最福寺跡 その2
最福寺跡(さいふくじあと)その2 2009年12月20日訪問
最福寺は延朗の死後、伽藍を整備し、南北朝期には峰ヶ堂(現在の西京区御陵峰ヶ堂)にあった法華山寺とともに西岡屈指の大名刹となっている。「太平記」巻八の「谷の堂炎上の事」には、延朗の出自から最福寺の興隆について記されている。元弘3年(1333)4月8日の千種忠顕による六波羅探題攻略が失敗に終わり、翌9日に六波羅軍が、谷の堂や峰の堂から浄住寺、松尾、万石大路、葉室、衣笠に乱れ入ったことを記した段である。六波羅軍は千種軍を掃討するという名目で、仏閣神殿を打ち破り僧坊民屋を追捕し財宝略奪し、その証拠を消し去るために在家に火を懸けている。「太平記」はこの戦乱により、浄住寺、最福寺、葉室、衣笠、三尊院の堂舎300余が焼失し、在家5000余宇が灰燼に帰したとしている。竹村俊則の「新撰京都名所圖會 巻2」(白川書院 1959年刊)に掲載されている葉室周辺の鳥瞰図を見ると、戦火に被災した最福寺から峯堂までの位置関係が良く分かる。
延朗の生い立ちと盛期の最福寺について「太平記」は下記のように記している。
彼谷堂と申は八幡殿の嫡男対馬守義親が嫡孫、延朗上人造立の霊地也。此上人幼稚の昔より、武略累代の家を離れ、偏に寂寞無人の室をと給し後、戒定慧の三学を兼備して、六根清浄の功徳を得給ひしかば、法華読誦の窓の前には、松尾の明神坐列して耳を傾け、真言秘密の扉の中には、総角の護法手を束て奉仕し給ふ。
かゝる有智高行の上人、草創せられし砌なれば、五百余歳の星霜を経て、末世澆漓の今に至るまで、智水流清く、法燈光明也。三間四面の輪蔵には、転法輪の相を表して、七千余巻の経論を納め奉られけり。
奇樹怪石の池上には、都卒の内院を移して、四十九院の楼閣を並ぶ。十二の欄干珠玉天に捧げ、五重の塔婆金銀月を引く。恰も極楽浄土の七宝荘厳の有様も、角やと覚る許也。
西から樫原へと連なる丹波道、そこから北に続く物集女街道に接する最福寺は、京に攻め込む軍勢の通り道にも近かった。そのため同じく「太平記」巻三十二の「山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害事」でも、文和2年(1353)山名時氏に呼応した楠正儀が「和泉・河内・大和・紀伊国兵共三千余騎勝り出しければ、南は淀・鳥羽・赤井・大渡、西は梅津・桂の里・谷堂・峯堂・嵐山までも陣に取らぬ所なければ、焼つゞけたる篝火の影、幾千万と云数を不知。」と陣を敷いた場所として記されている。さらに延文5年(1360)7月には、仁木義長が足利義詮を擁して畠山国清と対立した際には、義詮の一隊は花園、鳴滝そして嵯峨野を経て最福寺に落ち延びている。また明徳2年(1391)の明徳の乱においても、山名氏清方の丹波守護代小林上野介が上桂から谷の堂にかけて陣を据えている。
南北朝時代から明徳・応永の乱にかけて、谷の堂は多くの被害を被ってきた。その後の凡そ60年間は幕権も拡大し比較的な安定した時代を迎えている。この間には、伏見宮貞成親王や大外記中原康富が西芳寺参詣の途次に谷の堂に立ち寄り接待を受けていることが日記などに残されている。しかし応仁2年(1468)2月、東軍の山名右馬助等は谷の堂に陣を置き、同年10月10日に西軍と大合戦、以後翌年4月までの6ヶ月間、最福寺は西岡を占拠している西軍に対する東軍の出撃基地となって、しばしば小規模な戦闘が繰り返されたようだ。しかし文明元年(1469)4月22日、畠山義就等の西軍は一挙に谷の堂を攻略して西岡一帯の占拠に成功している。この時、最福寺は西芳寺及び法華山寺とともに再度炎上している。
この応仁・文明の乱で最福寺は全く廃絶したのではなかったようだ。享禄2年(1529)堺公方の足利義維が湯浅国氏を最福寺領代官に任じたのに対して、最福寺住持が直務を訴えていることが細川晴元奉行人奉書に残されている。天文3年(1534)2月、幕府は湯浅国氏の押領を却下し、東寺に最福寺領と寺務を管領させる奉書を下している。最福寺には雑掌が存在し訴訟事務を執り行なっていたことが分かるが、実権が東寺に移った以降に最福寺の記録が現れることもなくなった。つまり元亀・天正の争乱を最後に全く廃絶したと考えられている。
最福寺跡から200mほど東に位置する華厳寺は最福寺のかつての敷地内に建てられたといわれ、同寺が所蔵する幅七寸八分の鎌倉期の瓦は最福寺の遺物とされている。また最福寺七堂や法華山寺に蔵されていた諸仏は桂周辺の近世寺院に伝えられている。上記の「新撰京都名所圖會 巻2」では桂上野町の観世寺に安置されている地蔵立像(鎌倉期)は峰ヶ堂の旧仏としている。また最福寺の本堂に安置されていた阿弥陀仏は、「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))には下記のように嵯峨の正定院に移されたと記している。
嵯峨正定院本尊阿弥陀之像者谷堂古仏云云
嵯峨正定院は右京区嵯峨朝日町に現存する浄土宗 紫雲山 正定院のことである。この寺院は天文年間(1532~55)に承念上人を開基とし下嵯峨在住の材木商福田家と大八木家によって建立されている。本尊は歯仏阿弥陀如来。禁門の変で長州軍を支援した福田理兵衛の墓があることでも有名。
現在、最福寺跡に小さな方一間単層の堂宇として、竹林の中に延朗堂が残る。最福寺を創建した延朗上人の坐像(鎌倉期)を最福寺が廃絶した後も護っている。延朗堂は大正年間(1912~26)まで村人が毎月12日に集会して念仏講を営んできたとされている。
境内には延朗上人八百回大遠忌記念として平成19年(2007)に建立された「さしのべ観音」や宝篋印塔、座禅石や石碑等が点在し、現在も境内の整備が継続している。また、大遠忌法要から毎年2月11日の夕に、「焔の夕べ」が行われるようになった。西光寺住職による上人とさしのべ観音の法要が行なわれた後、コンサート(フルート・琴・尺八・三味線等)も開催されている。願い事を書いた青竹燈篭を境内に並べて、さしのべ観音をライトアップするなどの演出が施されている。当日は御酒、甘酒そして大根炊きの接待も行われている。現在の最福寺で行われている催し等は、月読神社から、この地に来る途中で通りかかった松室山添町の西光寺の住職・川本弘彦氏と西光寺の檀家の人々によって運営されているようだ。またこの訪問の後に延朗堂も新たに建替えられ、2013年9月8日に落慶法要が行われている。
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