東福寺 塔頭 その4
東福寺 塔頭 (とうふくじ たっちゅう)その4 2009/11/28訪問
■11 栗棘庵
永仁2年(1294)東福寺第4世住持、白雲慧暁が開創した塔頭。はじめ西陣白雲村(新町今出川上ル付近)にあったが、応仁の乱後に東福寺山内に移されている。
慧暁は貞応2年(1223)讃岐に生まれている。はじめ比叡山に登り行泉法師より法華玄義を学び、17歳で得度受具する。25歳で泉涌寺に入り開観律師に師事し、律宗の僧侶となる。その後、円爾弁円に参じて禅宗に帰投する。8年間の修行を経て、文永3年(1266)39歳の時に入宋し、瑞巌寺の希叟宗曇に謁す。帰朝後、円爾の法を嗣ぎ、正応5年(1292)九条忠教に招かれて東福寺の住持となる。その後、隠退所として栗棘庵を結ぶ。この庵名から白雲の一門は栗棘門派と呼ばれる。円爾の示寂直前に進んで伝法灌頂を受けるなど密教護持にも熱心であった。永仁5年(1297)寂。
■12 善慧院
大永年間(1521~28)彭叔守仙が創建した塔頭。彭叔守仙は延徳2年(1490)信濃に生まれる。自悦守懌の高弟で、天文7年(1538)東福寺の住持となり同16年(1547)南禅寺に移る。能登の崇寿寺などの住持も務めている。また猶如昨夢集や鉄酸饀を著す学僧で、五山文学者としても著名。天文24年(1555)寂。66歳。別号に瓢庵。 明治4年(1871)故在って廃宗となったため、虚無僧の始祖の虚竹禅師朗庵を開山とする明暗寺(普化宗)を継ぎ明暗寺とも称する。そのため現在では尺八根本道場と仰がれ、毎年秋には尺八を愛好する人が全国から集まり、盛んな献奏大会を行なわれる。
■13 大機院
応永27年(1420)関白九条満家が創建。天文15年(1546)関白九条稙通によって重修し梅霜を請じて開山とする。現在の堂宇は慶長の火災後、正保2年(1645)左大臣九条道房が旧殿を寄せて再興したもので、同家にあった玉日ノ像を移し、内仏として安置されている。歌人として有名な後京極摂政九条良経や法性寺殿摂政藤原忠通、桃山時代の有識古典学者であった九条稙通など九条家墓地がある。
東福寺第3世無関普門(大明国師)の住居址でその墓所。
大明国師は、建暦2年(1212)に信濃国に生まれる。13歳の時、越後国正円寺で出家して剃髪。信濃国塩田の講席に列し、数年後正円寺に戻り叔父の寂円に仕える。19歳の時に上野国長楽寺で栄朝から菩薩戒を受ける。次いで上京し、円爾弁円のもとに5年間参禅する。建長3年(1251)宋に渡り、12年間禅宗寺院を巡歴して参禅する。弘長元年(1261)帰朝し、再び円爾弁円の下で、その法を嗣ぎ、弘安4年(1281)一条実経の招きに応じて東福寺の第三世住持となる。正応元年(1288)亀山上皇の離宮に出没する妖怪を降伏した功により、正応4年(1291)南禅寺の開山として招かれる。しかし病を得て東福寺に帰山し、同年80歳で寂。その後、元享3年(1323)に後醍醐天皇より大明国師の諡号を賜る。諱は玄悟。房号は普門房。 東福寺の塔頭龍吟庵は終焉の地となった住居跡であり塔所(墓所)。南禅寺の塔頭である天授庵も虎関師錬(こかんしれん)により無関普門の塔所として建立されたものである。
■15 即宗院(1,2,3)
嘉慶元年(1387)島津氏久が、東福寺第54世剛中玄柔を開山として建立した島津家の菩提寺。即宗院の寺名は氏久の法名「齢岳立久即宗院」に因る。はじめ山内成就院の南にあったが、永禄12年(1569)の火災にかかり、慶長18年(1613)頃に島津義久により現在の地で再興される。
寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には、
客殿の美観なり。東の山間に茶亭あり採薪亭といふ、又其上に自然居士墓あり
