法成寺址 その5
法成寺址(ほうじょうじあと)その5 2010年1月17日訪問
明けましておめでとうございます。2017年最初の更新となります。
昨年は9月頃から”別の作業”が忙しくなり、なかなか更新することが出来なくなりました。その作業も凡そ目途がつき、3月頃には完了する予定です。そうすればもう少し更新頻度も上がると考えておりますのでよろしくお願いいたします。
廬山寺墓地と慶光天皇廬山寺陵(その2、その3、その4、その5)を拝観し、御土居を見学した後、廬山寺の山門より、再び寺町通を100メートルほど南下すると京都府立鴨沂高等学校が現われる。鴨沂高等学校については後で触れることとし、この項では鴨沂高等学校の運動場の塀際に建てられている「従是東北 法成寺址」の石碑について考えてみる。なお、藤原氏の氏寺の変遷については既に前回の訪問(2009年12月10日)の際の法成寺址、その2、その3で書いてきた。法成寺についても法成寺址 その4で簡単に触れているので、併せてご参照下さい。
法成寺址の碑文に従うならば、かつての法成寺の西南隅に建てられたこととなる。つまり現在の鴨沂高等学校の運動場が、その跡地の一部となる。この石碑は京都市教育会が大正4年(1915)に建立したものである。京都市教育会とは、横井小楠殉節地で記したように、明治35年(1902)に創立した組織である。京都市役所内の一部署あるいは教育委員会などではなく、京都市の教育の普及と発達を図るために創設された組織である。現職の京都市長が会長や副会長を務め、理事や評議員には教育者や実業家が加わるなど、京都市の名士の集いという色彩が濃かったようだ。中村武生氏の「京都の江戸時代をあるく 秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで」(図書出版 文理閣 2008年刊)の中で詳しく説明されているので、興味のある方はどうぞ。
法成寺の位置については、いくつかの文献より推測されてきた。平安時代の私撰歴史書である「扶桑略記」所引の無量寿院供養願文に「鳳城東郊、鴨河西畔」とある。また同時代の歴史物語「栄花物語」に「東の大門に立ちて、東の方をみれば、水の面まもなく、筏をさして、多くの榑材木をもて運ぶ」とある。藤原実資の日記「小右記」にも「京極東辺」、鎌倉時代の半ばに纏められた天台密教の「阿裟縛抄」には「近衛北、京極東」などとある。
近衛とは出水通にあたる10丈の東西大路・近衛大路である。現在の出水通は京都御苑の西側の烏丸通から始まり七本松通に至るだけだが、近衛大路は平安京において大内裏を挟んで東西の京極大路まで達する大路であった。GoogleMap上に平安京の坊条を落とし込んで見ると近衛大路が、西の出水通とともに東の荒神口通と一致することが分かる。 また東京極大路には、京都御苑と梨木神社の間を通る梨木通がほぼ一致する。寺町通と比べとあまり有名ではない梨木通ではあるが、「京町鑑」(「新修 京都叢書 第10巻 山城名跡巡行志 京町鑑」(光彩社 1968年刊行))の縦町之分には、「寺町より西へ一筋目 梨木町通」「石薬師より広小路迄凡三丁程を 梨木町 此町両側公家衆又は地下役人衆也」とある。この一部歩行者専用道路となっている小道が、かつての平安京の東限となる幅員10丈凡そ30メートルの大路があったとは想像できない。これらによって法成寺の範囲は北側を除き、東の鴨川、西の東京極大路(梨木通)、そして南を近衛大路(荒神口通)によって囲まれた範囲ということとなる。
法成寺は藤原道長が建立した摂関政治期最大の寺院である。法成寺の寺域は当初東西2町、南北2町であったが、創設後すぐに南北3町に拡張されたと考えられている。この寺域6町とは、東は河原町通を越え現在の府立病院の敷地の一部を含み、北は廬山寺をも含むものであった。この場所に藤原道長がこのような巨大な寺院を建立したのには、東寺と西寺を除き平安京内に僧房を持ってはいけないという原則に従ったためと考えられている。平城京で宗教勢力との政争に巻き込まれた反省より平安京建都以来の決まり事となっていた。そのため出家し僧侶として暮らすための生活の場を自らの土御門第に隣接する東京極大路の東側という平安京外に求め、道長は住房として御堂を伴う院家建築を営んだ。そして造営の過程で院家建築を寺院建築に移行させたと、杉山信三は「藤原氏の氏寺とその院家」(吉川弘文館 1968年刊)で解説している。
