文書と写真・地図による「記憶」の再現

アーカイブ:2013年 8月 14日

是枝柳右衛門の寓居

 

是枝柳右衛門の寓居(これえだりゅうえもんのぐうきょ) 2009年12月10日訪問 是枝柳右衛門の寓居 GoogleMapより  田中河内介の寓居 その4では臥龍窟の凡その場所を推定してみた。この臥龍窟には多くの有志が訪れたことが伝えられている。そして寺田屋事件の発生した夜、ここに薩摩の是枝柳右衛門が居たことから京での寓居とされる。 文久2年(1862)4月23日の夜、すなわち田中河内介が計画した義挙を実行するはずだった夜、伏見の寺田屋で薩摩藩の上意討ちが行われ、京都挙兵は行われなかった。この計画は既に書いてきたように、京で兵を挙げ関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸を襲撃、さらには青蓮院宮を奉り入朝し大義を天下に掲げる。そして主上と親王が議を決し、之を島津氏に委ねることを最終目標としていた… ►続きを読む

 

田中河内介の寓居 その4

 

田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その4 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 京都都市計畫圖より  田中河内介の寓居 その3では、田中河内介・左馬介父子、海賀宮門、千葉郁太郎、中村主計そして青水頼母の最期を記した。最後に川端通丸太町上ル東側にあった臥龍窟と維新後の田中河内介の扱われ方について書いてみる。 豊田小八郎著の「田中河内介」(河州公顕頌臥龍会 1941年刊)によると田中河内介は度々転居していた。嘉永3年(1850)頃と考えられている書簡には4月朔日を以って寺町五条上ルに転居したことが記されている。高瀬川に臨み、比叡、東山を望み、二階を臨川楼と号したようだ。確かに加茂川は四条から西に逸れて行くため、五条の辺りでは寺町通の東側は高瀬川に面し、その先に鴨川が流れて… ►続きを読む

 

田中河内介の寓居 その3

 

田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その3 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 GoogleMapより  田中河内介の寓居 その2では、寺田屋事件発生後の薩摩藩の対応について田中河内介一党以外について記してみた。ここでは河内介等の最期を描いてみる。 寺田屋事件に関わった薩摩藩士の本国への移送、そして真木和泉の列の久留米藩への引渡しがすむと田中河内介等の処遇を残すのみとなる。田中河内介・左馬介父子と千葉郁太郎、中村主計、海賀宮門は薩士21名、監察4名と多数の足軽に警固され、大阪から日向細島までは海路、それより陸路で鹿児島に向かうこととなった。  左馬介は弘化2年(1845)3月、田中近江介の女・増栄との間に生まれた長子である。幼い頃より文学を好み詩を善くした。東郊と号し… ►続きを読む

 

田中河内介の寓居 その2

 

田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その2 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 豊田小八郎著「田中河内介伝」より  田中河内介の寓居では、安政の大獄が始まるまでの河内介の暮らしぶりについて記してきた。特に梁川星巌、梅田雲浜そして頼三樹三郎に対する人物評を読むと、「性、狷介、自らに恃むところ頗る厚く」という言葉を思い浮かべざるを得ない。ここでは安政の大獄以降、寺田屋事件の勃発から大久保一蔵達が行った後始末までを眺めて行く。 安政の大獄が執行された安政5年(1858)から文久元年(1861)にかけて、田中河内介は西国の各藩を廻り多くの志士と連絡を取っていた。豊田小八郎著の「田中河内介」(河州公顕頌臥龍会 1941年刊)に掲載されている年譜よりその動向が分かる。河内介が面会… ►続きを読む

 

田中河内介の寓居

 

田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ) 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 GoogleMapより  石碑や駒札もないため、その正確な場所は特定できないものの、川端通丸太町上ルには梁川星巌の鴨斤小隠とともに田中河内介の寓居・臥龍窟があった。石田孝喜氏の著書「幕末京都史跡大事典」(新人物往来社 2009年刊)の左京区の18番目に梁川星巌邸跡が採り上げられている。その2つ前では田中河内介宅跡について記述している。また京都市教育会の主要人物であり、京都の幕末史の先駆者でもあった寺井萬次郎の「京都史蹟めぐり」(西尾勘吾 1934年刊)でも左京区の部の6番目に贈正四位 梁川星巌邸址、これに次いで贈正四位 田中河内介邸址そして贈従四位 是枝柳右衛門寓居の址と並ぶ。 田中河内介は文化… ►続きを読む

 

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