横井小楠殉節地 その4
横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その4 2009年12月10日訪問
横井小楠殉節地 その3では横井小楠の年譜に従い、誕生から時習館改革そして肥後実学党の分裂までを書いてきた。この項では小楠の越前藩招聘から明治元年(1868)までを記してみたい。
万延元年(1860)の「国是三論」から少し時代を遡る。安政4年(1857)5月、越前藩士村田氏寿が松平慶永の命を受け、横井小楠招聘のために熊本を訪れる。肥後藩庁は小楠招聘に対して難色を示し、種々の理由をもとに許可を降ろさなかった。しかし藩主細川斉護の三女勇姫が慶永の正室という姻戚関係から半ば強引に許可を得ることとなる。安政5年(1858)3月、熊本を発った小楠は4月7日に福井に入っている。小楠は五十人扶持を与えられ、賓師の礼を以って越前藩に迎えられる。
福井での小楠の仕事は会読の指導から始まった。藩校明道館で朝の8時から正午まで講義を行い、午後は会読を行う。小楠客館では家老(七ノ日夕)、用人および諸番頭(一ノ日夕)、役人(八日・十八日夕)、明道館では家老格で現職でないもの(三ノ日朝)、役輩・学論まで(五ノ朝六ノ朝)、句読師・外塾師(四ノ朝)、助句読師・典籍・外塾師手伝まで(二ノ朝)と日と午前午後を分けてスケジュールが組まれていた。特に藩重臣達とは、夕刻自宅において膝を付き合わせて行っていたため、教授の対象は指導層であり、一般藩士や学生までは手が回らなかったようだ。
この時期、松平慶永は江戸に留まり将軍継嗣問題に奔走していた。堀田正睦による京での朝廷交渉が失敗に終わり、安政5年(1858)4月23日彦根藩主・井伊直弼が大老に就任する。6月19日岩瀬忠震と井上清直は、勅許を得ないままに日米修好通商条約の調印を行う。同月22日諸大名に総登城を命じ条約調印を発表すると、登城日ではない同24日に水戸の徳川斉昭・慶篤、尾張の徳川慶恕そして松平慶永は登城し、違勅調印について大老に詰め寄った。しかし翌25日には徳川慶福の後継決定を発表し継嗣問題に決着を告げる。7月5日、前水戸藩主徳川斉昭に急度慎、名古屋藩主徳川慶恕に隠居・急度慎、福井藩主松平慶永に隠居・急度慎を命じ、一橋家主徳川慶喜の登営を停止させている。さらに翌日の7月6日には第13代将軍・徳川家定が薨去する。喪は8月8日まで秘される。そして隠居・謹慎を命じられた松平慶永は江戸霊岸島に幽閉される。このように小楠が福井に着任してから3ヶ月の間に幕府における松平慶永の位置は大きく変わっている。
小楠は安政5年(1858)12月に福井を発ち、1月3日に熊本に着いている。招聘されてから初めての帰国である。しばしの休憩をとった後、安政6年(1859)4月下旬に熊本を出発し、5月20日に福井に入っている。越前藩の富国策を推進し、10月には物産総会所を設立している。そして10月7日に橋本左内が江戸小塚原刑場において斬首に処せられる。享年26。小楠は母かずの重病を知り12月5日に福井を発ち同月18日に沼山津に戻っている。しかし11月29日に母は死去していた。万延元年(1860)3月、3度目の招聘に応じて福井に赴く。上記の「国是三論」を執筆する。この年の9月4日一橋慶喜、徳川慶恕、山内容堂、松平春嶽の謹慎が解かれるが、帰藩・面会・文書往復は禁止されている。これらが解かれるのは実に不時登城より4年近く経た文久2年(1862)4月25日のことである。
文久元年(1861)4月、既に謹慎が解かれた春嶽に招かれ、小楠は江戸を訪れている。そして霊岸島で春嶽との初対面を果たしている。8月20日に江戸を発ち再び福井に戻っている。10月5日には越前藩の書生7名を連れ福井を発ち、10月19日沼山津に帰国している。この帰国中の11月26日に禁猟場での発砲事件すなわち榜示犯禁事件を起こしてしまう。沼山津一帯の沼沢地は藩主の鷹狩場で、標識(榜示木)が立つ禁猟区になっていた。小楠はその場所で残った弾を射ち放したのを監視の役人に見咎められている。文久2年(1862)3月、榜示犯禁に対し処分が決まり、6月初旬福井に向けて熊本を発つ。途中で春嶽の急使に迎えられ江戸に向う。7月6日着府した小楠に政治総裁職就任を諮る。同月9日正式に政治総裁職に就任する。そして12日には戊午以降の国事犯者の赦免を幕議で決定している。ここより本格的に松平春嶽のブレインとして小楠の活躍が始まる。7月に「国是七条」、12月に「攘夷三策」の建白書を提出する。「国是七条」は政治総裁職を拝命した日か、その直ぐ後に建言されたと考えられている。「続日本史籍協会叢書 横井小楠関係史料1」による。
