女紅場址
女紅場址(にょこうばあと) 2009年12月10日訪問
旧京都中央電話局上分局の北東角、鴨川に架かる丸太町橋の南西橋詰には女紅場址の碑が建つ。
女紅場の説明に入る前に明治初年の教育事情について簡単に触れておく。京都では明治2年(1869)1月、前年に決めた上京45下京41の町組を改正した第二次町組が出来る。この町組改正により上京33、下京32の計65町組が一応出来上がる。しかし明治2年の内に下京1町組が分離し2町組となったため、上京33町組下京33町組の66町組となる。
前年の明治元年(1868)9月に既に京都府は小学校の建設を各町に奨励していたため、町衆の寄付によって各町組に小学校の建設が始まる。そして明治2年(1869)5月21日に上京第二十七町組柳池小学校と下京第十四町組修徳小学校で開校式が行われている。これが日本で最初に設立した小学校とされている。その後次々と開校が続き、同年12月21日上京第二十八町組と二十九町組の京極小学校が開校すると、全ての町組に小学校が完成したこととなる。なお最後の京極小学校と下京二十二町組と三十二町組の淳風小学校は2組合同であったため、町組全66に対して小学校数は64校となる。この学区制は時代によって変化している。先ず明治5年(1872)5月に町組を区とする市区改正が実施され、上京33区、下京32区となる。同年10月に京都府は学制を管内に布告する。そして明治12年(1879)3月、郡区町村編制法に基づき、上京区と下京区を置き、従来の区を組と改め上京区33組、下京区32組とする。さらに明治22年(1889)4月に京都市制が施行されると、7月には京都市は学区制度を確立し上京区28学区、下京区32学区とする。
昭和4年(1929)には上京区35学区、下京区38学区となる。この時、東山・中京・左京の3区が新設されている。さらに昭和6年(1931)4月に伏見市など27市町村を京都市に編入し、右京・伏見の2区を新設している。これに伴い27学区が新たに設置されている。昭和17年(1942)4月に京都市の学区制度が廃止されている。そして第二次世界大戦が終わると、学区の基盤である町内会自体が廃止される。しかし次第に再組織化されていったが、人口の増減による小学校の新設や統廃合により、元学区と小学校区は一致しなくなっていった。
なお碓井小三郎によって大正5年(1916)に刊行された「京都坊目誌」(「新修 京都叢書 第13~17巻 京都坊目誌」(光彩社 1969年刊行))は学区毎に寺社仏閣そして史跡を記述している。「京都坊目誌」では上京区28学区、下京区33学区としている。
明治5年(1872)8月2日、太政官第214号として学制が布告される。フランスに習った近代的学校制度を定めた教育令である。上記のようにこの学制に先立って京都において町組毎に小学校が作られている。東京奠都によって失われた帝都の活気を再び取り戻すためには、人材開発こそが産業振興に必要だという考えを知事の槇村正直から市民までが共有できた結果だともいえる。また行願寺の項でも触れたように、室町以降の伝統的な自治組織が存在していたこと、そしてこの自治組織の単位をそのまま学校区に用いた結果とも考えられる。上記のように京都で最初に開校した小学校は上京第二十七町組柳池小学校であったが、その設立に注力した中心人物として同区内に在住していた熊谷直孝を挙げることができる。洛中の町並み 寺町通でも触れたように、直孝の祖先に当たる熊谷直心が、江戸時代初期の寛文3年(1663)京都寺町の本能寺門前にて、薬種商「鳩居堂」を始めている。そして江戸中期の頃より、薬種の原料が「香」と共通することから、薫香線香の製造が始める。また同時に、薬種原料の輸入先である中国より、書画用文具の輸入販売も行うようになる。そして江戸時代後期には4代目当主熊谷直恭や7代目当主熊谷直孝のように、本業から離れ社会事業、国事そして教育などに注力する当主が現れる。特に直恭はオランダから長崎に痘苗が渡来したことを聞き、それを京都に持ち帰っている。これはわが国における種痘の最初であった。直孝は直恭が作った種痘所・有信堂に教育塾を設置したが、これが柳池小学校の母体となった。
女紅場とは明治初年に女子に対して読み書き算盤や裁縫・手芸を授けるためにつくられた教育機関のことである。女紅の紅は工に通じ、裁縫を中心とした家事を意味するものであった。また女功や婦功という言葉も使われたようだ。江戸時代の寺小屋では読書・習字・算術は教えるものの裁縫を教えることは希であったため、明治に入り民間で行われた裁縫塾に公教育の要素を組み合わせたものが女子教育において必要となった。坂本清泉・坂本智恵子氏共著の論文「明治初期の女子教育と女紅場」(日本教育学会大會研究発表要項 1973年)によると女子の就学率は男子に比べて著しく低い上、小学校に入学しても半年ないし1年で退学することが多かったようだ。そのため女子の就学率を向上させるためには女子向けの教則・教科を設ける必要があった。
