法成寺址 その3
法成寺址(ほうじょうじあと)その3 2009年12月10日訪問
既に興福寺、極楽寺そして法性寺から東福寺への変遷を見てきた。この項では法住寺と法興院そして平等院について書いてみる。
法性寺を造営した藤原忠平の長子実頼は法性寺の院家のような形で東北院を営み、弟の師輔は叡山横川に楞厳三昧院を建てている。藤氏長者第7代の実頼は、摂政関白太政大臣を歴任した藤原忠平の長男として順調に栄達し、村上天皇のときに左大臣として右大臣の弟・師輔とともに朝政を指導して天暦の治を支える。しかし後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たることができなかった。冷泉天皇が即位すると、精神の病を持つ天皇を輔弼する者として村上天皇時代には設けられなかった関白職に就任している。次いで円融天皇が即位すると摂政に任じられている。天禄元年(970)に病に倒れ5月18日に死去。享年71。正一位が追贈され、尾張国に封じ、清慎公と諡号される。
次男の師輔も村上天皇の時には右大臣として正二位に叙された。出世のほうは嫡男である実頼が常に先を進んでいたが、朝廷の実権は実頼よりも師輔にあったとされている。師輔は村上天皇が東宮の時代から長女の安子を妃に入れており、その即位とともに女御に立てられている。安子は東宮の憲平親王を生んで中宮となり、他に為平親王・守平親王を生んでいる。皇太子の外戚となった師輔は朝政を指導し、村上天皇の元で師輔らが行った政治を天暦の治という。天徳4年(960)師輔は病に伏し、同年5月2日剃髪し、同4日死去している。享年53。師輔は摂政・関白になる事はなかったが、村上天皇の崩御後に安子の生んだ憲平親王が即位し冷泉天皇となり、その後は守平親王が円融天皇となるなど、外戚としての関係を強化できたことが、後に師輔の家系が興隆することにつながる。長男の伊尹(藤氏長者第8代)を筆頭に、兼通(同第10代)、兼家(同第12代)、為光、公季と実に5人の子息が太政大臣に昇進し、子供たちの代で摂関家嫡流を手にすることとなった。
藤原伊尹は右大臣藤原師輔の長男で、妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇、円融天皇が即位すると栄達し、天禄元年(970)右大臣に任ぜられている。さらに同年、摂政太政大臣だった伯父の実頼が死去し、天皇の外伯父の伊尹は摂政と藤氏長者となる。天禄2年(971)には太政大臣に任ぜられ、正二位まで進む。伊尹は名実ともに政権を掌握したが、翌天禄3年(972)病に倒れ、上表して摂政を辞めまもなく病死している。享年49。正一位を贈られ、謙徳公と諡された。子孫は振るわず、権勢は弟の兼家の家系に移ることとなる。
長兄の伊尹の死後、権中納言に留まっていた兼通は弟の兼家と競い合った末、関白宣下を受け、内大臣をも兼任することとなった。天延2年(974)には藤原頼忠に代わって藤氏長者第10代となり正二位に進み太政大臣に任ぜられる。同3年(975年)従一位に叙している。もともと兼通と兼家は不仲であったが、兼通の関白就任後兼家の昇進はまったく止められてしまい、異母弟の為光を筆頭大納言として兼家の上位に就ける程となった。貞元2年(977)10月、兼通は重い病に伏すようになったが、最後の力を振り絞って参内し、自分の後任の関白を左大臣頼忠とし、その上で兼家の右近衛大将の職を解き治部卿へ降格を行っている。同年11月8日死去。享年53。正一位を贈られ、忠義公と諡された。
兼通の死後、関白に就任した藤原頼忠は、兼家を憐れんで天元元年(979)に右大臣に進め廟堂に復権させている。兼家は次第に朝廷内での権勢を得るようになり、寛和2年(986)6月23日に生じた寛和の変により、花山天皇に退位と出家、頼忠には関白と藤氏長者の辞任に導き、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となる。永祚元年(989)円融法皇の反対を押し切って長男・道隆を内大臣に任命して、律令制史上初めての大臣4人制を実現させている。同年に頼忠が死去すると、その後任の太政大臣に就任する。翌永祚2年(990)一条天皇の元服に際しては加冠役を務め、関白に任じられる。しかし僅か3日で病気を理由に嫡男・道隆に関白を譲って出家し如実と号する。別邸の二条京極殿を法興院という寺院に改めて居住したが、その2ヶ月後の永祚2年(990)7月2日に病没する。兼家の家系がその後の摂関を独占することになる。
