大徳寺 塔頭 その11
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その11 2009年11月29日訪問
総見院の東を南北に船岡東通が通る。この船岡東通の西側にはかつて天瑞寺があったことは、大徳寺の塔頭 その5でも触れている。この場所には現在、龍翔寺が建てられている。 明治11年(1878)3月11日に、第471世牧宗宗壽と塔頭総代の玉林院住職能見山宗竺が京都府知事槇村正直宛に「合併切縮之儀ニ付御伺」を提出している。大徳寺塔頭の推移については改めて項を起こして記すつもりだが、この時に塔頭13ヶ寺の合併、4ヶ寺の切縮、残りの20ヶ寺を永続塔頭としている。「合併切縮之儀ニ付御伺」に附けられた「別紙」の「合併寺院ノ記」によると、
天瑞寺ヲ本寺大徳寺ェ合併
総見院ヲ本寺大徳寺ェ合併
龍翔寺ヲ養徳院ェ合併
三玄院元龍翔寺へ引移御願
とある。金龍院、寸松庵、昌林院などとともに天瑞寺、総見院そして龍翔寺は、この時に合併されている。また同時に、三玄院が龍翔寺のあった場所に移転していることも分かる。すなわち、かつての龍翔寺は現在の三玄院の場所に存在していたこととなる。こうして明治の初年に大徳寺と19の塔頭を残すだけになったが、その後、総見院と龍翔寺が復興され、現在では如意庵、龍泉庵、来光寺が加わり24塔頭となっている。
この項では龍翔寺の開創の経緯と大徳寺山内への移建を見て行きたい。
龍翔寺は大徳寺開山宗峰妙超の先師である南浦紹明の塔所として、鎌倉時代末の延慶2年(1309)後宇多法皇によって西京安井の柳殿御所跡に創建されている。として天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会には龍翔寺旧趾について下記のような記述が残されている。
安居村にあり、御宇多院塔此所にあり。伝云、御髪を蔵る所なりとぞ
また、寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会にも、大徳寺塔頭龍翔寺として、下記のように記されている。
旧西京安井村にあり、応仁の火後廃す。今大徳寺演法堂正受の北にあり、開山南浦和尚、入宋虚堂和尚に法嗣す、延慶元年十二月廿九日寂す、七十四歳、諡円通大応国師。宋より帰朝の後、興徳万寿建長等に止錫し、又西京龍翔、豊後の円福、城南の妙勝等、師を奉じて開祖とす
龍翔寺のあった西京安井は、現在の太秦安井池田町及び奥畑町であり、北に法金剛院と双ヶ丘、西に木嶋坐天照御魂神社がある。
柳殿御所は高倉天皇の典侍・藤原殖子に始まる。保元2年(1157)藤原信隆の娘として生まれ、中宮平徳子に仕え、高倉天皇に召されて第2皇子守貞親王、第4皇子尊成親王を産む。高倉天皇は治承5年(1181)1月14日に崩御している。源氏による平氏打倒の兵が挙がる同年閏2月4日に平清盛も没している。
寿永2年(1183)倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲軍に大敗を喫すると、守貞親王は平家の都落ちと共に西国に連行される。そのため後白河法皇は、都に残った同母弟の尊成親王を後鳥羽天皇として即位させている。殖子は建久元年(1190)従三位・准三后、その後立后を経ず女院となり七条院と呼ばれ、元久2年(1205)出家している。承久3年(1221)に起きた承久の乱により、後鳥羽院と土御門院、順徳院、雅成親王、頼仁親王の4人の孫が配流となる。しかし鎌倉幕府の戦後処理により、守貞親王の皇子が後堀河天皇として即位する。殖子も祖母として京都に留まるが、子の後高倉院(守貞親王は子の後堀河天皇が即位したため、死後に大上天皇号が贈られている)も貞応2年(1223)に崩御している。殖子は後鳥羽院との再会を果たせず、安貞2年(1228)72歳で崩御。その所領の七条院領の大半は後鳥羽天皇の女院の修明門院に譲られている。
修明門院は寿永元年(1182)藤原範季の娘、藤原重子として生まれている。後鳥羽天皇の寵愛を受け、建久8年(1197)第2皇子守成親王を産む。承元4年(1210)には守成親王が即位し、順徳天皇となる。承久の乱後、後鳥羽上皇の出家に伴い、重子も落飾し、法名を法性尼と称している。配流された順徳上皇の子供達を養育し、後鳥羽院の母である七条院をも労っている。また、延応元年(1239)に後鳥羽、仁治3年(1242)に順徳院が崩御すると、重子は朝廷に要請して後鳥羽院の菩提を弔うよう取り計らっている。重子も七条院殖子と同じく長命で、文永元年(1264)83歳で崩御。
修明門院の没後、柳殿御所は後鳥羽天皇第3皇女礼子内親王(嘉陽門院)に継がれる。幼少時は祖母七条院殖子のもとで養育されている。承久の乱による混乱等のため、賀茂斎院は卜定されず廃絶されたため、礼子内親王が歴代最後の斎院となる。嘉陽門院もまた長命で、文永10年(1273)74歳で崩御している。嘉陽門院の遺志に従い、柳殿御所は南浦紹明の塔頭所敷地に寄進されている。従って同署には嘉陽門院御廟が築かれ、龍翔寺によって嘉陽門院の菩提が弔われてきた。
南浦紹明は嘉禎元年(1235)駿河国安倍郡に生まれている。幼くして駿河の建穂寺に学び、建長元年(1249)には建長寺の蘭渓道隆に参禅している。正元元年(1259)宋に渡り、虚堂智愚の法を嗣いでいる。文永4年(1267)帰朝すると、文永7年(1270)までは鎌倉にいたが、その後は筑前の興徳寺、大宰府の崇福寺などに30余年留まり、多くの弟子を育てている。紹明の門徒達は横岳派と呼ばれ、五山寺院においては、建長寺天源庵、建仁寺天潤庵、南禅寺正眼院を形成している。
