乙訓寺
真言宗豊山派 大慈山 乙訓寺(おとくにでら) 2009年12月9日訪問
光明寺より光明寺道を東に進み、光明寺道の交差点で右折し文化センター通りに入る。そのまま300メートルほど南に下り、今里大通りを左折し東に進む。200メートルくらい歩くと、歩道上に小さな道標が建てられている。これに従い左手の細い道に入って行くと正面に乙訓寺の赤い山門が現れる。
延暦3年(784)の長岡京造営以前より、すでに乙訓の地には、多くの人々が住んでいた。乙訓寺のある台地およびその東側の台地下の傾斜面には、縄文時代から古墳時代にかけての集落跡を見ることが出来る。この今里遺跡は東西300メートル、南北500メートル以上にわたる広い範囲に及ぶ。先土器時代のナイフ形石器が出土されたことより、旧石器時代からこの地で生活が営まれ、特に弥生中期から古墳後期に至る時期には大規模な集落が形成されていたことが発掘調査などより明らかになっている。 今里集落の東端には東面する前方後円墳が築かれている。今里車塚古墳は5世紀前半に造営されたと考えられており、恵解山古墳とともに乙訓地域における古墳中期の首長墓のひとつとされている。恵解山古墳より先行して築かれたとされている。また長岡天満宮の北600メートルに築かれた今里大塚古墳は巨石古墳である。6世紀後半から7世紀初頭にかけて造営された古墳は、平坦地に立地する巨石古墳としては太秦の蛇塚と比較することも可能な、桂川右岸地域の後期古墳を代表するものとされている。
この古墳時代の出来事として、「日本書紀」継体天皇12年条には、下記のように記されている。
継体天皇元年(507)現在の大阪府枚方市楠葉丘の樟葉宮で即位された継体天皇は、その4年後に都を筒城宮に移している。これは現在の京都府京田辺市多々羅都谷と考えられている。そして継体天皇12年(518)に長岡京市今里に弟国宮を築いている。弟国宮跡を明確に示す遺蹟の発見には至っていないものの、本居宣長の時代より、井内・今里あたりと推測されてきた。弟国宮遷都の8年後の継体天皇20年(526)、再び現在の奈良県桜井市池之内に磐余玉穂宮を造営している。越前国高向を出た継体天皇は、即位して19年目に始めて奈良の地に入り、この地で5年過ごした後に崩御されている。
非常に目まぐるしい遷都を行った天皇であるとともに前半生の3つの都は奈良ではなく、河内と山背の地の水上交通の要衝に築かれている点が注目される点であろう。すなわち樟葉宮が淀川、筒城宮が木津川そして弟国宮が桂川を押さえる重要な地域でもあった。そして最終的には奈良に都を戻したということであろう。継体天皇以前の8代の天皇が、奈良に都を定めていたにもかかわらず、継体天皇は奈良の地を離れ河内・山背の地の3つの都を築いている。その目的は判らないが、即位後すぐに奈良に入って行かなかったという事実は、継体天皇の出自が明確でないことと何か関連があるように思わせる。即位して直ぐに奈良の地に入れなかった事情が存在していたようにも思える。
「山城国風土記」逸文には、賀茂建角身命の子の玉依日売は、瀬見の小川を流れてきた丹塗矢に感じて賀茂別雷命を生んだとされている。そして丹塗矢は、乙訓郡社坐火雷神の変身したものであったとしている。賀茂建角身命は、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導した人物とされている。そして孫の賀茂別雷命は上賀茂神社の祭神となっている。「日本歴史地名大系第26巻 京都府の地名」(平凡社 1994年初版第4刷)では、この伝承を乙訓地域の当時の開発状況と権力者の存在に結び付けている。すなわち玉依姫婚姻の説話はこの地方の豪族と賀茂氏の交流を思わせるものであり、その豪族が大和政権に対して影響力を持っており、恐らくその経済力こそが弟国宮造営やさらに長岡京造営につながっていったと考えているようだ。
賀茂氏が葛城を離れ山背に入ったのは5世紀中ごろから6世紀にかけてのことと考えられている。恐らく秦氏が葛野に進出した後、あるいはほぼ同時期に賀茂氏も葛野に現れたと思われる。それが継体天皇の弟国宮造営の時期と乙訓の地でほぼ一致している。さらに時を経て、乙訓の賀茂氏の一部は葛野より愛宕に移り、上賀茂神社と下賀茂神社を祀ったと類推される。
