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東福寺 龍吟庵 その5



東福寺 龍吟庵(とうふくじ りゅうぎんあん)その5  2009/11/28訪問

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東福寺 龍吟庵 開山堂

 偃月橋の手前に掲げられている看板「国宝龍吟庵」の通り、龍吟庵方丈は現存する最古の方丈建築として国宝に指定されている。龍吟庵方丈の基本構成は、南北を軸とした左右対称の建物であり、現在は南庭と西庭そして東庭が配され、方丈北側の軸線上に、昭和50年(1975)開山堂が建設されている。この開山堂、方丈そして表門さらには偃月橋が軸線上に配置されている。単層入母屋造杮葺き屋根を持つ建物で、桁行七間、梁間五間で、桁行正面には両開き双折桟板唐戸、両端の柱間には外部側に蔀戸、内部側には明り障子がはめ込まれるなど、書院造に寝殿造風の名残を留めている。僧侶や隠遁者が簡単に構築でき、解体して移設することも可能な方丈から、寺院の住持が生活する建物に転じて行ったように、もともと質素な生活の場でもあった。そのため龍吟庵方丈にも住宅的な雰囲気が残っている。

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東福寺 龍吟庵 開山堂 「霊光」

 楣上には、足利幕府第3代将軍足利義満の筆による龍吟庵の額を掲げる。この額の銘と墨書から、方丈の創建年は嘉慶元年(1387)頃と考えられている。内部は方丈建築の特徴である六室に分割されているが、中央前面の間(室中)正面を板壁とし仏壇を設けないなど、近世標準的な方丈形式に達する前の古式を伝えている。
各室の天井は棹縁天井となっているため、全体的に均質な空間構成となっているが、中央前面の室中はその両側の脇室に比べ高い天井高を持っている。また室中と奥の仏間は板壁で区切られ、大明国師像が掛けられているため、仏間から室中そして南庭へという軸線よりは、前面3室の中の中心性が強調される結果になっている。この3室は鴨居から欄間、蟻壁長押そして蟻壁の構成は同じだが、その先の蟻壁長押の高さを変えることで異なった天井高を作り出している。また天井まで柱が延びていないため、天井面からの圧迫感が少ない空間になっている。
 「日本の建築空間」(新建築社 2005年刊)に掲載されている内部写真と図面を見ると、方丈の室内空間が簡素な建築的手法によって作り出されていること、そして実に良く計算された結果によって創り出されていることに気がつかされる。

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東福寺 龍吟庵 方丈東庭 「不離の庭」
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東福寺 龍吟庵 方丈東庭

 この方丈以外にも、方丈の中心軸上に設けられた桁行一間、梁間一間、一重切妻造妻入こけら葺の表門と、一重切妻造妻入銅板葺の庫裏が重要文化財に指定されている。なお庫裏の創建年は慶長8年(1603)と分かっているが、表門は桃山時代の作であろうと考えられている。

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東福寺 龍吟庵 方丈東庭

 先に説明したように龍吟庵の3つの庭は、重森三玲が昭和39年(1964)に作庭したものである。東福寺には重森の作庭した庭が多く残されている。昭和14年(1939)に東福寺本坊(方丈)と光明院の庭園が造られ、普門院庭園が修復されている。翌昭和15年(1940)芬陀院の雪舟作と伝わる庭の修復とこれに続く東庭の作庭を行っている。そして龍吟庵の庭の後の昭和45年(1970)より霊雲院の九山八海の庭と寺号に因んだ臥雲の庭を手掛けている。また隣接する泉涌寺本坊(非公開)や善能寺遊仙苑もこれと同じ時代の作品である。重森の年譜でも初期の作品にあたる本坊や光明院から、最晩年の作品となる霊雲院や善能寺までが、洛南の限られた地域で見ることができることは非常に嬉しいことである。

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東福寺 龍吟庵 方丈南庭

 方丈南側の庭は、白砂を敷き詰めた方形の空間となっている。大明国師の塔所であり格式の高い塔頭であるこの場の設え方として、古の禅宗寺院の雰囲気を現代的に再現することこそが、最も相応しいと重森は考えたのではないだろうか?これは無を表現したのではなく、日本庭園の原初の形の一つが現れたものと見たい。そして国宝の方丈と重要文化財に指定されている表門、さらには偃月橋との位置関係が明確になる効果も上げている。なお偃月橋と龍吟庵表門は同じ慶長8年(1603)に建立されている。
 南庭が方形となるように、南庭に続く西庭の間には竹垣が築かれている。GoogleMapの航空写真で見れば分かるように、方丈屋根の西の軒先の位置に作られている。ただし東側は附け玄関があるため、軒先位置で区切ることはできていないが、図学的には開山堂を含めて軸線を強調することとなっている。
 また、竹を用いて稲妻形の紋様が描かれている。方丈南庭から時計廻りに西庭に巡っていく拝観者に次の展開の予感を与えている。