栄華の絶頂期にあった藤原道長が出家したのは、胸病を始めとする多くの病に苦しんだ寛仁3年(1019)3月21日のことであった。そして同年7月17日、土御門第の東に中河御堂(無量寿院)としての九躰阿弥陀堂造営の着想を得ている。これが後の法成寺の始まりと考えられている。諸堂の建築は年があけた寛仁4年(1020)1月から着工し、正月19日には上棟式を迎えている。寺中をならして池を掘り、仏像を安置した後、同年3月22日には供養が行われている。この堂宇は、九躰の丈六阿弥陀仏像を本尊とし観音像・勢至像そして四天王像あわせて十五躰の像が安置された間口11間の建物であった。敷地内の西側に建立され、東向きで池に面していた。これは九躰阿弥陀堂の初期の建物であり、その後全国各地で建設された阿弥陀堂の手本とされた建物でもある。現存する唯一の九躰阿弥陀堂である浄瑠璃寺本堂が平安時代後期の保元2年(1157)竣工で国宝に指定されていることからも、この法成寺の阿弥陀堂が今に残されていたらと思わざるを得ない。
それ以外にも出家した道長が僧侶生活を送るために僧房にあたる寝殿などがあったと想像される。この阿弥陀堂をはじめとし、十斎堂・西北院・金堂・五大堂・薬師堂・釈迦堂・東北院などの堂宇が次々と造営されていく様子は、栄花物語に描かれている。このように自らの病を契機とし道長は出家し、その後の生活する住房として無量寿院を造った。そのため最初の無量寿院は、苑池に北側に自らの寝殿を南面するように配し、池の西側に九躰阿弥陀堂、東側に十斎堂、法華三昧堂を建立している。しかし元々移り気で普請好きの性格であった道長は、院家建築であった無量寿院を寺院建築に発展させ、法成寺へと改めて行くことを進めていく。最初に寝殿のあった場所に金堂が造営され供養が行われたのは、治安2年(1022)7月14日のことであった。この時、金堂には始めて法成寺の額が掲げられている。さらに最初に建立した阿弥陀堂と十斎堂を万寿元年(1024)に再営している。当初より寺院建築として無量寿院を建設したならば、これらの建替は必要なかったであろう。そのため無量寿院を法成寺に置き換えるための措置であったと考えてよい。
法成寺の伽藍がどのようなものであり、そしてどのように変遷して行ったかを考古学的に実証することは困難である。そのため上記の栄花物語等の記述を元に復元予想図等が作成されている。杉山信三は「藤原氏の氏寺とその院家」において、
1 金堂造営直前の寛仁5年(1021)の無量寿院
2 薬師堂造営直前の治安3年(1023)の法成寺
3 天喜火災直前の天喜6年(1058)の法成寺
4 天喜火災後再建の寛治4年(1090)頃の法成寺
の4つの時期の無量寿院及び法成寺の伽藍配置図を提示している。ちなみに法成寺が4町から6町に拡大されたのは寛仁5年(1021)から治安3年(1023)の間である。
平安建都1200年を記念して制作された1000分の1の平安京の模型(現在は京都市生涯学習総合センター 京都アスニーにて展示)に法成寺の姿を見ることができる。残念ながら現物を見る機会を得ていないが、この模型作成の機会となった「甦る平安京」展に合わせて出版された「よみがえる平安京」(村井康彦編集 淡交社 1995年刊)において土御門殿と並ぶ法成寺の姿を見ることができる。ここでは4町の寺域の東南に五重塔が築かれている。法成寺を寺院として完成させるためには塔の造立が必要である。そのため新たな阿弥陀堂と十斎堂とともに着手し万寿4年(1027)末頃には竣工したと杉山は考えている。藤原道長が病没したのが同4年12月4日であるから、塔の完成はそれより前を目指していたことは間違いない。京都アスニーの模型の法成寺は、道長の最期の時期の姿を表現していると考えてよいだろう。
法成寺の造営は道長の死後も、長男で平等院鳳凰堂を造営した頼通と長女で一条天皇中宮となった上東門院に引き継がれるが、天喜6年(1058)2月23日の火災により、諸堂悉く焼亡してしまう。頼通は康平元年(1058)10月27日より法成寺再建に着手し、同2年(1059)10月12日に阿弥陀堂、五大堂の落慶供養、同4年(1061)7月21日には東北院の供養を行っている。その後も、金堂、薬師堂、観音堂、東塔、西塔、西北院、新堂、南大門などが再建され、法成寺は天喜の火災以前よりも整備されることとなった。
頼通、上東門院の没後は藤原師実によって法成寺は継承されてきた。しかし康平2年(1059)の阿弥陀堂再建から、寛治4年(1090)建立の新堂まで、実に30余年を経ていた。この間に摂関政治から院政政治へと権力移行が行われ、藤原氏の退潮は明らかなものとなった。それに伴い法成寺の維持も藤原氏にとっても儘成らないものとなり、遂に鎌倉時代末には完全に廃絶している。
法成寺の瓦と推定されるものは発見されているものの、その遺構は未だに発掘されていない。この地の考古学的な調査に関しては次回の訪問(2014年10月)の際に記述することとする。
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