長岡京の造営が始まったのは延暦3年(784)の頃とされている。宮城や内裏は現在の西向日駅の北側あたりの向日市内に建設されている。長岡京市には条坊の整備が進められ、宅地開発が行われた。そして延暦4年(785)正月、長岡京の宮殿で新年の儀式が行われている。都の建設はこの半年前から開始されたとしているので、実に短工期だったことが伺える。これは反対勢力や遷都による奈良の人々への影響を意識したことによっていると考えられている。桓武天皇は遷都とともに朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用することで反対勢力を遠ざける政策をとってきた。
しかし同年9月、造長岡宮使であった藤原種継が暗殺される。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いただけでなく、桓武天皇の皇太弟早良親王もこの叛逆に関与していたことが明らかになる。そして親王は配流先で恨みを抱いたまま死去すると、日照りによる飢饉・疫病の大流行や皇后や皇太子の発病など様々な変事が起こる。これらは早良親王の怨霊に因るものとされ、親王の御霊を鎮める儀式を執り行うものの、ついに大雨によって小畑川や桂川が氾濫し都に大きな被害を与えることとなった。ここに至り、和気清麻呂の建議により、延暦13年(794)平安京への遷都が行われる。長岡京が都であった期間は僅か10年にも満たなかった。
寺伝によると、乙訓寺は推古天皇の勅願、聖徳太子による創建とされている。そのため推古天皇11年(603)あるいは推古天皇30年(622)に建立されたとされる太秦の広隆寺とほぼ同じく時代とされている。現寺地北側一帯では、奈良時代前期(白鳳時代)から平安時代に至る古瓦を多量に出土してきたことより、長岡京造営以前の奈良時代にはすでにこの地に寺院があったことが知られていた。聖徳太子建立は伝承としても、恐らく7世紀頃の郡司クラスの豪族が建立した郡寺であったと古くから考えられてきた。広隆寺は、秦河勝によって建立されたことを思うと乙訓寺が誰の手によって建立されたか興味深いところである。 昭和41年(1966)から始められた発掘調査により、講堂と推定される大規模(桁行九間27メートル、梁行四間12メートル)な礎石建物や僧房と考えられる掘立柱建物5棟や瓦窯跡、火葬跡が見つかっている。これらから当時の伽藍配置図を推測することは困難であるが、周辺の地割より東西1.5町以上、南北2町以上の寺域を誇る巨大な寺院が存在していたことは確実である。
先にも触れたように、遷都後間もない延暦4年(785)9月23日夜、造長岡宮使の藤原種継は監督中に矢で射られ翌日に死亡している。この時、桓武天皇は大和国に出かけていたことから、天皇の留守中に強行された暗殺事件であった。暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて斬首となっている。そして事件直前の8月28日に陸奥国で没した大伴家持が首謀者とされ、官籍から除名されている。さらに事件に連座して流罪となった者も五百枝王・藤原雄依・紀白麻呂・大伴永主など複数にのぼる。
その後、事件は桓武天皇の皇太弟であった早良親王にも嫌疑がかけられる。もともと種継と早良親王は不仲であったとされているが、大伴家持は春宮大夫を務めており、高成や他の逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人も複数いた。これらの状況証拠により、早良親王は乙訓寺で監禁された。親王は身の潔白を示すため断食されたが、流罪処分となり淡路島に護送途中の9月28日、河内国高瀬橋付近(現在の大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死している。遺骸はそのまま淡路に送られ、その地で葬られている。
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