兼家の弟の為光は異母兄の伊尹と兼通から可愛がられ、天延元年(973)先任参議6名を飛び越して権中納言に抜擢され、同時に従三位に除せられる。天延3年(975)には中納言となり、翌年に正三位に叙せられる。貞元2年(977)には正二位大納言となり、兼通から疎んじられていた兼家を超え大納言筆頭となる。兼通の死後に右大臣に就任した兼家と将来の摂関の地位を争うこととなる。花山天皇即位後、娘の忯子を入内させ内給所を任されるなど外戚として重きをなした。しかし忯子の急死、花山天皇の退位と出家、そして一条天皇の即位による兼家の摂政就任と続き、為光の栄進は閉ざされることになる。寛和2年(986)左大臣源雅信に対抗するために兼家は、為光を右大臣に任じ、翌年には従一位に叙している。正暦2年(991)に道隆の推挙で太政大臣に任じられたが、翌正暦3年(992)6月16日に死去する。
上記の藤原師輔の子の為光が法住寺、兼家が法興院を創建している。為光が法住寺を造るにいたったのは、忯子が17歳の若さで寛和元年(985)7月18日に死去したことに関係がある。忯子は花山天皇の御寵愛を受けて懐妊していた。誕生してくる方が皇子であれば為光は外祖父の関係が得られたこととなる。これらの期待が一時に失われたことによるものが大きかったと思われる。「日本紀略」の永延2年(988)3月26日の条に下記のようにある。
右大臣為光供養法住寺、一院、公卿、弁、少納言、外記、史等皆参
一院とは円融上皇である。この時の法住寺の建築は「扶桑略記」の同日の条に残されている。本堂である釈迦堂には本尊として金色の丈六釈迦如来像が祀られており。この建物を中心に東に法華三昧堂、西に常行三昧堂を配したコの字型の伽藍であった。
為光が建立した寺院の地は、後白河天皇が法住寺殿を築いていた地に近いと考えられている。さらに法住寺殿の御堂の一つ蓮華王院本堂があることから、近辺にあったことが推測される。「山槐記」久寿3年(1156)正月7日の条には後白河天皇が中納言入道の法住寺堂へ行幸された記事が掲載されている。その道筋は、
八条西行、河原ヲ斜折北艮、八条坊門末堂西門入御
とあることから八条坊門すなわち現在の塩小路通から七条の間の山手にあったことが推測される。
また「山城名勝志」(「京都叢書 第8巻 山城名勝志 坤」(光彩社 1968年刊行))には
故老云舊跡今為二田畠一蓮華王院巽一町許有二名水一号二桐井一傳云為光公第井水辺多植レ桐云云此井第宅跡歟
とあり、蓮華王院の東南100メートルあたりとしている。このように九条末の法性寺の北に建てられたことが分かる。
しかし法住寺は案外早くに焼亡している。「日本紀略」長元5年(1032)12月8日の条には
九條御廟焼亡、法住寺同焼亡
とある。「小右記」からも法住寺が全焼した様子が伝わる。その後、再建した記録が見られない事から、このまま法住寺は失われたのであろう。
なお、三十三間堂廻りにある法住寺は、明治維新の神仏分離令後の廃仏毀釈により、後白河天皇陵、法親王御陵が宮内省所管に移り、寺院は大興徳院と改称されている。仏光寺より親鸞ゆかりとされる阿弥陀如来像、親鸞聖人坐像が当寺に遷されている。そして昭和30年(1955)寺号を大興徳院より法住寺に戻しているため、為光の法住寺とは直接は関係していない。
藤原兼家は摂政関白であった永延2年(988)に東京極大路より東、二条より北に新しい邸宅を営んでいる。「拾芥抄」では「二条北 京極東 本号東二条 二条関白伝領」とある。東二条とは兼家の別邸東二条院のことである。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、この邸宅の規模と位置には諸説あるようだ。「拾芥抄」に従い方一町あるいは南北2町としていたが、「京都坊目誌」以降の説では更に一町東の河原町通東(「京都市の地名」では西側と記述している)の清水町や指物町辺りを比定している。この地に中世末の池泉が残り、現在の法雲院がその跡地という伝承に基づいている。近年の立会調査によって法興院に関連する東西溝が発見されている。京都市の遺蹟詳細地図索引の中の50番の御所の475(https://g-kyoto.gis.pref.kyoto.lg.jp/g-kyoto/APIDetail/Gate?API=1&linkid=835c31b6-b26c-4837-889b-782b13d2489b&mid=671 : リンク先が無くなりました )が現在の法興院跡の推定範囲である。(追記2018年7月13日 京都市の遺蹟詳細地図索引はリニューアルされ上記のリンクでは見えなくなりました。京都市の「京都市遺跡地図提供システムhttp://web.gis.survey.ne.jp/Kyoto/iseki/main.htm
