京都御苑 九條邸跡 その6
京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その6 2010年1月17日訪問
九條邸跡 その2から、その5までを使い、老中・堀田正睦の条約勅許活動から条約締結、そして戊午の密勅の降下の経緯を書いてみた。この安政5年(1858)1月から8月までの凡そ8ヶ月間の中でも、特に4月23日の井伊直弼の大老就任、6月25日の紀州藩主徳川慶福への継嗣決定、そして7月6日の将軍・徳川家定の薨去が大きな変更点となった。それに伴い、関東の政治手法も阿部・堀田時代から大きく変わることとなった。井伊直弼にとっての誤算は、日米通商条約の締結が想像していたより早くなったこと、そして条約締結を説明するための老中・間部詮勝の上京が遅れに遅れたことである。特に後者によって京都の政治的状況が幕府にとって決定的に悪化していったことが大きい。派遣遅延の最大の原因は徳川家定の薨去と家茂の就任であったが、京都の状況の変化を関東では把握できなかったことに問題があったとも言える。 同じことは京都にも当てはまる。主に水戸からの入説によって、関東の情報は得ていたものの、条約締結が回避できないものになって行ったこと、井伊直弼が高圧的な手段を用いることなどが理解できていなかった。そして最大の失策は、水戸藩が井伊内閣を破壊するほどの力を持ち備えていないことを見通せなかった点である。水戸藩からの情報は、水戸藩にとって都合の良いものであったことは当然のことである。この部分を差し引いて置かないと、関東の政治状況が把握できなのだが、それを誤ったということであろう。つまり、徳富蘇峰の言葉を借りれば、朝廷は水戸藩を買被り過ぎたということである。これによって安政の大獄の凄惨さは幾層倍にも増加した。
彦根藩家臣の長野主膳が調略のため3度目の京に入ったのは安政5年(1858)8月3日の早朝であった。このことは「大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料8」(東京大学史料編纂所 1973年刊)に掲載されている長野主膳が安政5年(1858)8月5日付で井伊大老に宛てた書簡(8・五二)あるいは同日に宇津木六之丞に宛てた書簡(8・五四)に詳しく記されている。長野は上京した3日の内に九条家家士・島田左近と打ち合わせを行っている。また6日にも木屋町三条上ルの生亀亭で面会(8・五六)するなど、京の最新の情報を積極的に吸収している。
長野が京に入ったことは、大日本国有志中名義の書が徳大寺家、正親町三条家、橋本家、八条家そして三条家に投げ入れられている。長野の行動は民間の有志によって注視され、その影響の大きさを予期して上記のような投書となり、朝廷の正義派面々に伝えられた。このことも8月8日の長野からの書簡(8・六三)で投書の写しを含めて宇津木へ報告されている。三条実萬が九条関白に関する悪説を流布したが奏功しなかったために、五家に対して投書を行ったと見ている。なおこの書簡には、三条が○役者(青蓮院宮)を以って主上を動かし、井伊家を悪逆の第一とし水戸家を天下一の忠節として、徳川斉昭を召出すための勅命降下を企てたが、九条関白が不承知であったため阻止されたこと、そして関白罷免の画策を巡らした事も記されている。あくまでも九条家の言い分を元に幕府側からの見方であるものの、その後の動きを比較的正確に把握していたことが分かる。
このように京都の有志達に監視されていたため、長野は自由に行動することができなくなっていた。上記8日の書簡(8・六三)では、三条等の水戸への勅諚降下は失敗したと書いたものの、実は同日に戊午の密勅が降下している。長野と島田は企てをある程度察知していたにも関わらず、見逃してしまったようだ。従って長野の京都における活動の全ては、密勅降下後の関係者の洗い出しと民間の有志達と正義派の公家達への弾圧に向けられることとなる。
戊午の密勅が降下された8月8日、幕府は正式に征夷大将軍徳川家定の逝去を公表している。この報告が京に伝わったのは8月16日であった。旧例に従い21日に太政大臣正一位が贈られ、温恭院の号を賜っている。そして上記の長野の書簡にもあったように、9月2日に内勅を以って九条関白に辞職を諭さしめている。これは九条関白が関東からの消息を隠匿し、その主旨を緩和するため勅諚に添紙を加えたこと等が露見したためとされている。その罷免の理由は、単に幕府に加担した工作に過ぎないが、実際にはその当時の京都における与論と関白の行動が相容れない程大きな溝が生じたことに他ならない。これは長野の思っていた三条の悪謀によるものではなく、主上自身が関白に辞職を迫ったものであった。関白は2日に辞表を出し、4日には内覧辞退が許されている。そして内覧は左大臣・近衛忠煕に宣下された。
