亀山陵
亀山陵(かめやまのみささぎ) 2009年1月12日訪問
亀山陵は、後嵯峨天皇の嵯峨南陵の左側に同じ檜皮葺宝形造の法華堂という形で並ぶ。
大覚寺や妙心寺 その3で同じことを書いてきたが、後嵯峨天皇によって作りだされた両統迭立によって、亀山天皇は最初の大覚寺統の天皇となる。 第90代亀山天皇は建長元年(1249)後嵯峨天皇と中宮藤原姞子との間に第7皇子・恒仁親王として生まれている。正嘉2年(1258)正嘉の飢饉の最中に10歳で立太子。同母兄に第89代後深草天皇となる久仁親王、異母兄に鎌倉幕府第6代将軍に就任する宗尊親王がいる。
兄の久仁親王は、寛元元年(1243)外祖父の太政大臣西園寺実氏の今出川邸第にて誕生し、生後2ヶ月で立太子。そして4歳となった同4年(1246)正月に、後嵯峨天皇の譲位により即位する。幼年であるため、在位中は後嵯峨上皇が院政を敷き、直接政務を見ることは無かった。そして正元元年(1259)に瘧病を患う。瘧病とは「おこり」のことで、1日から2日おきに周期的に悪寒と発熱を繰り返す病である。この疾病を契機とし、後嵯峨上皇の要請を受け同年(1259)中に同母弟の恒仁親王に譲位を行っている。この譲位には母である藤原姞子、すなわち大宮院の意向が強く反映していたようだ。明朗かつ英邁だった恒仁親王は、両親の寵愛を一手に集めていたことは想像に難くない。
弘長3年(1263年)、鎌倉騒動で第6代将軍の宗尊親王が鎌倉から送り返され、代わって惟康親王の下向を要請される。文永2年(1265)には、元の国書が高麗を介して伝えられ、鎌倉から送達される。幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。亀山上皇の院政中に、2度の元寇が起こり、自ら伊勢神宮で祈願するなど積極的な活動を行っている。
文永4年(1267)世仁親王(後の後宇多天皇)が生まれると、翌文永5年(1268)後嵯峨上皇の意向のもとにこれを立太子。文永9年(1272)後嵯峨法皇が崩御し、治天の君の継承と、皇室荘園領の問題が起こる。後嵯峨法皇は治天下の指名を幕府に求める遺勅を残していたとされ、幕府は後嵯峨法皇の内意を問い、大宮院の内意が亀山天皇であったとする証言から亀山親政と定まる。文永11年(1274)正月、亀山天皇は皇太子の世仁親王に譲位して院政を開始する。ここに大覚寺統の2代目となる第91代後宇多天皇が誕生する。
この幕府の裁定に対して後深草上皇は当然のように不満を抱いた。そしてこのことが持明院統と大覚寺統の対立につながって行く。後宇多天皇の即位した同年、後深草上皇は上皇の尊称を返上して出家する意向を示す。この事態を憂慮した西園寺実兼の幕府への折衝により、幕府は持明院統への甚だしい冷遇を危惧し、妥協案として後深草上皇の皇子熙仁親王(後の伏見天皇)の立太子を推進して行く。まず建治元年(1275)に熙仁は亀山天皇の猶子となり親王宣下、ついで皇太子となる。続いて弘安9年(1287)には亀山上皇の嫡孫にあたる後宇多皇子の邦治王(後の後二条天皇)が親王宣下されている。そして弘安10年(1287)に熙仁親王が即位して第92代伏見天皇となる。さらに鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王の嫡男で第7代将軍にあった惟康親王が廃されて、後深草上皇の皇子である久明親王が第8代将軍として鎌倉に迎えられるなど、持明院統にとっては大覚寺統との待遇の違いが解消されるばかりか、大覚寺統に対して優位を占めるようになってきた。これは、上皇と関東申次の西園寺実兼との不和に加えて、霜月騒動で失脚した安達泰盛と親しい関係にあった事が幕府を刺激したためとされている。
このような情勢の変化によって、正応2年(1289)41歳で亀山上皇は南禅寺で出家し法皇となる。その後、禅宗に深く帰依した亀山法皇の後半生は、公家の間に禅宗が徐々に浸透していくことに結び付いている。嘉元3年(1305)亀山殿で崩御、宝算57。遺詔で末子であり当時3歳の恒明親王の立太子の意思を示している。親王の伯父である左大臣西園寺公衡が実現工作に動いたために、後宇多上皇の強い反発を招き大覚寺統内部に混乱を招くこととなった。
亀山殿で崩御された亀山法皇は荼毘に付され、浄金剛院法華堂、南禅寺、全剛峯寺に分葬されたが、浄金剛院法華堂をもって本陵とした。現在の亀山天皇の亀山陵と後嵯峨天皇の嵯峨南陵には法華堂が建てられている。 なお南禅寺の塔頭・南禅院に残されている法華堂は、檜皮葺宝形造、屋根の頂きに露盤を据えその上に火炎宝珠を載せる。前面には唐破風を付し、南面する。応仁の乱で焼失した南禅院を元禄14年(1701)5代将軍徳川綱吉の母桂昌院がこの旧地より西北の地に再建している。
大覚寺統の天皇は、亀山天皇(90代)を始め、後宇多天皇(91代)、後二条天皇(94代)、後醍醐天皇(96代、南朝初代)、後村上天皇(97代、南朝2代)、長慶天皇(98代、南朝3代)、後亀山天皇(99代、南朝4代)と南朝に連なっていく。これに対して持明院統には、後深草天皇(89代)から始まり、伏見天皇(92代)、後伏見天皇(93代)、花園天皇(95代)、光厳天皇(北朝1代)、光明天皇(北朝2代)、崇光天皇(北朝3代)、後光厳天皇(北朝4代)、後円融天皇(北朝5代)、そして後小松天皇(北朝6代・100代)と称光天皇(101代)と北朝を形成する。すなわち後嵯峨天皇の両統迭立は、寛元4年(1246)後嵯峨天皇の退位から、建武3年(1336)の足利尊氏による光明天皇の践祚までの混乱だけではなく、その後の後醍醐天皇の吉野転居による南北朝分裂から明徳3年(1392)の両王朝が合一までの150年間にわたる多くの事件のもととなっている。元中9年(1392)南北朝の媾和が大覚寺で行われ、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り大覚寺に入寺し、応永31年(1424)大覚寺で崩御し、嵯峨小倉陵に祀られる。
後嵯峨天皇から後醍醐天皇は下記の通りである。
88代 後嵯峨天皇 仁治 3年(1242)~寛元 4年(1246)
89代 後深草天皇 寛元 4年(1246)~正元 元年(1259)持明院統
90代 亀山天皇 正元 元年(1259)~文永11年(1274)大覚寺統
91代 後宇多天皇 文永11年(1274)~弘安10年(1287)大覚寺統
92代 伏見天皇 弘安10年(1287)~永仁 6年(1298)持明院統
93代 後伏見天皇 永仁 6年(1298)~正安 3年(1301)持明院統
94代 後二条天皇 正安 3年(1301)~徳治 3年(1308)大覚寺統
95代 花園天皇 延慶 元年(1308)~文保 2年(1318)持明院統
96代 後醍醐天皇 文保 2年(1318)~延元 4年(1339)大覚寺統
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