明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯
明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯(めいじてんのうぎょうこうしょきょうとふじんじょうちゅうがっこうあと) 2009年12月10日訪問
京都府立鴨沂高等学校の校門は河原町の九条邸から新英学校及女紅場、京都高等女学校を経てこの地に移築されたものであることは、既に京都府立鴨沂高等学校の項で触れたとおりである。この門の左側に明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯の碑が建つ。今回訪問したときは、明治天皇が府立第一高等女学校を行幸されたものと思い込んでいたが、よく調べてみると、かつてこの地にあった尋常中学校への行幸であったことが分かった。
明治天皇の行幸に就いては「続日本史籍協会叢書 明治天皇行幸年表」(東京大学出版会 1933年発行 1982年覆刻)を参照する。この書の254頁には明治20年(1887)の京都行幸が記されている。1月25日に孝明天皇20年御式年祭御執行のため、皇后を伴い東京を御出発している。新橋より鉄道を使用し横浜に向かい横浜御用邸で小休止した後、横浜港より軍艦浪速に御乗船されている。翌26日に神戸港に御上陸し汽車により京都に御入りになっている。京都御所に御宿泊され29日には二条離宮、すなわち二条城と京都府庁を御訪問している。そして30日には皇后とともに後月輪東山陵にて孝明天皇御親祭を執り行ない、後桃園天皇陵、光格天皇陵そして仁孝天皇陵を御拝されている。すなわち、第118代後桃園天皇、第119代光格天皇、第120代仁孝天皇と第121代孝明天皇の前の歴代天皇の御陵を御訪問されている。特に光格天皇と仁孝天皇は明治天皇にとって曽祖父、祖父にあたる閑院宮系の天皇にあたる。後桃園天皇は月輪陵、光格天皇と仁孝天皇は後月輪陵に祀られている。月輪陵と後月輪陵は泉涌寺の南東に築かれている。さらに補足するならば、第108代後水尾天皇以降後桃園天皇までが月輪陵に祀られている。そして明治天皇が伏見桃山、大正天皇と昭和天皇は武蔵陵墓地に御陵が築かれている。江戸時代の300余年は今熊野の限られた場所に御陵が築かれてきたこととなる。
京都行幸の目的である孝明天皇20年御式年祭を執り行なった後、明治天皇は2月14日まで京都に御滞在されている。そして2月1日に丸太町通の新古美術会を御巡覧された後、寺町通の京都府尋常中学校の授業を御視察されている。明治天皇行幸所の碑はこのことを現している。明治天皇は2月15日に七条停車場から汽車に御乗車され汽車で大阪入りされている。大阪では軍関連の施設の御視察と共に第三高等中学校及び大阪府立師範学校への御巡覧を行われている。再び16日に京都に御戻りになられ、18日に修学院離宮19日に桂離宮を御訪問されている。そして21日に大津を経て名古屋に入られ、23日に武豊港より浪速に御乗船され、24日に横浜港より皇居に還行されている。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースによると、京都府立尋常中学校は下記のような変遷を辿っている。
明治 3年(1870)12月 二条城北側の旧京都所司代屋敷に
京都府中学校として開校。
学校と学事行政機関を兼ねた
明治 6年(1873) 2月 中学の名称を廃し小学校取締所を設置
明治 6年(1873) 7月 現在の京都府庁内に新築移転
明治 9年(1876) 4月 小学校取締所を仮中学と改称
明治12年(1879) 4月 仮中学を京都府中学と改称
行政機能を分離
明治17年(1884) 9月 京都府中学を京都府京都中学校と改称
明治18年(1885) 6月 上京区寺町通荒上口下ルに新築移転
明治19年(1886) 7月 宮津・亀岡・三山木の3中学校を廃止
京都府京都中学校に併合
明治20年(1887) 1月 京都府尋常中学校に改称
明治21年(1888) 4月 上京区新町通出水上ルに
旧京都府尋常中学校を開業
同月10日京都府尋常師範学校跡へ移転、
大谷派本願寺の大谷尋常中学校と合併
明治26年(1893) 3月 大谷派本願寺の経営から分離
明治26年(1893) 4月 上京区新町下長者町下ル両御霊町に
京都府尋常中学校を開設
明治30年(1897)10月 左京区吉田近衛町に移転
新町下長者町の校舎を分校とする
明治32年(1899) 4月 京都府第一中学校に改称
明治34年(1901) 9月 京都府立第一中学校に改称
大正 7年(1918) 4月 京都府立京都第一中学校と改称
昭和 4年(1929) 4月 左京区下鴨梅木町へ移転
昭和23年(1948) 4月 京都府立洛北高等学校に改称
現在の鴨沂高校の地へ移転
昭和23年(1948)10月 高校再編により閉校
昭和25年(1950) 4月 左京区下鴨梅木町に京都府立洛北高等学校
として開校、現在に至る
上記の年表からも分かるように、もともと明治3年(1870)に京都所司代屋敷で開校した京都府中学校が明治6年(1873)に現在の京都府庁の地に移転し、さらに明治18年(1885)に松蔭町に移っている。そして上記の明治天皇の御天覧の栄に浴した翌年には上京区新町通出水上ルすなわち京都府庁の地に再び戻っている。そして大谷派本願寺が経費を負担し、同派大谷尋常中学校と合併とある。これは経済的に新校舎を維持できなくなり移転して大谷派の支援を受けたようだ。京都府師範学校沿革史(京都府師範学校編 1938年刊行)によると明治21年(1888)4月に移転してきたのが京都府尋常師範学校であった。そして荒神口通の北側の栗辻家所有の梅林を開拓し付属小学校と女子部の寄宿舎を設けている。これらは明治23年(1890)9月に竣工している。京都府尋常師範学校時代の配置図は上記の書の中に掲載されている。この配置図で気が付いたことは、寺町通と仙洞御所の間の空間が運動場として使用されていたことである。現在は京都御苑の中に清和院駐車場として含まれているが、明治中期には御所の外側であったようだ。
京都府立尋常中学校の方は、上京区新町通出水上ルから上京区新町下長者町下ル両御霊町へ、そして左京区吉田近衛町、さらに左京区下鴨梅木町と地を移し、昭和23年(1948)4月に京都府立洛北高等学校と改称され、松蔭町に再び戻るが、同年10月に高校再編により閉校している。昭和25年(1950)4月にまた左京区下鴨梅木町に京都府立洛北高等学校として開校している。これが京都府立尋常中学校の後継となっている。
京都府尋常師範学校も拡張のため、愛宕郡上賀茂村字小山、現在の京都市北区小山南大野町と紫野東御所田町に移転している。明治31年(1898)に起工し翌32年(1899)3月に五棟の寄宿舎が完成したので男子生徒が移転している。さらに同年末までに松蔭町の校舎を移築している。なお京都青年師範学校、京都学芸大学を経て、昭和32年(1957)に紫野より伏見区深草藤森町にキャンパスを移している。京都教育大学と名称を改めたのは昭和41年(1966)のことであった。
そして明治33年(1900)8月に京都高等女学校が河原町九条殿より移り、明治37年(1904)4月には京都府立京都第一高等女学校と改称されている。もとの河原町九条殿には府立第二高等女学校が入っている。
このように僅かに3年しかこの地に居なかった京都府立尋常中学校を明治天皇が行幸されたため、石碑が昭和14年(1839)3月に京都府によって建てられている。そして京都府立京都第一高等女学校の後継となる京都府立鴨沂高等学校が受け継ぐこととなった。
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