しかし九条の関白辞職には幕府の諒解が必要であるため、京都所司代・酒井忠義は伝奏に江戸の返事を待たずに断行すると公武間の葛藤となることを警告している。京都所司代・酒井忠義は8月16日に江戸を発ち9月3日に着任したばかりである。酒井は同じく9月3日に上京の途に就いた老中・間部詮勝に書面を以って関白辞職の事情を伝えている。幕府にとって関白・九条尚忠は京都における唯一無二の橋頭堡であったため、その辞職を認めることはできなかった。またその辞職が関白の本意から出たものでないことを知っているため、関白を守る行動に出た。幕府は9月13日付けで酒井と間部宛に関白辞職の件の対応策を伝えている。つまり前将軍・家定の遺言と称し、詳細は間部詮勝が上京した際に説明するとして辞職を押し留め様とした。10月6日酒井所司代から伝奏に上申が提出され、翌7日の朝議により九条関白の復職が承認されている。10月12日、九条尚忠は復職を内諭する宸翰を賜わり、その翌日の13日には入れ替わる様にして三公と三条前内大臣が外夷一件の評議を辞している。これは自発的な辞任ではなく関白復職のためのものと考えてよいだろう。さらに16日には鷹司家諸大夫の小林良典が町奉行所に呼び出された件で鷹司右大臣が辞職を申し出ている。この辞表は18日に右大臣に返却となっているが、既に9月初旬より始まった有志達の捕縛による影響が強く現われている。そして10月19日に九条関白の辞職を留め内覧も復している。同日に近衛左大臣の内覧を罷めているので、関白は唯一の内覧となる。このようにして9月2日の関白辞職からほぼ1ヶ月でその形勢は完全に逆転する。
朝廷内で九条関白の辞職が正義派公家と幕府の間で大きな問題となっていたころ、同じく京の町中では戊午の密勅に関する捕縛が始まっている。この活動の主役は上記の通り彦根藩家臣の長野主膳である。長野は謀略を練るだけでなく、大老に代わって善悪を専断しその処罰を実行することに長けた人物でもあった。主膳は戊午の密勅降下については日付不明ではあるものの、京都町奉行所与力の渡辺金三郎からの書簡(8・六七)によってその経緯を知らされている。そして8月12日付の宇津木への書簡(8・八六)の中段で下記のように記している。
此度別紙之通、公卿参内、殿下御存も無之勅命ヲ水戸家へ被下候由、是ニても殿下ヲ邪魔ニ被成候御趣意ハ明らかに御座候、併是もさして御驚被遊候事ハ御無用可被遊候、何も間部侯御上京之節、御答可申上との事ニて宜敷御座候、尤其節御三卿之中ニてハ、田安様之思召ヲ被仰上、御家門ニてハ寉堂様(確堂 松平斉民、前津山藩主)なとの思召被仰上、尾州家なとも摂津守様(徳川義比、名古屋藩主)と歟御勘考有之候ハゝ、十分之御事と奉存候、尤其儀無之とも不苦事ニ御座候
さらに「大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料九」(東京大学史料編纂所 1975年刊)に残されている8月18日に宇津木六之丞へ宛てた書簡(9・六)で、勅諚には関白、議奏の副署がないことから、その勅諚の無効を指摘している。長野が入京後に発生した事件であるため、自らの不手際も認めざるを得ない。そのため勅諚の問題化を最小限にすることが必要であることに気が付き、上記のような考えを述べている。また、主上は御英明であるが周囲の悪謀の方々によって、このような状況になったと判断し、奸賊一味の排除が必要であると進言している。同日付の宇津木六之丞へ宛てた書簡(9・五)で、入京時の投書の探索結果を下記のように報告している。
一又堂上五軒へ之投書ハもと七月下旬梅田源二郎と申儒者、もと若州之家中ニて五ヶ年前御暇ニ相成候者、只今京都ニて太閤殿へ出入仕居、至て御親敷被遊候
この書簡では梅田に投書を命じたのは、三条家諸大夫森寺因幡守と推定している。このようにして長野は半月の間に三条家と梅田雲浜を結ぶ線を見つけ出している。8月21日付の長野から井伊大老への書簡(9・一五)には投書を書いた梅田源二郎に対する探索を酒井所司代に依頼したことを報告した後、三条殿に気を許さないように京都留守居役を説得する必要があると告げている。また同日付で宇津木に送った書簡(9・一六)では、三条実萬を下記のように評している。
惣て此人之御所為、無実ヲ以実とし、非ヲ以理とする之佞智ハ相見え候へ共、正実忠と義ニ心魂ヲ被極候事ハ是迠一として承り不申
さらに書簡では、投書の作者である梅田雲浜が小浜藩に送った書簡の内容を同藩の本多孫左衛門から聞き出していたことも記されている。恐らく雲浜が旧師・坪内孫兵衛に送った安政5年(1858)7月17日の書簡(「続日本史籍協会叢書 梅田雲浜関係史料」(東京大学出版会 1929年発行 1976年覆刻)103頁)のことと思われる。そして以下のように雲浜の捕縛の必要性を述べている。
しかれハ此梅田と申者ヲ早々若州へ御召捕ニ相成候様之手段肝要かと奉存候、無左れハ実ニ太閤方之謀計ニて殿下も持こたへかね被遊次第ハ今便奉入御覧候御直書ニて相分申候
その上で桑名に酒井忠義所司代を訪ね、雲浜捕縛の相談を行う予定であると記している。
早々かの者被召捕、太閤殿との通信ヲ断不申てハ、此上如何成書ヲ生し可申も難計次第御相談も仕度奉存候
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