東福寺 即宗院 その2
東福寺 即宗院(とうふくじ そくしゅういん) その2 2008年11月22日訪問
即宗院と島津家の関係で記しておかなければならない出来事が幕末から維新にかけて起きている。
まず幕末の勤王僧・月照について始めなければならないだろう。文化10年(1813)大坂の町医師玉井宗江の子として生まれている。文政10年(1827)清水寺成就院蔵海の室に入り,得度して忍介(忍鎧)と称する。天保6年(1835)蔵海の死去により成就院持住となる。一山の改革に着手するも成功せず、嘉永6年(1853)に出奔する。翌安政元年(1854)境外隠居の処分を受ける。
この頃より月照を名のる。もとより清水寺は近衛家の祈願寺の一であったことから、近衛忠煕と交流があった。そして近衛家と島津家とは、忠熙の正室島津興子が薩摩藩主島津斉興の娘であり、島津斉彬の養女天璋院が忠煕の養女となった後、将軍徳川家定に嫁しているなど、密接な関係があった。このことから月照と薩摩藩士との交流が始まっている。安政5年(1858)4月、井伊直弼が大老に就任すると、月照も西郷隆盛、海江田信義らの井伊幕政打倒工作に参画する。この時、清閑寺や東福寺霊雲院とともに即宗院の採薪亭でも密議が行われたとされている。清閑寺の郭公亭跡には大西郷月照王政復古謀議舊趾の碑が建てられている。いずれも月照が住持であった清水寺成就院より南に位置する東山の中で行われたことが分かる。ちなみに郭公亭もまた採薪亭同様、荒廃し現存していない。
安政5年(1858)7月薩摩藩主・島津斉彬は鹿児島で急死するが、8月には朝廷工作を行なっていた水戸藩らに対して戊午の密勅が下される。反井伊活動が成功したかに見えたが、9月7日に京で梅田雲浜、10月23日に江戸で橋本左内が逮捕され安政の大獄が始まる。
西郷隆盛は、近衛家から月照の保護を依頼され、伏見へ脱出して有村俊斎らに大坂を経て鹿児島へ送ることを託した。西郷自身は9月16日、再び上洛し諸志士らと挙兵を図るも、幕府の追及が厳しく、9月24日に大坂を出航し下関経由で10月6日に鹿児島へ帰っている。11月、平野国臣に伴われて月照が鹿児島に来たが、既に斉彬も7月に亡くなっているため、西郷と月照を守る者はいなかった。幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目へ追放することに決定する。西郷には道中での切り捨てが分かっていたため、月照・平野らとともに乗船はしたが、竜ヶ水沖で月照とともに入水している。両人は救助されたが、月照は死亡、西郷は蘇生したが回復に一ヶ月近くかかった。
藩当局は西郷と月照は死んだものとして扱い、幕吏に報告している。西郷は安政5年(1858)12月から文久2年(1862)2月までの間、奄美大島に潜居することとなる。
この後、西郷は薩摩藩の外交活動に復帰するも、国父島津久光の命に従わない独断での行動と急進派藩士に京都焼き討ち・挙兵の企てを扇動した疑いが持たれ、4月10日には鹿児島に護送されている。実際は有馬新七ら急進派藩士の暴走を阻止する説得を行ったが、不調に終わったため、元より確執のあった久光に疑念を持たれたのであろう。いずれにしても、この西郷の帰国後の文久2年(1862)4月23日に寺田屋騒動が発生している。
西郷の徳之島・沖永良部島遠流からの帰還は、元治元年(1864)2月とされている。西郷が幕末政局にいなかった間に、八月十八日の政変や薩英戦争が起きていたことが分かる。