」をご参照ください。法興院跡は遺跡番号475です。)
永祚2年(990)5月8日に出家した兼家は、2日後の10日に二条第を捨てて仏寺にしている。「日本紀略」の同日の条に、
入道太政大臣以二條京極第永為仏寺、号積善寺
とある。兼家は別業を仏寺にした理由として、「願は大きいが命は迫っている。病に沈む身は念仏を怠りがちであるので、終焉の別業を捨て作りかけている寺の別院として法興院を興した」としている。そして兼家は同年7月2日に没している。法興院は長男の道隆に引き継がれ、正暦2年(991)には兼家の周忌法事が法興院で行われている。また翌3年(992)12月21日には道隆の四十の賀が行われている。道隆は正暦4年(993)に三昧堂の供養、同5年(994 あるいは正暦3年(992))に積善寺を法興院内に移しているが、その翌年の長徳元年(995)4月6日に病のため道隆は入道となり、5日置いた11日に死去し、5月19日には法興院で七七忌の法会が行われている。この年の5月8日に藤原道兼も亡くなったため、法興院の経営は道長に任せられた。
寛弘7年(1010)5月13日、右京権大夫親兼王が法興院で賊に殺されるという事件が起こり、翌8年(1011)10月6日に始めての火災に見舞われている。さらに翌長和元年(1012)閏10月17日には積善寺も焼亡している。道長によって数年後には復興するが、長和5年(1016)の火災で一部焼失、万寿4年(1027)正月3日の火災で全焼、永長元年(1096)法興院は復興されたものの、保安元年(1120)正月7日に再び焼亡、久安4年(1148)2月17日の火災記事を最後に法興院が記録に現れることがないため、この頃に廃絶したように推定できる。
今日の平等院の地は9世紀末頃に源融が別荘を営んでいた。この地は宇多天皇に渡り天皇の孫にあたる源重信そしてその未亡人を経て長徳4年(998)摂政藤原道長の別荘宇治殿となった。道長はこの別業をこよなく愛でたようで、「御堂関白記」にも長保3年(1001)、同6年(1004)、寛仁2年(1018)、同3年(1019)に訪れたことが残されている。道長は万寿4年(1027)に法成寺で没したため、長男の関白藤原頼通に引き継がれている。 頼通は若くして後一条天皇の摂政を父道長から譲られ、後朱雀・後冷泉と二代の天皇の関白を50年に渡って務め、道長とともに藤原氏全盛時代を担ってきた。しかし永承6年(1051)に奥州で前九年の役が勃発し、武士の台頭が著しいものとなり、地方の世情は不安定なものとなっていった。
また都においても入内した娘達に皇子が生まれなく、外戚関係のない尊仁親王が東宮になるような政治状況に追い込まれていた。藤原氏の権勢は表面的には保たれていたが、衰退の兆しが見え始めた時期でもある。
永承7年(1052)頼通は宇治殿を寺院に改め、平等院と名付けている。開山は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。この年は当時の思想ではまさに末法の元年に当たる。釈尊の入滅から2000年経つと仏法がすたれ、天災人災が続き世の中は乱れるとされていた。寺院に改められた永承7年には本堂の供養を行っている。本堂は宇治川に向かって東を正面に建てられ、大日如来を中尊とし両脇には定朝の作とされる薬師・釈迦・大威徳の諸像が配された。そして現存する阿弥陀堂も本堂と同じく東面して建てられ、供養は天喜元年(1053)に行われている。この後、現在には残っていないものの平等院内に幾つかの堂宇が建設されて行く。頼通による天喜4年(1056)の法華堂、皇后寛子による康平4年(1061)の多宝塔、治暦2年(1066)の師実による五大堂などが知られている。治暦3年(1067)後冷泉天皇の行幸の際には、池上に錦繡の仮屋を構えて礼仏の所とし、池中に龍頭鷁首の船を浮かべて楽を奏したことが伝えられている。皇后寛子とは頼通の長女で、後冷泉天皇の皇后となった藤原寛子のことである。永承5年(1050)12月22日後冷泉天皇に入内し、翌年2月13日皇后宮に冊立する。頼通は寛子に皇太子誕生を期待したが、後冷泉天皇は治暦4年(1068)4月19日に崩御されている。この後、後冷泉天皇の異母弟で藤原氏の外戚を持たない後三条天皇が即位している。また師実は頼通の六男で、道長(15)-頼通(16)-教通(17)-師実(18)と藤氏長者に連なっている。
