泉涌寺
真言宗泉涌寺派総本山 泉涌寺 (せんにゅうじ) 2008/05/10訪問
のぞみ1号が京都駅に到着するのが8:11。荷物をコインロッカーに入れ、京都駅中央口へ出る。本日の予定は泉涌寺・東福寺→伏見稲荷大社→御香宮神社→伏見というスケジュール。先ずは最初の目的地・泉涌寺を目指して塩小路通を西に進み、鴨川を渡る。本町8丁目で京阪鴨東線に平行に走る道に入り南下する。東海道本線・東海道新幹線の高架下をくぐり、市立一橋小学校に保存されている伏水街道一の橋を確認した後、再び伏見街道に戻り南に進む。
京阪鴨東線東福寺駅前より東大路通の立体交差を上り京都第一赤十字病院の前を過ぎると「泉山御陵参道」の碑がある。ここより、泉涌寺道に入り約100mも進むと泉涌寺の総門が前方に見えてくる。この総門の手前、左側に鳳凰を屋根の中央に頂く山門がある。那須与一の墓がある即成院(そくじょういん)は泉涌寺の塔頭のひとつ。
総門をくぐると右側に法音院、左側に戒光寺 新善光寺と塔頭が並ぶ。やがて道は3つに分かれる。左側に下ると今熊野観音寺に、右側の道は大門に至る。「拝観の車は大門駐車場へ」という道標があるので、真ん中の道を進む。
新緑の参道を下ると突然目の前に、仏殿 舎利殿が現れる。この先は拝観料(伽藍拝観)を支払い入ることとなる。
泉涌寺の歴史は天長年間(824~834)に遡る。弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けた。藤原緒嗣によって仙遊寺として再興された。
建保6年(1218)に月輪大師が宇都宮信房からこの地を寄進され、宋風の大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。泉涌寺においては律を基本に、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場とし、北京律の祖と仰がれた。
後鳥羽・順徳上皇、後高倉院をはじめ、北条政子、泰時も月輪大師について受戒するなど、公家・武家両面から深く帰依され、貞応3年(1224)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められた。大師入滅後、仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、泉涌寺で御葬儀が営まれ、寺内に山稜が造営された。
その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀が執り行われ、山稜が境内に設けられて月輪陵と名づけられた。皇室の御香華院(香をたき、花を供える場所、すなわち、先祖が眠る寺の意)として、長く篤い信仰を集めることより御寺と呼ばれることとなる。
霊明殿と御座所は泉涌寺の東南奥に位置する。どちらの建物も明治15年(1882)に炎上したため、霊明殿は明治天皇によって明治17年(1884)に再建され、御座所は京都御所内にある皇后宮の御里御殿-文化15年(1818)造営-を移築した。
御座所庭園は、御座所の東南から霊明殿の南側にかけて築かれた庭園である。泉涌寺の現在のホームページには記載がないが、元禄年間(1688~1703)作庭の林泉形式の庭園。雪見灯籠は仙洞御所より移され光格天皇が好まれたと伝えられる。なお御座所・御座所庭園と海会殿の拝観は伽藍拝観とは別の特別拝観が必要となる。
庭園中央に置かれた雪見灯籠は仙洞御所より移され光格天皇が好まれたと伝えられる。
この記事へのコメントはありません。