坂本氏は京都における女紅場を3つの種類に分類している。第一の「新英学校及女紅場」は女子の指導層を育成するための女子中等教育機関。これについては詳しく後で説明する。
第二の市中女紅場は、上記のような小学校区が区内の婦女子を修学させるために設けたもの。学区内積立金の利子と有志による寄付で賄われていた。そのため下等小学校修了者のための補助教育機関的な性格を持っていた明治6年(1873)2月に京都市上京第三十区の区長が女紅場を区内の民費で設立することを府に願い出て許されている。柳馬場通押小路下ル虎石町、中井正太郎の家を柳池女紅場としたことに始まる。最初の小学校として開校した柳池小学校と同じく上京三十区は女紅場においても京都市内で最も早い市中女紅場を開設している。ここでも熊谷直孝が指導的な役割を果たしたとされている。柳池女紅場は小学校に併設されたため、明治6年(1873)9月に落成した校舎は西棟の小学校に対して東棟の2階に女紅場が置かれ、その階下には役場が充てられたように、今でいう地域総合センターのような施設でもあった。柳池女紅場での教育は先行して開校した新英学校及女紅場を模範とし、「益世ノ務メ」と「婦徳ノ道」の両立を教育理念として掲げている。特に「婦徳ノ道」には伝統的な女子教育観が強く顕われており、後に良妻賢母主義の教育観にも通じるものがこの時代に既に産まれていたとも言える。これらは区の上層部の教育要求を強く反映したものであるが、一方では最初に開校した女紅場として新政府の推進する近代化政策の先取りという政治的な役割も果たしていた。すなわち封建社会での教育機関として機能してきた寺小屋に替わる新たな教育施設として小学校を設立したが、女子教育において同じような先進性をこの女紅場に盛り込んだために、理念的であり政治的な教育施設になったと考えられる。
柳池女紅場から御池通を隔てた上京二十九区にも明治6年(1873)4月に初音女紅場が府内2番目の女紅場として開校している。その設立趣旨には、「婦女子ト雖空手坐食ス可キノ時ニ非ズ」という現実認識の下、「食力益世ノ務ヲ知リ」「物産繁殖ノ一端ヲ開キ」「聊御国益ヲ興サン」と現実路線が貫かれている。これは柳池女紅場の「益世ノ務メ」と「婦徳ノ道」の両立ではなく、より強く殖産興業と女子の経済的な独立が謳われている。初音女紅場では区内の一般少女だけではなく既婚者の入場も許すだけでなく、生徒が制作した製品を売却し、その益を運営資金に入れるような仕組みもあった。より現実的な理念によって設立し運営されてきたことが分かる。
同様の女紅場設置が市中で大流行となる。柳池、初音にひきつづき、弥栄、開智、醒泉、尚徳、植柳、六原、有隣、龍池などの女紅場が開設される。明治12年(1879)には市中女紅場が10、郡部の正貞女紅場が30の計40に加え、次に説明する12の遊所女紅場を加えると実に52の女紅場があったことになる。郡部女紅場は京都市の中心部から漸次普及していったことは、相楽郡木津の女紅場が明治6年(1873)7月に既に開設されていることから分かる。ついで船井郡、桑田郡(亀岡周辺)、与謝郡(宮津)へと拡がってゆく。市中女紅場あるいは正貞女紅場という名称は遊所女紅場と区別するためのもであった。郡部に正貞女紅場が普及するにつれて、市郡女紅場という名称が使われるようになる。
第三は遊所女紅場で島原や祇園等に設けられた芸娼妓のための職業指導所としての女紅教育機関。島原・祇園・先斗町・上七軒その他、市中全ての遊所に置かれていた。こちらも市中女紅場と同じく明治6年(1873)2月に下京第十六区すなわち島原に、そして3月には下京第十五区祇園が,府の許可を受けて婦女職工引立会社を開業したのが始まりとなっている。現在も祇園の芸娼妓修養所に八坂女紅場学園として,女紅場の名が残っている。京都祇園藤村屋が開設しているHP 祇園観光案内の中に掲載されている女紅場に八坂女紅場学園の様子が描かれている。 このように遊郭に女紅場が設けられた背景には明治5年(1872)に布告された人身売買禁止令と娼妓の自由廃業を認める法令がある。これは同年、船体修理のため横浜に入港したペルー船籍マリアルス号が上海から清国人苦力231名を運ぶ奴隷船である事が発覚した事件に関連している。イギリス公使の要請を受けて日本政府が救出したが、裁判の過程で日本国内でも公然と人身売買によって娼妓が集められていた事実が国際社会に暴露されたことに起因している。
遊所女紅場の生徒数はどの位のものであったのか?明治8年(1875)10月、祇園芸娼妓教導所の開業式が行なわれている。当日の様子を記した新聞によると芸妓420名、舞妓100名、娼妓30名の計550名とされていることから、500名を超える規模の女紅場が祇園に存在していた。これは後に説明する新英学校及女紅場の同時期の生徒数が100名以下であったこと、あるいは初音小学校の生徒数が400名程度であったことと比較してもいかに大きなものであったかが分かる。
