藤井右門邸跡 その4
藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その4 2010年1月17日訪問
藤井右門邸跡 その3では明和事件において山縣大弐捕縛となった経緯と処罰がいかに決定し、刑に処せられたかについて書いてきた。ここでは藤井右門の宝暦・明和の二事件にどのように関与し、その最期を明らかにする。
今回、藤井右門を書くに辺り、その事跡を記した書籍を探したが、殆どないことが分った。そのため唯一の伝記となる佐藤種治著「勤王家藤井右門」(中田書店 1936年刊)を参照する機会が多くなる。このようなこととなったのには、本書の序文で触れているように、藤井右門に関する史料・資料が圧倒的に少なく、伝記を纏めるのに至らないからである。徳富蘇峰も近世日本国民史「宝暦明和篇」(時事通信社出版局 1964年刊)で右門については、「九八 藤井右門」の1章を割いて、宣告文と経歴そして彼の人となりを記すに留めている。蘇峰は弁疑録の「右門は伏見親王の臣なるが、元来放蕩にて、親王の邸を出奔し、江戸に来り住せり。文にもあらず、武にもあらず。」と解寃夜話の「素より文にあらず、武にあらず、唯だ和歌を以て称せらる。」を引用するのみで、後で触れるが「宝暦一紀事」を下記のように否定している。
惟ふに宝暦一紀事は、果して藤井右門の著作乎。或は彼の名に仮託したる作乎。何れにしても、上記の如き紀事は、決して真面目に受取る可きものではない。若し此れが慶応末期のものとすれば、或は可能性あらんも、宝暦・明和の紀事としては、とても相手にするものはあるまい。
以上のように蘇峰も右門の事跡が少ないことから多くを記すことができなかったようだ。「勤王家藤井右門」の序文にでは、さらに右門の伝記の著述を三田村鳶魚等数名に依頼したが、資料の少なさによって断られた旨が記されている。そのため、ようやく纏まった「勤王家藤井右門」も、その緒言で「純正なる歴史家の方からは抹殺し削除すべき点も数あることは覚悟してゐる」とあるように参照した資料にいくらかの問題があることを著者は認識している。このあたりに注意した上で本項を読んで頂くことをご理解下さい。
藤井右門は享保5年(1720)越中国射水郡小杉宿(現在の富山県射水市)に藤井又左衛門宗茂の長男として生まれたされている。宗茂は赤穂藩浅野氏の家臣で、主席家老の大石良雄に次ぐ上席家老であった。松の廊下刃傷事件の際、内匠頭の御供をして江戸にあった。浅野家改易後、鉄砲洲上屋敷を立ち退き、築地飯田町で暮らしたが、仇討ちへの参加を求められるも加わらず、知己であった越中国富山藩前田家の家臣金森八三衛門を頼り、越中国射水郡小杉村に身を寄せ、名を吉平に改めている。同郡大手崎村赤井屋九郎平の娘を娶り、生まれたのが幼名吉太郎、後の右門である。
父である吉平は享保18年(1733)に没したため、右門は同20年(1735)に郷里を出奔、京では前田利寛に従った。利寛は富山藩主前田正甫の庶子であり、京都に出て学問の道に励んでいた。右門は利寛の猶子となり、その世話で大納言・正親町三条公積の臣の藤井忠義の養嗣子となっている。忠義の嫡子である忠政が夭死したため、右門を迎えて家督を継がせている。藤井家は従五位下の地下諸大夫という下級公家である。公家の金森式部の家に出入りをしながら、伊藤東崖より儒学を、そして染屋正勝より剣を習う。後に皇学所の教授方になったことで、竹内式部と知り合い弟子入りしている。
宝暦元年(1750)、霊元天皇の第13皇女である八十宮(吉子内親王)の御家司に抜擢され、従五位下の位階を受けている。八十宮は生後1ヶ月で七代将軍徳川家継と婚約したが、家継は正徳6年(1716)4月30日に僅か7歳で死去している。この年の閏2月18日に納采の儀を済ませているので、史上初の武家への皇女降嫁、関東下向には至らず、八十宮は僅か1歳7ヵ月で婚約相手を失い、享保17年(1732)には出家し浄琳院宮を称している。宮の御世話係は正親町三条公積と西洞院時名であり、二人とも式部の弟子であったことが右門の八十宮家入りにつながったと思われる。
