子は吉野の山に逃げ、そこで五鬼を従えて首領となった。程なく貴船に戻り密かに鏡岩の蔭に隠れて謹慎していた。ようやく罪が許されたが、ある時貴船明神の鉄製の御弓2張も折ってしまった。余りの悪事に怒った大明神はいろいろな罰を与えたが効かずに130歳で亡くなった。この仏国童子には僧国童子とい子がいた。僧国童子は丹生大明神に奉仕していたが、吉野から五鬼を従えて貴船に帰り父に代わって貴船明神に仕え102歳で亡くなった。僧国童子の子が法国童子と云い、その子が安国童子と名付けられた。ここまで四代は鬼の形をしていたが五代目よりは普通の人の形となり子孫代々繁栄して貴船明神に仕えた。祖先が貴船明神から受けた戒め忘れぬために名を「舌」と名乗った。
以上が「黄舩社秘書」に記された舌氏の来歴である。なお「黄舩社秘書」には貴船明神が降臨したのは、「丑の年の丑の月の丑の日」であったと記されている。そして104代までの舌家の系図が掲載されていることから、舌家が貴船神社の社家の筆頭として権威を持っていたことが分かる。舌家の他に願・鳥居・藤田・山本・小林・畑などの社家があったが、明治4年(1871)の明治政府による神社制度により、貴船神社は官幣中社となったことで神祇官が祭祀を司ることに変更された。貴船の社家達は神宮皇學館、皇典講究所、國學院など入ったが、官幣中社の貴船神社の神職にはなり得ず多くが貴船の村を離れていった。舌家もただ1軒を残すのみと記している。この「貴船神社と社人・舌家 ~牛鬼伝説~」も木花開耶姫命を祀るとされている牛一社は、古伝によれば「牛鬼」つまり舌家の祖先神を祀っているとまとめている。
三浦俊介氏は「神話文学の展開 貴船神話研究序説」(思文閣出版 2019年刊)で、この舌氏の祖先となる牛鬼の降臨伝説を白髭族の遡源伝説は別物と見ている。その上で白髭神を信奉する人々は梶取社、白戸社そして白髭社を祀り、舌氏の一族は梅宮社や牛一社を管理してきたということらしい。
現在、川尾社は鈴鹿川の下流の南畔に鎮座しているが、かつては奥宮南側の思い川(御物忌川)を司る古社であったようだ。現在の御祭神は罔象女命とかつて大和国丹生川上社から勧請した貴船神社の主祭神である。大洪水で奥宮が流失し、現在の本宮の地に再建された際に川尾社の御祭神が罔象女命になったと三浦氏は推測している。この時貴船神社の御祭神が高龗神と闇龗神に代わり、かつての主祭神である罔象女命を祀る新たな社が必要になった考えている。鈴鹿社の御祭神は大比古命で第8代孝元天皇の第一皇子で、第9代開化天皇の兄にあたる。古事記では建沼河別命、比古伊那許志別命の二柱の御子があると記されている。本宮の末社が全て南面しているのに対して鈴鹿社のみ東面しているのは西側の貴船山を仰ぐように建てられている。このことから既に失われた山尾社に代わって神体山を祭祀するために設けられた末社と三浦氏は見ている。本殿の西側に権殿が建てられている。権殿は本殿が改築や修理の際に御神体を一時移し安置するための仮殿。
本殿の北側の高台から再び境内に戻り中門を潜り北参道を下ると赤い欄干を持つ橋が現れる。鈴鹿川にかかる鈴鹿橋である。そのまま下っていくと京都府道361号沿いに設けられた鳥居に達する。
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