下京第二十区宮川町の女紅場では芸娼妓だけではなく一般家庭の子女も受け入れている。東西2棟の校舎が建てられ、東棟には一般家庭の子女、西棟には芸娼妓を収容し、女紅場規則により「互ニ相踰越スルコトヲ許サズ」とその交流を禁じている。修業年限3年で授業時間は午前8時から午後3時まで、正課として履修する教科が裁縫・修身・女礼である点は共通であった。しかし普通学の内容は東棟の読物・算術・作文・習字に対して西棟は読物・算術・習字とやや異なっている。ただし読物の内容は東棟の物理全誌・家政要旨・万国史・健全学・国史略・修身論・日本外史・與地史略・教導説に対して西棟は初学須知・小学読本・家政要旨・母親心得とかなり違いが表われている。教科は同じでも学習内容に大きな差があったための措置である。小学校を終了した一般家庭の子女に対して、終了していない芸娼妓の学力水準差によっていることは明らかである。一般の遊所女紅場が女紅教育に偏り一般教育が欠けたという記事が残されていることから、宮川町女紅場の教育は他の遊所女紅場と異なり、市中女紅場に近いものであったようだ。明治12年(1879)時点での宮川町女紅場の生徒数が139名ということからも、下京第二十区は規模の大きな区でなかったことが分かる。恐らく2箇所の女紅場を建設する余裕がないために、市中女紅場と遊所女紅場を併設し、同じ教科を能力に応じて教えていたことが推測される。それは新時代が要請した市民の平等性を偽装するためではなく、むしろ資金不足を補う合理的な運営と見るほうが妥当だと思う。
明治6年(1873)2月の下京第十六区島原、3月の下京第十五区祇園に続き、同月上京第六区北野上七軒、4月に下京第二十区宮川町、6月に下京第六区先斗町、7月に上京第十四区内野五番町、12月に下京第二十六区七条新地に女紅場が開設されている。そして翌7年(1874)5月に下京第二十二区下河原、6月上京第三十二区二条新地と市内の遊郭所在地に女紅場の開設が続く。郡部にも同7年(1874)2月に伏見第四区中書島、3月に伏見第一区墨染、明治9年(1976)9月には宮津万年町にも開設されている。
これ以外にも貧民救済のための授産所的な性格を持った女紅場も全国的に設置されていたようだ。長岡女紅場は窮迫した藩士たちの自活を援助するため、士族授産を目的として明治9年(1876)5月に開設されている。この女紅場では士族の子女に養蚕・織物の技術を習得・生産させる職業訓練が目的であった。そして3から4年の修業後は工女として毎月7円50銭程度の賃金が支給されていた。初歩的な読み書き算盤なども教えていたが、次第に士族以外の子女も受け入れも行われ、最盛期には寄宿生80名、通学生50名にもなっている。しかし教育に重点が移されるにつれて経費が嵩み、明治16年(1883)に女紅場が全焼すると再建がますます困難となり明治22年(1889)に解散している。
坂本清泉・坂本智恵子両氏の共著「あゆみ教育学叢書10 近代女子教育の成立と女紅場」(あゆみ出版 1983年刊)では、習俗として行われてきた教育を行う場が学制によって創設された小学校ではなく女紅場であったとしている。すなわち一人前の女性になることは労働能力を身に着けることであり、それが旧来の村の生活に調和できる人間になることであった。特に女性の場合は、うみ紡ぎ・機織・裁ち縫いがひととおりできるようになることであり糸引宿での共同作業が社会性を育てるための機会であった。学制が敷かれ小学校が開校しても、多くの人々は娘達を学校に通わせなかったのは、学制による教育によって女性が、上記のような習俗的な教育を見つけることが可能か疑問を持っていた結果であると著者は考えている。
また学制でも、女児小学の規定を設け、普通教科の他に手芸を教えることを認めていた。しかし手芸という生活感の希薄な翻訳的な用語は、当時の人々にもなじみが薄かったようで、裁縫とか女紅という言葉に置き換えて使われていたようだ。ちなみに現在の家庭科は、この時代の女性教育に要請されたものが形骸化したものである。
女紅場は、政府が推進する学制の規定からはみ出した教育機関であるが、地域社会によって創設されたため地域の要求や課題に応じて多様な性格を持つものになっていった。坂本両氏が指摘するように、その多くは、女子中等教育、学齢を越えた女子のための補習教育、芸娼妓のための更正授産、そして救貧授産・士族授産の4つの目的に当てはまっていた。明治初年時点で、政府は学校の設立を命じたものの教育内容の統一化を果たすことができていないことが大きかった。学校の設置は政府や府県に認可を申し出るかたちで行われていたため、行政機関の規制が及ぶ範囲でもなかったのである。いずれにしても国家形成の過程で、非常に柔軟な性格を持つ女性教育機関が地域住民の意思と問題意識によって作られてきたことが分かる。
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