大将軍上洛謝二列世之無禮一。止二諸侯参勤一為二述職一。帰二諸侯室家一。不レ限二外藩譜代一撰レ賢為二政官一。大開二言路一、與二天下一為二公共之政一。與二海軍一強二兵威一。止二相對交易一、為二官交易一。
この年の12月19日の夜、横井小楠は肥後藩江戸留守居役吉田平之助、同藩士都筑四郎との宴席において3人の暴漢に襲われている。いわゆる士道忘却事件が発生する。常盤橋の越前藩邸まで駆け戻り差替えの刀を取って引き返したところ、すでに犯人は現場を去り、負傷した吉田(後日死亡)と都筑が残されていた。肥後藩邸では狼藉者を見ながら無刀で越前藩邸に戻った小楠が不届き者であるとした。翌日の朝には肥後藩重役沼田勘解由が越前藩邸を訪れ、中根雪江に小楠引き取りを申し入れている。このまま引き渡すと国許での自発的切腹も免れないため、最初に招聘を決めた松平春嶽と細川藩主との間の協議で決めることを申し入れ、それまでは小楠の身柄は越前藩に置く事とした。この交渉の裏で、小楠の安全を図るため12月22日には江戸を発ち福井に向わせている。
小楠達を襲撃したのは肥後の肥後勤王党の堤松左衛門と肥後藩邸の足軽・安田喜助と黒瀬一郎助。同じ肥後藩士として開国論を唱える横井小楠が目障りなため誅殺を図ろうとした。結果的には小楠は生命的には無事であったものの、政治的に暗殺されたのも同然の状況になった。文久3年(1863)1月22日松平春嶽は上京のため江戸を発つ。上記のように小楠の安全を図るために福井に戻したため、最大のブレインを京に連れて行くことが出来なかった。正月5日一橋慶喜、13日老中格小笠原長行、25日山内容堂そして2月4日に松平春嶽が入京する。春嶽は幕府委任が成されないのならば大政奉還すべきと主張する。慶喜は攘夷実行を約束に政務委任を取り付ける道を選択するが、3月7日攘夷委任するが国事は事柄によっては天皇が諸藩に直接命じるという沙汰書が下される。攘夷実行を引き換えにしても政務委任を得ることはできなかった。これを受けて春嶽は3月9日と15日に政治総裁辞任を申し出、3月21日払暁、政事総裁職辞任が容れられないまま離京する。幕府は26日に政治総裁職を罷免し、逼塞処分にしている。この逼塞が解かれるのは5月17日のことである。
文久3年(1863)4月、越前藩のために「処時変議」「朋党の病を建言す」を執筆し、越前藩挙藩上洛計画を主導する。計画とは、外国公使を交えた朝幕要人の京都会議により開国鎖国の国是の決定、朝廷の裁断権・賢明諸侯の大政参加・幕臣以外に列藩からの諸有司選抜 の2点を建言するため、越前藩挙げて上京し朝幕に言上するというものである。この計画が6月1日越前藩で決定する。その上で計画への連携を求め、肥後藩と薩摩藩に参加を申し入れる。しかし7月23日挙藩上京の藩論が逆転し、挙藩上京派の本多飛騨・松平主馬・長谷部甚平・千本藤左衛門が解職される。なお越前藩の旅宿として使用されていた高台寺が放火されたのは文久3年(1863)7月26日の夜のことであった。
挙藩上洛計画が中止になったため、小楠は8月11日に福井を去り熊本に戻っている。これ以降福井に招聘されることもなかった。越前藩の上洛計画潰えたが、薩摩藩は会津藩と提携し八月十八日の政変を実行している。もし越前藩と薩摩藩の連携がなければ、八月十八日の政変は存在せず、明治維新のかたちも異なったものになったと思われる。この年の12月16日に士道忘却事件の判決が出ている。知行は召上げられ士籍剥奪、ということで小楠の生命が失われることはなかった。これ以降、慶応4年(1868)3月まで沼山津で蟄居する。元治元年(1864)「海軍問答書」を執筆し長崎の勝海舟に建言している。また慶応2年(1866)から慶応3年(1867)にかけて越前藩に時事に就いての意見を提出している。慶応3年(1867)1月に「国是十二条」を越前藩に提言している。
このような横井小楠の年譜を見て行くと、松平春嶽のブレインとして過ごした時間が非常に短かったことが分かる。文久元年(1861)4月に初めて対面したものの、本格的に活動できたのは文久2年(1862)7月の春嶽の政治総裁職就任からその年末に起こる士道忘却事件までの6ヶ月間弱だった。特に文久3年(1863)1月から福井を去る8月までの7ヶ月間、春嶽と共に政治の中心である京に滞在することができなかったことが、その後の歴史に大きな影響を残したと思われる。
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