西郷と月照が密議を行ったとされている採薪亭の他にも、即宗院には幕末・維新を偲ぶものが残されている。境内の東端の高台の上に、西郷が銘文をしたためた薩摩藩士東征戦亡之碑と戦死した藩士等の名を刻んだ石碑が残されている。慶応4年(1868)1月3日、小枝橋での新政府軍と旧幕府軍との衝突から始まった鳥羽・伏見の戦いから関東・東北におよぶ戊辰戦争で戦死した薩摩藩士等の524名の名前が5基の西向きの碑に刻まれている。西郷は明治2年(1869)即宗院に約半年籠り、この銘文を書きあげたと言われている。西郷の年表を見てみるとこの年の記述が少ない。前年(1868)の鹿児島に戻った西郷は、日当山温泉で静養している。1月に藩の役職辞任。政府への出仕も辞している。2月には請われて藩の参政・一代寄合となり、5月に函館の榎本軍討伐増援のため、精兵を率いて赴くが、戦いは終わっていたため直ちに引返している。戊辰戦争も終結し、6月維新の功により、永世2000石の賞典禄を受け、9月辞退するものの正三位に叙せられる。この後、新政府の参議となるのは明治4年(1871)6月のことであった。恐らくこの期間に薩摩藩士東征戦亡之碑を建立したのであろう。どちらかのHPでは、その時期を明治2年(1869)5月頃とされていた。江戸城無血開城、彰義隊との戦、東北鎮定のため庄内藩に進駐したことで、西郷の戊辰戦争は終了し、明治2年(1869)の五稜郭への出兵は想定外のものだったかもしれない。東北鎮定を持って薩摩藩としての招魂社の建立の準備に入ったことは理解できる行動である。
霊山墓地の項でも触れたように、東京招魂社が明治2年(1869)6月29日に創建される以前に各藩が多くの招魂社の建立と招魂祭を行っている。その始まりとなったのが、明治元年(1868)5月10日に出された2通の太政官布告である。この布告で、「癸丑以来唱義精忠天下ニ魁シテ国事ニ斃レ候諸士及草莽之輩」のために「東山之佳域ニ祠宇ヲ設ケ」と、さらに「當春伏見戦争以来引続東征各地之討伐ニ於テ忠奮戦死候者」のために「東山ニ於テ新ニ一社ヲ御建立」することを定めている。癸丑とは嘉永6年(1853)6月のペリー来航を指し示しているので、それ以降戊辰戦争までの期間、国事のため殉難した者を祀るという意味である。この時期、江戸城は無血開城されたが関東には旧幕府軍が満ち溢れていた。彰義隊掃討のための上野戦争が5月15日に行われたことから、この太政官布告がその前夜に出されたことが分かる。ここから函館が陥落し戊辰戦争が完全に終結する明治2年(1869)5月18日での間にどれだけの人命が失われるかを考えると当時の新政府の緊迫感が強く感じられる。
太政官布告を受けて京都市内でも招魂祭が行われるようになる。明治元年(1868)7月に長州招魂社落成に際して遷座式が行われると、10月に筑後藩、11月に因幡藩などが行われた。招魂祭とともに、霊山に小祠の建設も行われる。7月に長州藩の招魂社が高台寺領に建てられ、明治2年(1869)3月に京都府招魂社、同年9月に土佐高知招魂社、明治3年(1870)に入ると3月に筑前福岡藩招魂社、6月に因幡鳥取藩招魂社、9月に肥後熊本藩招魂社が建てられている。
西郷による薩摩藩士東征戦亡之碑は、上記のような招魂社建立の歴史と併せて見ることによって分かってくる。そして大村益次郎が東京招魂社を6月29日に創建しなければならない事情も見えてくる。つまり新政府が招魂社を設けたことにより、嘉永6年(1853)から国事に斃れた者たちは、薩摩藩や長州藩の藩命に従い死んでいったことではなく、天皇と新政府のために命を落としいったことになる。既に各藩の代表者による公議会ではなく、新たな政権は新政府に集約化していた。そして、この後に行う廃藩置県や近代兵制への移行のための準備段階であったとも言える。
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