後宇多上皇の勅請に応え、嘉元2年(1304)南浦紹明は鎮西を後にして京に上る。紹明は安井の韜光庵に寓居し、宮中において問法している。嘉元3年(1305)上皇は紹明を万寿寺の住持とするとともに、東山の故趾に紹明を第一祖とする禅刹 嘉元寺の造営を着手する。この嘉元寺については、多くの資料が残っていないようで、紹明が徳治2年(1307)鎌倉の正観寺に去ってほどなくして比叡山の僧によって破却されたとされている。また紹明も北条貞時の招請で建長寺住持となるが、翌延慶元年(1308)に寂している。寂後の延慶2年(1309)上皇より円通大応国師の諡号が贈られる。これは日本における禅僧に対する国師号の最初であり、南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大燈国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」と呼ぶ。
南浦紹明は示寂後、紹明の法嗣である絶崖宗卓は後宇多上皇の信任を受けることとなる。そして示寂のわずか3ヶ月後の延慶2年(1309)後宇多上皇の離宮である柳殿御所を南浦紹明の塔所の敷地として永代寄附を行なっている。すなわち上皇は自らの離宮を、帰依していた南浦紹明の塔頭として法嗣の絶崖宗卓に託して寺院としたのが龍翔寺の始まりである。同年9月11日、柳殿と新御領を龍翔寺の寺家に付属させ、龍翔寺の寺院としての独立性を確保させている。南浦紹明の塔所は普光塔と号したが、元亨4年(1334)後宇多上皇が崩御されると、その左隣には遺髪が納められた後宇多院塔が造営される。現在でも後宇多院塔が後宇多天皇遺髪塔として残る安井の地に残る。
創建当初の龍翔寺は二条大路末を南限とし、御室川から東に2町(218メートル)余、南北3町(327メートル)弱の大きさをしていたようだ。これは創建当初の大徳寺と匹敵する規模であった。延文3年(1358)後光厳院が大徳寺、円福寺と共に三寺興隆の綸旨を第1世徹翁義亨に下賜されている。義亨は龍翔寺堂舎修補料足の寄進を規定し、徳禅寺が龍翔寺の護持を行なっている。なお永和4年(1378)火災により諸堂及び寺物を悉く焼失している。
至徳3年(1386)足利義満が定めた五山十刹で、龍翔寺は山科国十刹の第九位に列せられ、官刹となっている。応仁の乱の始まる直前の文安3年(1446)頃には、方丈、侍真寮、僧堂、庫裏、中居、雑地寮などがあり、仏殿や法堂の伽藍諸堂は備わっていいなかったと考えられている。このように官刹となって以降、龍翔寺の寺観を維持することが困難になったようで、寛正2年(1461)に龍翔寺を訪れた第47世一休宗純は、寺の衰退を嘆き修造費を寄進している。応仁の乱(1467~77)で荒廃した後、文亀3年(1503)に開山南浦紹明の二百年忌が龍翔寺で催されている。開山費のために香銭が509貫739文集められたが、その内の150貫は大徳寺が出資している。応仁の乱後の大徳寺の発展に伴い、龍翔寺の運営についても五山寺院の横岳派に対して大徳寺の発言力が増してきたことが伺える。
大永7年(1527)2月12日、第12代将軍足利義晴と管領細川高国は桂川を挟んで波多野三好連合軍と対峙した。この桂川原の戦いは翌13日に波多野三好連合軍が桂川を渡河し、西京に侵攻する展開となる。高国は義晴を奉じて坂本に逃げ去り、京都幕府は崩壊する。この時の戦により、西京、桂そして下京辺りが戦場となり、龍翔寺も戦火に見舞われ荒野に化すほどの甚大な被害を受けている。そしてしばらく再建されないで放置されてきた。また同年12月に作成された「龍翔寺学校割帳」には、開山塔、昭堂、方丈並びに庫裏などの堂宇の他に開山木像以下137件と67件の什物が記され、さらに
殿堂破却退転、故開山大応国師大徳寺借座
とある。
大徳寺の門徒の間に龍翔寺再建が取り上げられる様になり、天文8年(1539)大徳寺隣接の地を買い上げて新しい堂舎が造立される。これが法堂の西側、現在の三玄院の場所であった。
龍翔寺ははじめに十刹、そして後に諸山の官刹であったため、その移建について室町幕府の了承を得ている。天文9年(1540)に「室町幕府奉行人連署奉書」が提出され、幕府から再建が認められると共に、寺領及び敷地などが安堵されている。そひて翌年の天文10年(1541)3月25日、後奈良天皇により第94世天啓宗歅宛てに大徳寺境内再興の綸旨が下賜されている。龍翔寺の再建は、大徳寺にとって開祖宗峰妙超の師である南浦紹明の塔所を山内に移したことによる権威的付加も大きかったが、龍翔寺領の支配権獲得という財政的な面でも価値があった。
文化13年(1816)自火により焼失、翌年再建された客殿は現在三玄院の客殿として遺存、明治維新後に養徳院への合併案も出たが、大正14年(1925)天瑞寺跡地に再興され、昭和2年(1927)に大徳寺派の修行専門道場になっている。
「大徳寺 塔頭 その11」 の地図
大徳寺 塔頭 その11 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
33 | 大徳寺 龍翔寺旧地 | 35.0432 | 135.7454 |
33 | ▼ 大徳寺 龍翔寺 | 35.0438 | 135.7433 |
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