青蓮院門跡
天台宗 青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき) 2008年05月16日訪問
十樂院上陵の門を過ぎて、さらに神宮道を北に進むと石段の上に青蓮院の四脚門・御幸門が現れる。後水尾天皇の第二皇女・明正天皇(元和9年(1624)~元禄9年(1696))の中和門院の旧殿の門を移築したもので、明治26年(1893)の火災をまぬがれている。この辺りから楠の巨木が多く植わり、新緑の木陰を神宮道に落としている。
御幸門を過ぎると程なくして、見事な枝振りの楠を両脇に控えた石段の上に建てられた長屋門が現れる。この門もまた御幸門と同様に中和門院の旧殿の門を移築したものである。両脇に1本づつ植わった楠と見えたが実は5本あり、親鸞聖人御手植と伝えられている。現在、京都市の登録天然記念物等に指定されている。残念ながらこの長屋門から入ることはできず、脇にある門から青蓮院に入る。
青蓮院門跡は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡(青蓮院、三千院、妙法院)の一つとして古くより知られ、現在は天台宗の京都五箇室門跡(青蓮院門跡、三千院門跡、妙法院門跡、曼殊院門跡、毘沙門堂門跡)の一つに数えられている。古くから皇室と関わり深く、法親王が門主を務める門跡寺院とされている。
青蓮院の起源は、比叡山延暦寺に作られた僧侶の住坊の一つである青蓮坊と考えられている。青蓮坊は日本天台宗の祖最澄から円仁、安恵、相応等、延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊だった。上記の三千院、妙法院もまた比叡山山頂にあった坊が起源とされている。
平安時代末期、鳥羽法皇が青蓮坊の第十二代 行玄大僧正(藤原師実の子)に御帰依になり、上皇の第七皇子・覚快法親王をその弟子とされた。院の御所に準じて京都に殿舎を造営し、青蓮院と改称させ、行玄を第一世の門主とした。これが現在の青蓮院の始まりである。当初は三条白川(現在地のやや北西)にあったが、河川の氾濫を避け、鎌倉時代に高台の現在地へ移った。ここにはもと十楽院という寺があり、青蓮院の南東にある花園天皇陵も十楽院上陵と称されている。
青蓮院の公式HPによると、青蓮院が最も隆盛を極めたのは、第三代門主慈圓(久寿2年(1155)~嘉禄元年(1225)藤原兼実の弟)の時であった。慈圓は幼くして青蓮院に入寺し、建久2年(1192)38歳の若さで天台座主になるだけではなく、生涯四度も天台座主を務めている。後鳥羽上皇(治承4年(1180)~延応元年(1239))の承久の乱の挙兵に反対し、歴史書「愚管抄」を書いたとされる。また、この承久の乱の戦後処理として藤原兼実の曾孫である仲恭天皇が廃位されたことに対し、鎌倉幕府を非難した上で復位を願う願文も納めている。
慈圓は歌人としても有名で家集に「拾玉集」があり、「千載和歌集」などに名が採り上げられている。小倉百人一首では、前大僧正慈円と称されている
おほけなく 憂き世の民に おほふかな わがたつ杣に 墨染の袖
当時異端視されていた法然の専修念仏を慈圓は批判したが、その弾圧には否定的で法然や弟子の親鸞の庇護を行っている。親鸞は治承5年(1181)9歳の時に慈円について得度を受けており、剃髪した髪の毛を祀る植髪堂が、青蓮院の境内北側に現存している。
室町時代には後に室町幕府第六代将軍足利義教(応永元年(1394)~嘉吉元年(1441))となる義圓が門主を務めている。応永10年(1403)足利幕府将軍の家督相続者以外の子として、慣例により青蓮院門跡となった。天台開闢以来の逸材と呼ばれ、同26年(1419)百五十三代天台座主となり、将来を嘱望されていた。しかし同32年(1425)兄の第四代将軍足利義持の子である第五代将軍足利義量が急逝し、義持も正長元年(1428)に重病に陥った。
義持が後継者の指名を拒否したため、義持の弟である梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆・義円の中から将軍を決めるために石清水八幡宮でくじ引きを行うこととなった。その結果、正長元年(1428)足利義教が第六代将軍となり、籤引き将軍と呼ばれるようになった。 青蓮院も応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱で殿舎はことごとく焼失し、ながらく荒廃していたが豊臣秀吉や徳川家康らによって復興された。応仁年代の古地図と考えられている中古京師内外地図を見ると青蓮院の寺域はかなり広大なものであったことが分かる。徳川家によって行われた江戸時代初期の知恩院の拡大は、この青蓮院の領地を知恩院に分け与えることで可能になったと思われる。現在でも将軍塚の大日堂は青蓮院の飛地境内となっている。
