京都御苑 九條邸跡 その2
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その2 2010年1月17日訪問
京都御苑 九條邸跡では、五摂家の成り立ちから幕末期の九条家の当主となった九条尚忠までを書いてきた。ここでは安政5年(1859)正月に行われた条約勅許交渉までの政治の動向について見て行く。
九条尚忠は寛政10年(1798)に左大臣・二条治孝の子として生まれている。実兄の権大納言・九条輔嗣に養育されたが、その輔嗣が文化4年(1807)に24歳で薨去しているので、それ程長い期間ではなかったようだ。
この当時宮中では、文政6年(1823)の就任以来、鷹司政通が関白職にあった。5年から長くても10年で辞職という関白職を継続してきたことには、仁孝・孝明両天皇の信任が厚かったこと、ライバルとなる存在が五摂家になかったこと、さらには政通の政治能力自体が高かったことによる。元々頑健というよりは病弱であったようで、仁孝天皇時代にも関白辞職を願い出たが許されなかった。仁孝天皇にとっても年齢が1回り上の頼れる兄という立場にあった。事実、政通の妹である鷹司繋子が仁孝天皇の女御となっているので、義理の兄弟といってもよいだろう。
仁孝天皇の治世は関白職を引き受けてきたが、弘化3年(1846)帝が崩御され、孝明天皇が即位されることとなると、大礼が終わった後には辞退すると武家伝奏と議奏に語っていた。しかしこの時も両職に天皇が若年であるため延期するように慰留されている。そして嘉永元年(1848)3月、齢60をむかえ再び辞職を申し出たが、孝明天皇によって却下されている。嘉永3年(1850)5月4日、さらに嘉永6年(1853)6月24日にも「外患の事」を理由に政通の辞職は許さなかった。
家近良樹氏は「中公叢書 幕末の朝廷 若き孝明帝と鷹司関白」(中央公論社 2007年刊)において、孝明天皇のこのような慰留を行っていることから、鷹司家による朝廷支配から脱却するために鷹司政通を打倒したという説を否定している。確かに嘉永3年(1850)時点まで、主上は鷹司関白に全幅の信頼を置いていたことが分かる。
「維新史料綱要 巻二」(東京大学史料編纂所 1937年発行 1983年覆刻)の安政3年(1856)8月8日の条に下記のようにある。
関白鷹司政通ヲ罷ム。内覧故ノ如シ。勅シテ三宮ニ准ズルノ宣旨ヲ賜フ。左大臣九条尚忠ヲ関白ト為シ、内覧・隋身・兵杖・牛車宣下等例ノ如シ。
文政6年(1823)以来続いた鷹司政通の関白職が遂に解かれた。後任の関白は上記の通り左大臣・九条尚忠であった。関白に次ぐ左大臣であり、年齢でも既に50を越え、さらに孝明天皇の准后・夙子の父にあたる。このように条件を全て満たしているにも係らず、ここまで政通の関白職を引き延ばしたことには、尚忠の行状の悪さや能力に疑問を感じさせる点があったとされている。つまり政通にとってライバルとなりえる人物が出てこなかったこと、そして尚忠が周りから高い評価を得てこなかったことが理由である。安政3年(1856)8月8日時点でも九条尚忠に対して孝明天皇は不安を感じ、政通に内覧を残しておいたのではないかと家近氏は推測している。なお政通は、12月9日に長年の勤労を嘉賞し特旨を以って太閤と称されている。これは同年10月25日に右大臣の近衛忠煕が提案したものである。安政4年(1857)正月4日には太閤を提案した近衛忠煕が左大臣に任命されている。左大臣を兼務していた九条尚忠がこれを辞退したためであり、右大臣には大炊御門経久が就任している。もともと太閤とは摂政または関白の職を子弟に譲った人物を指すもので、未だ関白でない鷹司輔熙の父・政通が賜るべき称号でないにも拘らず、近衛忠煕の提案を孝明天皇が承諾している。さらに坊城俊克を正月18日、徳大寺公純を2月5日に議奏に入れ、遂に2月8日には右大臣・大炊御門経久に替わって鷹司輔熙を昇格させている。関白・九条尚忠に実権がなかったことは明白であり、この時点においても宮中人事は政通を中心として巡っていることを見せ付けている。
安政4年(1858)10月21日、米国総領事ハリスは登城し、将軍・徳川家定に大統領からの親書を呈している。これから日米修好通商条約が締結に向けて大きく進展して行く。12月8日には林大学頭、津田正路に、外交事情奏聞のための上京が命じられる。同月26日に京に到り、29日に武家伝奏・広橋光成、東坊城聡長との会見が京都所司代邸で行われている。これは事前の説明であり、奏聞が不首尾に終われば、翌5年(1859)初頭には老中・堀田正睦が上京することになることは幕府も想定していたようだ。安政5年(1859)正月14日、京都では林・津田の上申書に対して左大臣・近衛忠煕、右大臣・鷹司輔熙、内大臣・三条実萬及び議奏・伝奏等に意見を問わせている。近衛と鷹司の見解は公武一致群議を尽くしてこれに当るべしといった内容であった。三条の意見は全国の大小名に諮問し、その答申を朝廷で諮り聖断を賜るというものであった。なお議奏からは、畿内は現状を維持し外人を接近させないようにするべきとの意見も出ていた。