と記され、即宗院庭園の図絵が残されている。しかし明治初年に樹石を売り払い寺院も荒廃したため、客殿の東側に僅かに池泉跡が見られる程度となっていた。昭和47年(1972)に整備が行なわれ、平成元年(1988)京都市指定名勝となる。
また清水寺の勤王僧 月照上人が安政4年(1857)東福寺の霊雲院より採薪亭に移り住み、ここで五十日間、玉体安穏王政復古を祈った。西郷隆盛もまたここに来て密かに討幕の謀議を行ったと伝わる。
慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦の際は、薩摩兵士の屯営となった。山頂にはこのときに戦死した薩摩藩士の名を記した石碑五基および西郷隆盛の筆になる「東征戦亡之碑」が建つ。
■16 天得院
天得院は正平年間(1346~70)無夢一清によって開創、玉渓慧瑃を請して開山した道場。無夢一清は永仁2年(1294)備中に生まれ、玉渓慧瑃の法を嗣ぐ。嘉元年間(1303~6)元にわたり、廬山の竜巌徳真、百丈山の東陽徳輝らに師事する。観応元年(1350)の帰朝後、備中の宝福寺、東福寺第30世住持となる。応安元年(1368)寂す。75歳。墓は書院背後の墓地内にあり、南北朝時代の様式をとどめる無縫塔を墓石としている。
天得院は東福寺五塔頭のひとつであったが、寺勢は衰退していった。大機慧雄禅師によって一度は再興されたが、東福寺の住持であり南禅寺の住持にもなった文英清韓が、慶長19年(1614)豊臣秀頼に請われて方広寺の鐘銘を撰文したことから、南禅寺から追放され、その菴であった天得院は打ち壊された。清韓は駿河に送られたが、元和6年(1620)赦されて帰住し、翌7年(1621)に寂す。 現在に残る堂宇は天明9年(1789)に再建されたものであり、明治元年(1868)に山内の塔頭本成寺を合併して再興されている。
書院前庭はやや荒廃しているが、東西にのびた矩形の地割に石組みを配し、美しい苔によって一面に覆われた文英清韓長老の頃の作庭と言われる桃山時代の様式をとどめた枯山水の庭。昭和43年(1968)中根金作によって一部補修が行われている。
■17 芬陀院
芬陀院は正しくは芬陀利華院と号し、画聖雪舟の作と伝わる庭園に因んで雪舟寺とも称す。元亨年間(1321~24)に時の関白一条経通が東福寺開山・聖一国師の法孫にあたる東福寺第27世定山祖禅を開山として、亡父内経の菩提を弔うために創建している。そのため以後、一条家の香華院とされている。
元禄4年(1691)に堂宇を焼失するが、関白一条兼輝により再建されている。しかし宝暦5年(1755)の火災により再び堂宇を失い、桃園天皇の皇后恭礼門院(一条兼香女)の旧殿の一部が下賜され再興されている。その後、明治32年(1899)昭憲皇太后から御内帑金を賜り改築したものが現在の芬陀院の建物。
庭園は書院の南にあり、中央に亀島、左に鶴島が築かれる。ツツジやサザンカの刈込を配した蓬莱池庭式の枯山水庭園。室町時代の特徴を示す北宋絵画形式を採り入れている。残念ながら作庭者は特定できていない。長い間荒廃していたが、昭和14年(1939)重森三玲により修理復元されている。この時に書院東部に鶴亀の枯山水庭園が作られ、書院南庭から背後の一条昭良好みの茶席図南亭までの空間が統一感を持って構成されるようになった。なお図南亭は昭和44年(1969)に再建されている。露地には昭良愛好の曲玉の手水鉢と屑屋形石灯籠を置く。
境内西南隅にある開山堂には、定山祖禅の木像と天得庵や荘厳院と同様の石造無縫塔の墓があり、後小松天皇勅諡の普応円融禅師の扁額がかかる。なお禅師は応安7年(1374)に寂している。
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