江戸時代中期の天明8年(1788)旧暦1月30日の未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の京都市東山区宮川筋付近)の空家から出火し、折からの強風に乗って南は五条通にまで、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って洛中に飛び火した。その火の夕方には二条城の本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から2日後の2月2日未明の事であった。
この天明の大火は、出火場所より団栗焼けとも呼ばれる近世の京都で発生した最大規模の火災である。御所も炎上し後桜町上皇は青蓮院を仮御所として避難してくる。明和年間(1764~72)に建てられた好文亭は、御学問所として使用された。そのため青蓮院は粟田御所と呼ばれ、「青蓮院旧仮御所」として国の史跡にも指定されている。
青蓮院は明治26年(1893)の火災で建物の大部分を焼失している。好文亭と御幸門、長屋門は残ったが、好文亭は平成5年(1993)4月25日、沖縄植樹祭に反対する中核派によって放火、焼失してしまう。この時、三千院や仁和寺など皇室関連施設6箇所が放火、爆破されている。現在の建物は平成7年(1995)に再建されたもので、茶室として使われている。
長屋門の脇にある門を入り、玄関を上がる。時計回りに客殿の華頂殿、入母屋造桟瓦葺きの小御所、やはり同じ入母屋造桟瓦葺きの宸殿に回廊が巡らされている。小御所の先には本尊・熾盛光如来の曼荼羅と国宝の青不動画像(複製)を納めた西面して建つ方三間、宝形造の小堂本堂がある。
青蓮院には相阿弥の庭と霧島の庭の2つの庭園がある。
相阿弥は生年不詳、大永5年(1525)没の室町後期の画家で、祖父の能阿弥、父の芸阿弥についで足利義政に仕え、後世に三阿弥と呼ばれた。相阿弥は絵画制作、書画の鑑定、座敷飾りの指導、連歌など幕府関係の幅広い技芸に携わり、東山文化の形成に重要な役割を果たしたとされている。能阿弥以来の仕事の集大成として、座敷飾りの秘伝書「君台観左右帳記」、「御飾記」を著した。絵画制作については「蔭凉軒日録」や「実隆公記」に多くの記録があり、国工相阿と称されて画名が高く、代表作は永正10年(1513)創建の大徳寺大仙院の襖絵とされている。しかし近年、これに対して異議が呈されているように、伝承作品は多いが現存する確実な作品は乏しい。
相阿弥は足利将軍家の室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった同朋衆と呼ばれる集団の一人であった。一遍の起した時衆教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされ、慶応2年(1866)に廃止されるまで続いた。また時宗を母体としているために阿弥号を名乗る通例があるが、阿弥号であっても時宗の僧であるとは限らない。鎌倉時代末期から合戦に同行する陣僧の中に時宗の僧が多かったことから始まり、平時においても側近、取次ぎ人としての役目も果たすようになった。制度としての起源は、細川頼之が執事となって6人の法師を抱えて室町幕府第3代将軍足利義満に仕えさせたことに始まる。
相阿弥の庭は知恩院から続く華頂山の斜面を背景に、龍心池と呼ばれる小御所の東面から華頂殿へつながる池泉を中心に造られている。小御所の北東の角には花崗岩の切石二枚で作られた反橋・跨龍橋が架けられている。その手前に巨石が池の中から現れている。あたかも沐浴する龍の背のようにもたとえられている。相阿弥の庭は斜面に呼応するように柔らかな起伏に富んだ立体的な構成に仕上げられている。
霧島の庭は好文亭の裏側、山裾斜面から霧島つつじが植えられていることから名付けられているようだ。小堀遠州作と伝えられているが、苑路を歩いてもどのあたりがそれなのか良く分からなかった。少し樹木が多いためなのかもしれない。青蓮院のHPには、
相阿弥の庭園と比べ平面的であるが、統一と調和を感じさせる庭である。
としているので、おそらく好文亭の北西の部分の庭を指しているのであろう。
宸殿の前庭に右近の橘、左近の桜が配されている。現在は苔に覆われているが、本来白砂を敷いていた。
「青蓮院門跡」 の地図
青蓮院門跡 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 青蓮院 長屋門 | 35.0075 | 135.7829 |
02 | ▼ 青蓮院 宸殿 | 35.0072 | 135.7831 |
03 | 青蓮院 小御所 | 35.0071 | 135.7834 |
04 | ▼ 青蓮院 華頂殿 | 35.0074 | 135.7836 |
05 | 青蓮院 本殿 | 35.007 | 135.7835 |
06 | ▼ 青蓮院 好文亭 | 35.0074 | 135.7839 |
07 | ▼ 青蓮院 相阿弥の庭 | 35.0072 | 135.7836 |
08 | 青蓮院 霧島の庭 | 35.0076 | 135.7838 |
09 | ▼ 青蓮院 植髪堂 | 35.0079 | 135.7833 |
10 | ▼ 青蓮院 御幸門 | 35.0073 | 135.7828 |
この記事へのコメントはありません。