新日吉神宮
新日吉神宮(いまひえじんぐう) 2008年05月16日訪問
耳塚の面する正面通を東に進み、豊国神社の鳥居を南に下る。京都国立博物館と蓮華王院の間を通る七条通を東に進むと東山七条の交差点に出る。左に豊国廟参道、右に新日吉神宮の石碑が建つ妙法院門跡と< a href="http://vinfo06.at.webry.info/201001/article_12.html" target="_blank">智積院の間の道は、京都女子大学そして豊国廟へと続く坂道となっている。新日吉神宮は、150メートル位進んだ智積院の境内の先に位置する。
新日吉神宮の祭神は山王七神と後白河上皇とされている。山王七神とは大己貴命、大山咋神、大山咋神荒魂、菊理姫命、田心比売命、賀茂玉依比売命、賀茂玉依比売荒魂、などの七神である。
蓮華王院の項でも触れたように、三条殿が焼き討ちされた後白河上皇は平安時代末期の永暦元年(1160)新たな院政の拠点として法住寺殿の造営に着手する。そして鎮守として日吉社と熊野社を勧請した。この日吉社が新日吉神宮に、熊野社は東大路通の南に建つ新熊野神社とつながっていく。 日吉社は、比叡山東麓の現在の大津市坂本に祀られていた日吉山王七社を勧請したのが始まりである。創建当初は現在地にはなく、新熊野神社の近くに新日吉社と称されていた。後白河上皇の護持僧である妙法院の昌雲という僧が、新日吉神宮の初代別当に任命されている。妙法院の門主は最澄を初代とし、後白河上皇も法名・行真として15代門主となっている。その後の16代門主が昌雲であることからも、後白河上皇と妙法院そして新日吉神宮の関係は深い。皇室からの崇敬も篤く栄えたが、応仁の乱など、幾度かの戦火により社殿は荒廃、衰退した。その後、度々再建が行われて、現在の本殿は天保6年(1835)に再建された建物である。
新日吉神宮は、慶長19年(1614)今熊野から智積院の北の地に、そして元和元年(1615)豊国廟が破却された跡地へ妙法院の暁然門跡によって移転されている。
大坂の陣で豊臣宗家が江戸幕府に滅ぼされると、妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになる。これが元和元年(1615)のことであった。既に豊国神社の項で触れたように、神龍院梵舜は豊国神社維持のために尽力してきた。徳川幕府によって豊国神社が破却された後も神宮寺で秀吉を祀ってきたと思われる。梵舜は家康の一周忌において、山王一実神道形式での開催を主張する南光坊天海との論争で敗れる。これにより山王一実神道が権勢を増し、梵舜の吉田神道の影響力は後退していく。そして梵舜は、妙法院の僧侶により豊国神社への参道の封鎖、神宮寺の境内の草を無断で刈られるなどの嫌がらせを受けていた。梵舜は妙法院の非道を幕府に訴えるが相手にされず、逆に神宮寺を妙法院に引き渡すよう勧告を受ける。そして元和5年(1619)神宮寺を妙法院に引渡し、自身が住職を務める神龍院へと退去している。このように妙法院門主であった常胤は積極的に幕府に協力し、豊国神社に保管された秀吉の遺品や豊国神社の別当・神龍院梵舜の神宮寺を獲得することに成功している。
境内にある樹下社は豊国神社とも呼ばれる。坂本の日吉大社にも鴨玉依姫神を祀る樹下神社が存在している。新日吉神宮の樹下社は、江戸時代から秀吉を信奉するする人々が訪れている。樹下社の「樹下」は、木下藤吉郎の「木下」を連想させ、かつての豊国神社の跡地に建てられているためであろう。
また新日吉神宮の境内には金網に囲まれた狛猿が置かれている。同じ光景は赤山禅院の屋根の上や御所の猿ケ辻でも見かけることができる。日吉大社の神使が猿であるが、山王信仰と猿との関係は明らかではなく、原始信仰の名残りと推測されている。
猿ケ辻は御所の表鬼門にあたる艮(北東方向)に位置している。この部分の築地塀は、鬼門の角を無くし鬼封じるため、内側にへこませている。その上で蟇股に烏帽子を被り御幣を持った猿の彫り物が施している。これは “難が去る”とかけて、鬼門を守る魔除けとなっている。この猿を金網で閉じ込めているのは、夜毎築地塀から抜け出しては悪戯を繰り返していたためとされている。
新日吉神宮の猿にも金網が架けられているのは猿ケ辻と同じ理由なのだろうか。また日吉大社の神使である猿と “サル”と呼ばれた秀吉は偶然の一致なのだろうか?
明治2年(1869)神仏分離で、新日吉神宮は妙法院の所属を解かれる。さらに現社地に確定したのは明治31年(1898)に行われた豊国廟参道の改修工事以降とされている。
祭神に後白河天皇を加えたのは、昭和33年(1958)で、その翌年をもって神宮号に称されている。
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