妙心寺 塔頭
妙心寺 塔頭(みょうしんじ たっちゅう) 2009年1月12日訪問
衡梅院を出て、非公開の塔頭を巡る。最初は妙心寺創設の歴史に関わる玉鳳院である。
01 玉鳳院 暦応 5年(1342) 関山慧玄(妙心寺 1世)
開基 花園法皇
01 玉鳳院
玉鳳院は妙心寺の開基である花園法皇を祀る塔頭であり、開山関山慧玄の開山堂・微笑堂がある。既に妙心寺 その3の項で記したように、文保2年(1318)持明院統の第95代花園天皇は皇位を大覚寺統の後醍醐天皇に譲る。院政は御宇多院が執ることとなる。花園院は現在の年齢に直すと11歳で即位し、20歳で退位したこととなる。在位中は二条富小路殿を内裏として使い、上皇となってからは後伏見院とともに上立売通新町の持明院殿に住む。正中2年(1325)本院すなわち後伏見院の皇子である量仁親王のために学問所を置き、自ら教育にあたる。翌年猶子となった量仁親王が立太子する。そして元弘元年(1331)後醍醐天皇が笠置寺に遷幸すると、幕府の支持のもと量仁親王が即位し光厳天皇となる。この時も本院が院政を執り、結局花園院は生涯治天の君となる機会を得られなかった。元弘3年(1333)足利尊氏らの兵が京に攻め込むと、本院と光厳天皇と共に東国方面へ脱出する。しかし近江国で捕えられて帰京、再び持明院殿に住んでいる。建武2年(1335)に天台宗の円観について出家し、花園法皇となる。上皇が萩原殿に住むのは、暦応年間(1338~42)のこととされている。ただし妙心寺の公式HPに掲載されている年表では、既に重態となっていた宗峰妙超が、法皇の求めに応じて弟子の関山慧玄を師とするように推挙し、正法山妙心禅寺と命名した建武4年(1337)を妙心寺開創の年としている。 この時、関山慧玄は美濃国伊深で修行していたとされている。再三固辞したが、法皇の院宣と先師の遺命を辞することはできなくなり、やがて京に上ることとなった。法皇は萩原殿を禅寺に改めて妙心寺とし、玉鳳院を創り、関山に従い修行を行なっている。
安藤次男 梶原逸外著の「古寺巡礼 妙心寺」(淡交社 1977年刊 旧版)によると下記の綸旨(原漢文)が残されているようだ。
仁和寺花園御所跡、管領すべき者、御気色を伝う、執達件の如し。
暦応五年五月二十九日
大蔵卿(花押)
暦応5年(1342)このあたりが事実上の創建時期と考えられている。この後、康永4年(1345)から観応2年(1351)までの7年間、関山は妙心寺を退山し姿をくらましている。恐らく伽藍、堂宇の整備ということには、あまり興味を示さなかったのであろう。関山に翻意を促すため、貞和3年(1347)法皇は開山慧玄に宛てた「往年の御宸翰」が発している。原文は漢文であるが、上記の「古寺巡礼 妙心寺」に書き下し文が掲載されていた。
「往年、先師大燈国師ノ所ニ在リテ、此一段ノ事ニ於テ休歇ヲ得。特ニ衣鉢ヲ伝持セシノ後ハ、報恩謝徳ノ思、興隆仏法ノ志、寤寐ニモ忘ルル無シ。而ルニ心事依違シ、今ニ其願ヲ遂ゲズ。頃年、病痾纏牽シテ、且夕モ期シ難シ。空シク溝壑ニ填ランカ、永劫ノ恨何事カ之ニ如カン。仍テ一流再興并ニ妙心寺造営以下ノ事、仙洞(光厳院)ニ申置クノ子細コレ在リ。縦一瞬ヲ過ルトモ、必ズ平生ノ志ヲ満スベシ。門徒ノ中、其仁ハ它ニ在ラズ。遠慮ヲ廻ラシ、興隆ノ願ヲ果サルベシ。故ニ鳥跡ヲ遺シテ、蓄懐ヲ述ブル者ナリ。」
今はリンクしていないようだが、かつての妙心寺の公式HPに、その大意(http://www.myoshinji.or.jp/hyoka/guide/zen_nw_hanazono.html : リンク先が無くなりました )が記されている。
「昔、師である大燈国師の下で、生死についての最も根本的な問題において心を安んずることができました。師から仏法の奥義を伝えられてから、その尊い恩に報い、高い徳に感謝したいという気持ちや、仏教を盛んにしたいという志を、寝ても覚めても忘れることはありませんでした。 しかし、心に思うことと実際に行えることがいつも相違してしまい、未だに私の願いを遂げることができません。最近は病魔にまといつかれて、最期がいつやってくるのか分かりません。このまま空しく命を失ってしまったら、永遠に残る恨みとして、それ以上のものはありません。そこで、私たちの宗派の再興および妙心寺の造営その他のことを、御所の光厳院に申し残しておきます。たとえどんなに短い時間でも、いつも胸に抱いている志が満たされるよう努めなければなりません。それができる人は私たちの宗門の中でも、あなたしかいないのです。将来のことをきちんと見極めて、宗門繁栄の願いを果たして下さい。だからこそ、敢えて文字に書き残して自分の深い思いを述べるのです。」
法皇は貞和4年(1348)11月11日、花園萩原殿にて崩御。宝算52。その2日後、粟田口三条坊町の十樂院上陵に葬られた。
関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素を窮めたという。関山の甥に当たるといわれる雲山宗峨も室内より25回も追い出されるほど、己事究明、学人説得にのみ力が注がれた。そのため関山より法を嗣いだのは、後に妙心寺2世となる授翁宗弼おんみであった。また、関山には他の高僧のような語録や生前に描かれた肖像もない。遺筆も唯一の法嗣である授翁宗弼に書き与えた印可状を除くとほとんど残されていない。そのためどのような人物であったか分からないところが多い。延文5年(1360)12月12日、旅装束に着替えた関山慧玄は弟子の授翁宗弼に後事を託し、庵の傍らにある風水泉とよばれる井戸のほとりで、泊然として立亡したと伝えられている。関山84歳のことである。遺骸は艮隅に葬られ、微笑塔が建てられた。後に微笑庵と称し、開山堂となった。なお、現在の開山堂の棟札の箱には、「微笑庵昭堂立柱上棟天文7年戍戊二月廿七日」とあることから天文7年(1538)に東福寺から古殿を移している。ただし建物自体はもう少し古く、室町時代初期まで遡ると考えられ、現存する山内最古の堂宇である。建物内だけでなく境内全体が撮影禁止となっているため、微笑堂や方丈そして風水泉の様子が分かる写真を見かけることがない。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には玉鳳院の図会で残されている。この図会がよく説明している。 玉鳳院は第46回京の冬の旅で特別公開され、拝観することができた。いずれかの時期に再び書くこととなるだろう。
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