頼通は延久2年(1070)に平等院の西に新御所を造営し、そして延久3年(1071)に八十の賀をこの地で祝っている。この後、病になり出家したのは延久4年(1072)のことであった。その平癒を祈って頼通の養子となっていた源師房が丈六不動明王像を造り、それを安置する不動堂を寺内西南隅に建立し、延久5年(1073)8月19日に供養している。承保元年(1074)2月2日、頼道は宇治で没している。頼道の発願であった護摩堂で七々日忌の法事が行われている。もともと平等院は天台の寺院であったが、阿弥陀堂や法華堂を除くと、本堂、多宝塔、五大堂、不動堂、護摩堂と真言の要素が強い。このあたりに平安仏教の包括的であり、雑信仰的な側面が色濃く現れているといえる。
頼通没後の平等院は師実、寛子そして覚円の三子によって経営された。平等院は保持されただけではなく、それぞれの御堂と御所が存在していたと考えられている。師実は承保3年(1076)12月18日に阿弥陀堂の供養を行っている。これは頼通が建立し現存する阿弥陀堂とは異なった建物である。そして師実は宇治殿泉に居たことが残された文書から分かる。これは平等院でも富家殿とも異なる建物であったようだ。
師実は寛子が居住していた花山院と交換するために宇治に法定院を造営している。平安京左京一条四坊三町、すなわち現在の京都御苑内の宗像神社のあたりにあった邸宅で、当初の主は清和天皇皇子貞保親王で後に藤原忠平となり、外孫の憲平親王(後の冷泉天皇)の立太子礼が執り行われている。冷泉天皇の子・花山天皇は出家後にここを後院とし、寛弘5年(1008)に崩御したことにより、追号が「花山院」とされた。三条天皇皇后の藤原娍子とその子・敦儀親王らが入った。長和3年(1014)に火災で焼失するが、再建されて藤原頼通から師実に継承され、さらに後冷泉天皇皇后で頼通の女である藤原寛子が居住する。後に師実が改築して同母兄の藤原定綱に譲り、定綱はこれを師実の子で自分の娘婿でもあった藤原家忠に譲っている。家忠は花山院と号し、その子孫は花山院流と呼ばれる。その宗家である花山院家が代々花山院を領する。寛子は花山院と交換した法定院で過ごし、大治2年(1127)92歳で崩御している。法定院の位置は定かではないが、池殿と呼ばれ巨倉すなわち巨椋池の傍らにあったと推測できる。また覚円僧正は実相房という所で暮らしていたことが分かっている。これも師実の泉殿とは異なる建物であったがその詳細は分かっていない。
師実の嫡子・師通は寛治8年(1094)師実の後を継いで関白に就任する。16歳となり政治的自立を志向する堀河天皇と共に積極的な政務を展開する。しかし承徳3年(1099)悪瘡を患い38歳で急死する。師通の政権は僅か5年で終焉することになり、藤氏長者は22歳の嫡子・忠実に引き継がれる。既に引退していた師実にも忠実を支える余力は無かったため、摂関政治は完全に衰退して行く。これは平等院の経営にも大きな影響を与える。特に保元元年(1156)に発生した保元の乱以降、忠実は洛北の知足院に幽閉されたため、宇治に訪れることは出来なくなっている。藤氏長者が訪れない平等院は荒廃が進む。後白河上皇の行幸が保元3年(1158)、仁安2年(1167)行なわれているので、修繕等が行なわれていたと考えられる。また新たな御所が造営されたが元久2年(1205)には焼失している。
現在、平等院は朝日山平等院と称し、特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。平等院のHPによると浄土宗の浄土院と天台宗系の最勝院によって管理されている。
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