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東福寺 龍吟庵 方丈西庭

 西庭の平面は台形の形状をしている。南庭との間に築かれた竹垣の裏側から始まる。南庭の境界となっていた低い築地塀は、西庭にも廻らされているが、壁の部分の色は異なっている。白砂の美しい南庭には白い壁が使われ、躍動感のある西庭には薄い茶色の壁に変えられている。西庭はこの塀の外側から、圧倒的なボリュームの紅葉した楓の枝々が差し出され、庭の上部を赤い雲のように覆っている。この不思議な形状をした西庭は、塀を低くした上に木々の枝振りにより、歌舞伎舞台のような間口の広い空間を作り出している。
 このような空間構成の中に、重森は雲の上を飛ぶ龍の姿を灰色と白色の砂と緑色の立石を使用して描き出している。庭の中央の灰色の砂に配された3つの立石を龍の頭部と角としている。ここから反時計回りに置かれた十数個の石で、嵐を呼ぶ黒雲から頭をもたげた龍の全貌を表現している。白砂の庭の上に灰色のモルタルで線描を行い、その内側に黒に近い灰色の砂を敷き詰め、複雑な砂紋を描いている。このような黒雲は、龍を取り巻くように6ないし7個作られている。庭全体が暗くなり過ぎなく、また龍の姿が灰色の砂で見えにくくならないように、バランスよく塗り分けている。特に頭部に使用した宝船のような「くの字」に折れた石は、まさに黒雲を蹴散らして天上に駆け上っていく龍の躍動感を表現する上で欠かせない形状となっている。さらに紅葉の時期にはこの龍の頭上に赤い雲が覆うような構成となっていることが、さらに緊迫感を高めている。
 上記のような空間構成となっているため、この庭を見る者は、座観式庭園のように3石の龍頭を中心に、あまり目線を上げることなく左右を眺めることになる。これが天上に登ろうとしている龍の大きさを引き出している。また西庭の北部には竹垣が築かれ、方形の渦巻き紋様が描かれている。螺旋状に上昇する龍の形状をここでも使用している。

 方丈の北側には竣工昭和50年(1975)竣工の開山堂がある。この建物には、東福寺 龍吟庵 その4で記したように、等身大の大明国師坐像が安置されている。この方丈北面には重森の庭がない。昭和36年(1961)庫裏の北側の大明国師の墓より骨蔵器が発掘されて以来、昭和38年(1963)に大明国師坐像の修理が行なわれ、昭和39年(1964)に重森三玲によって龍吟庵の3つの庭が作庭されている。そして国師像を祀るための開山堂を昭和50年(1975)に竣工させている。開山堂を建立する場所は、既に図学的にも決定していたともいえる。

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東福寺 龍吟庵 方丈東庭
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東福寺 龍吟庵 方丈東庭の竹垣

 そして3番目の東庭は、南庭や西庭と比較して小さな、庫裏との間の中庭となっている。一面に鞍馬の赤石を砕いたものが敷き詰めているため、見る者に衝撃を与える。西庭はその絵画的な構成に驚き、この東庭は日本庭園では見かけることが少ない色彩感覚に驚かされる。長方形の庭には北から南側に向けて3・3・3の9石が配されている。中央の石のみ高さが低い横石が置かれ、それを2つの石が挟み込んでいる。この2つの石の外側には3石が囲むように配置されている。幼少時代に病に倒れた大明国師は荒野に捨てられる。国師を襲おうとする狼の群れから二匹の犬が守ったという逸話を表現している。確かに、中央に置かれた横石は病に倒れた大明国師、その両側に置かれた2石は国師を守ろうとした二匹の犬、その両側の6石は荒野を彷徨している狼達を表している。そして白砂や黒砂でなく珍しい赤砂を使用したのは、荒野を表現するためであったのだろう。
ここでも北側のアイストップに竹垣が築かれ、山の紋様が描かれている。

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東福寺 龍吟庵 方丈東庭

「東福寺 龍吟庵 その5」 の地図





東福寺 龍吟庵 その5 のMarker List

No.名称緯度経度
01  東福寺 偃月橋 34.9769135.7747
02  東福寺 龍吟庵 表門 34.9772135.7748
03  東福寺 龍吟庵 方丈 34.9774135.7748
04  東福寺 龍吟庵 開山堂 34.9775135.7748
05  東福寺 龍吟庵 方丈南庭 無の庭 34.9773135.7748
06  東福寺 龍吟庵 方丈西庭 龍の庭 34.9774135.7746
07  東福寺 龍吟庵 方丈東庭 不離の庭 34.9774135.7749

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