京都御苑 博覧会場跡
京都御苑 博覧会場跡(きょうとぎょえん はくらんかいじょうあと) 2010年1月17日訪問
富小路口から京都御苑に入った先に、大きく開けた富小路広場が広がる。この広場内に博覧会跡の駒札が建つ。
明治時代に入り新しい国家を支えるためには、人材と共に国家の基盤となりうる産業自体を育成していかなければならなかった。東京奠都後、特に経済的な退廃を強く感じていた京都府にとって、産業育成は特に重要な課題となっていた。そのため京都府における勧業政策の展開は、他の都市や地域と比べても早く、より積極的なものであった。後に第2代京都府知事となる槇村正直は、明治元年(1868)より京都府に出仕している。初代知事・長谷信篤を補佐し、京都の勧業政策を推進してきた。明治2年(1869)日本で始めての舎密局が大阪で開設される。舎密局は化学技術の研究・教育、および勧業を図るために設けられた機関で、実生活に科学を応用させるという思想がその設立にあった。京都府は大阪舎密局で学んだ明石博高を雇用し、翌3年(1870)12月に京都舎密局を開所、工業製品の製造指導や薬物検定等を行った。後にゴットフリード・ワグネルを化学校教師として招聘し、七宝焼等の製造改良を指導させている。このワグネルの下より島津製作所の創始者となる島津源蔵が出ている。
舎密局に遅れたが、明治4年(1871)河原町二条下ルの長州藩邸跡に、勧業政策の中心となる勧業場が創設されている。勧業場の開設目的は下記の勧業事務章程十四条に明示されている。以下は「京都府百年の資料 第1 政治行政編」(京都府立総合資料館 1972年刊)よりの抜粋である。
第一条
浮業遊惰ヲ戒メ正業勉励ニ勤ムルハ経世ノ要務況ヤ京都府下ハ御東幸後日ニ衰微ニ趣ノ地之ヲ挽回繁盛ナラシムルハ農工商ノ三業ヲ勧誘作新スルニアリ故ニ此場ヲ設ケテ専ラ工職ヲ勧奨シ物産ヲ興隆シ会社商社ヲ保護シ諸工場ヲ起シ食力益世ノ道ヲ開示スルヲ以テ主務トス
その具体策として、勧業規律金の運用、勧業に運用される資金の預かり、鉱山の検出、荒地の開墾およびその方法の教諭、木の栽培およびその方法の教諭、牧畜を行うことおよびその方法の教諭、遊郭の管理、遊女芸妓の調査および矯正、浮業の管理、新しい技術。発明や産業の状況を開示することを上げている。
このような施策を実行するため、授産施設、養蚕場、製紙場、牧畜場、女紅場、栽培試験場、鉄具製工場、製革場などの官営のモデル工場となる事業場や教育機関が明治4年(1871)以降に続々と創設され、舎密局を管下に置かれた。つまり勧業場は産業振興のための政策センターと技術センターの二つの役割を担うものであった。これら勧業政策を推進するための財源は、国から調達するなどして得た勧業基立金15万円と遷都に際して下賜された産業基立金10万円であった。そして槇村正直の勧業政策を支えたのが、NHK大河ドラマ「八重の桜」に出てくる山本覚馬であり、先にあげた明石博高であった。明石は西洋技術の知識を元に最前線で指導者として働き、山本は明石の知識を政策レベルまで体系化し、槇村は政治手腕を駆使し経費を捻出し推進するという三者の役割分担があった。このあたりの展開については、倉知典弘氏の「京都における勧業政策の展開」(京都大学生涯教育学・図書館情報学研究 2008-03)が平易に纏められているので、興味のある方は御参照下さい。
話しが拡がりすぎたが、京都御苑にあった博覧会場は、上記のような勧業政策の一端を担うものとして始められている。
京都における最初の博覧会は、京都博覧会という名称で明治4年(1871)10月10日より11月11日まで西本願寺で開催されている。三井家総領家の三井八郎右衛門、小野組の小野善助、鳩居堂の熊谷久右衛門といった裕福な町人が声を掛けて行なったものであった。
「京都博覧会沿革誌」(京都博覧協会 1903年刊)では、この時の開催を下記のように記している。
此時蒐集セル物品、内国製百六十六個、清国製百三十一個、泰西製三十九個、合計三百三十六個ニ過ギズ、午前八時二開キテ午後四時ニ閉ヂ、通常券ニハ金一朱ヲ徴シ特別熟覧ヲ望ムモノニハ金二朱ヲ納メ、十一月十一日ヲ以テ閉鎖ス、開期三十三日間ヲ以テ一万一千二百十一人ノ来観アリ、別ニ特殊熟覧者ニ二百四十四人ヲ得テ此収額七百三十一両三朱ニ上リ、経費四百六十四両二分二朱ヲ扣除シ益スル所二百六十六両二分一朱ヲ得タリ、
然レモ此時陳列スルモノ悉皆古物二止マリテ骨董会ノ感ナキエアラズ、故二創立ノ名ヲ存シテ本会ノ回数ヲ算セザルモノナリ
また、工藤泰子氏の「明治初期京都の博覧会と観光」によると、西洋諸国で開催されていた博覧会に倣ったもので、勧業振興を目的としたが、肝心の陳列品は出品者を募り、会の成功を助けてもらうような状況だった。1日平均300人以上の来館者を迎え収支的には黒字となったが、その内容は骨董品陳列会だったのであろう。上記三名は博覧会終了後、京都博覧会社を創設している。京都府知事・長谷信篤の賛同を得て、京都府博覧会御用掛として明石博髙等、京都府職員15名が任命されている。
上記の沿革通り明治4年(1871)10月の開催分は回数に入れず、明治5年(1872)3月10日に第一回京都博覧会として西本願寺・建仁寺・知恩院の3会場で開催している。この回では外国人を博覧会に取り込む工夫などもされている。また西洋の博覧会を参考にして、客寄せのための娯楽(アトラクション)が企画されている。これらは付博覧会と呼び、知恩院の山門上で煎茶席、建仁寺などで抹茶席、祇園・宮川町などで芸妓による演舞、安井神社で能楽、鴨川べりで花火大会などを行っている。特に祇園新橋の松の屋で行われた三世井上八千代振り付けによる舞踊公演は、「都をどり」の始まりとされている。集団群舞と幕を降ろさずに背景を変える場面転換など新しい演出方法が編み出されている。
京都博覧会社が主催する京都博覧会は昭和3年(1928)まで,ほぼ毎年開催されて行く。第二回から第九回までは大宮御所と仙洞御所を会場とするなど、現在ではとても考えられないことを行っている。また第1回では陳列のみであったが、第2・3回には出品物に対する批評録が作られている。そして第4回には品評事務を定め、褒章を行なうようになっている。これも西洋の博覧会に倣ったものである。第3回までは常設博覧会があったが、第4回以降は本会場のみとなっている。この明治8年(1875)に京都御苑内に博物館が開館している。常設博覧会の中止は博物館開館と関係しているであろう。
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