正月17日、孝明天皇は関白・九条尚忠に以下のような宸翰を与えている。
備中守今度上京候て、どうか献物之事、過日尊公御噂候。右に付、先頃も申入候通、実に右献物如何程大金に候共、其に眼くらみ候ては、天下之災害之基と存候。
万一太閤之所、穏便之沙汰に成候共、当職之事、無二遠慮一屹度御きばり無ては如何かと心配候事。
とあるように、たとえ鷹司政通が関東の意見に迎合してもその所信を把持するように、「御きばり」とその覚悟を促している。ここに主上もまた政通との対決が起き得ることを既に認識している。
2月5日に老中・堀田正睦は着京し本能寺を宿舎とする。そして9日に参内し、小御所で拝謁を得る。
世の中は欲と忠との堺町
東はあずま西は九重
上記は当時の宮廷内の情勢を現した狂歌である。堺町御門を挟んで東の鷹司家は関東寄り、西の九条家は九重、すなわち朝廷側ということで、暗に鷹司家は関東の賄賂を受け取っているという告発でもある。
主上の心配は的中する。正月下旬に政通から提出された意見書は、他の公卿とは異なったものであった。
勅諭之旨実以被レ悩二叡慮一恐入御最奉レ伺候テ一同志願候得共、二百年来於二長崎商館一紅毛人貿易、清人同通商無難ニ候。下田、函館ニモ異人入津候。交易候歟。返テ開港開市之事ヨリ内乱可レ動歟。唯々畿内近海ハ御手薄之都ニ候得バ、唯々諸大名始兆民一和第一所存置厚可レ有二御沙汰一事、堀田申上候上ニテ御宣奉レ存候。則両役可二申上一申達候。巨細ハ被二聞召一可レ給候事云々。
政通は嘉永6年(1853)のペリー来航の際にも、鎖国は天照大神以来の祖法ではなく徳川氏が決めたものだと既に述べている。「孝明天皇紀 第二」(平安神宮 1967年刊)の嘉永6年7月12日の条の実萬公手録の7月14日に下記のように記されている。殿下とは鷹司政通のことである。
東坊城所意、被レ従二博陸之意一歟。聊異二愚意一也。殿下所存ハ右書翰甚平穏、仁慈非レ可レ憎歟 近代他邦通商堅被レ止レ之トモ、往古ハ諸蛮之来信有レ之歟。故ニ交易ハ何モ子細無レ之事歟。但其所レ来長崎ト相定、他港ヘ来ハ背レ制之間可二打払一トカ有レ之テ可レ然歟。但寛ニ過ト衆説可レ有レ之歟。如何ト也。此論可レ然否、不レ能二愚決一。虜情後代之害可恐レ歟。
政通の外交に対する考え方は、この時期から一貫していることが分かる。なお「岩倉公実記 上巻」(皇后宮職 1906年刊)の幕府米国書翰訳文ヲ奏聞ノ事にも、上記同様の内容を平易な文で記している。 安政5年(1859)2月16日、主上は鷹司政通の外交意見が他の公卿と異なることから、関白・九条尚忠と左大臣・近衛忠煕に密勅を送り、自らの鎖国維持の考えに賛意を示して欲しいと強く願っている。そして2月21日に朝議が行われる。政通が所労のため欠席したため、すんなりと堀田正睦への回答が、徳川御三家以下諸大名の意見を徴集し、その意見を朝廷に上げることが決まる。しかし翌日の朝議には政通が病身をおして出席し、前日の決定を覆す主張を行う。これが奏功し一時は破談となるが、主上も頑張り前日の決定の線まで押し留めている。その詳しい所は明らかでないが、「日本史籍協会叢書 中山忠能履歴資料 二」(東京大学出版会 1933年発行 1973年覆刻)巻五の時勢風聞書に以下のようにある。
廿二日 老公春来所労之所、今日出仕、歎息々々。
廿三日 建内話 一昨廿一日何分神国之重事、被レ対二神宮等一、難レ被二決定一に付、諸大名再衆議談合之事、可レ被レ仰二備中守一一定候所、太閤昨日出仕、和親貿易之儀可レ然由決定被言上、依レ之又々破談。但叡念は不レ被レ為レ替、殿下も随分不レ被レ替に付、廿一日の評定位には可レ復由内話。又今日太閤へ久我、徳大寺、萬里なと被レ招、如何可レ有レ之、心配之由也。正坊卿は今日不参加之由也。
このようにして主上は鷹司政通の主張を退けることに成功し、翌23日に両役は老中・堀田正睦に朝廷側の回答を伝達している。そして政通は同月29日に内覧を辞することを申し出ている。これは主上からの内輸があっての結果だと考えられている。既に政通の手を経なくても自らの意思を推し進めて行く事ができるという思召しの現われでもあろう。こうして長年にわたって朝幕の間の調整を行ってきた主役・鷹司政通が政治の舞台から退場する時が来た。
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