宝暦事件に於いて、式部の門人である堂上人27名への処罰の方針が決したのは、宝暦8年(1758)7月24日の聖旨であった。しかし京都町奉行による式部に対する再度の糺問は同年6月28日から始まっている。そして式部は7月24日には揚り屋入りが命じられている。式部に対する糺問は、何度も何度も繰り返して行われたが、拷問を加えるなど苛酷なことは為されなかった。同年11月27日には口書を取られている。それ以降、処罰の申し渡しまで揚り屋に留置されている。そして宝暦9年(1759)5月6日、式部父子に対する重追放が決まり、京都から追放されている。
恐らく、式部に対する再度の糺問が始まる宝暦8年(1758)6月28日頃、身の危険を感じた藤井右門は自らの柳辻子の邸から姿を消している。「勤王家藤井右門」では、右門が自邸に入るのを確認した幕吏が邸内に踏み込むと既に右門の姿はなかった。床の間の下に作られた抜け穴を伝い相国寺裏へ脱出したとしている。兵学を修め武術に長けた右門ならば、考えられる展開であろう。この時の手際の良さが、後に右門は妖術を使うという風説になる。かくして姿を眩ました右門に対して位記の返上が、式部の揚り屋入りと同日の同年7月24日に行われている。
この宝暦8年(1758)7月以降、明和事件が始まるまでの右門の足取りは明確になっていない。上記の「勤王家藤井右門」では以下のように説明している。
此時藤井右問直明は、甲斐国から兄斎宮の紹介で米穀商八幡屋伝右衛門と江戸へ来て大弐方へ寄寓して専ら教授の手伝をなしたるのであるが、彼は宝暦事件以後8年間、越中小杉邑で育つたゝめ、巧みに売薬商に化して四国の大洲(伊予国)・九州の鍋島藩・柳川藩・立花藩を始め久留米から山陰道の各地より摂津など、諸国を流浪して到る処の豪家に宿泊して、巧みに尊皇論を鼓吹した
右門がこのような逃亡生活を行うこととなった背景には、上記の「宝暦一紀事」に記されている義挙の計画が実際に存在していたのではないかという推測もある。これは元津和野藩士の福羽美静が明治26年(1893)4月に右門の末裔の藤井九成が主有していた文書を借り受けてまとめた物とされている。その内容は、桃園天皇の御内勅を以て、幕府征夷大将軍職を奉還させるための計画書であり、時の将軍・徳川家重を江戸から日光東照宮へ押込める内命が下される。そして五摂家七清華等の門閥を廃し、一切の公家を平等にしてその中から才能のある公卿を選別して三公以下の職に任じるという内容である。そして賛同する志士として、奥村兵部(富山)、前田民部(富山)、金森能蔵(郡上)、同十郎(郡上)などの譜代大名家の重臣の名前が並ぶ。 藤井右門が宝暦事件当時にここまで計画を立案し実施の準備を詰めていたならば、確かに京都所司代から逃れるために事件発生直後に失踪したことは分る。しかし右門自らが売薬商を行いながら作成したか、後の時代に明治維新の王政復古を下敷きにして描き直した可能性の方が高いのではないかと思う。
藤井右門が山縣大弐に出会ったのは何時頃であったか。「勤王家藤井右門」は宝暦13年(1763)6月頃、大弐の兄の斎宮が市郎右衛門と名を改め百姓になった頃、兄の紹介状を持った右門が八丁堀の大弐の塾を訪ねたとしている。宝暦事件発生から5年が経とうとする頃である。売薬商として全国を行脚していたため各国の世情にも通じていた上、兵学を修め戦略家でもあった。そして生まれでは5歳年長であり、あの有名な宝暦事件の首謀者と目される竹内式部とも通じる右門を門人にすることに、大弐も若干躊躇する所があったであろう。
「勤王家藤井右門」では乙号明和始末を下に、右門が自らの素性を明らかにした上で門人となり、竹内式部、主計父子との仲立ちをとる場面を描いている。そして式部の子の主計が、富永道生と改名して大弐の門人になったとしている。この辺りは余りに展開が飛躍しているので、少しばかり引用を端折るべき部分であろう。
明和3年(1766)12月21日の山縣大弐の就縛の様子については、藤井右門邸跡 その3で既に書いた。ここでは藤井右門の就縛について記す。 幕吏が捕縛のために大弐邸を訪れた時、大弐邸に同居していた右門は外出していたようでその現場にはいなかった。大弐の弟子の今村弾次が言葉巧みに右門を吉原に誘い出したとされている。前日からの降雪によって、元禄14年(1701)の討ち入りの日と同じく一面の銀世界であったとされている。武芸に長けた上、妖術も使うことができると評された右門であるので、捕り方も捕縛の方法に悩んでいたようだ。例え隠形の奇術を使って姿を消しても雪の上に足跡を残すと考え、この日の捕縛を決めたようだ。右門の前後左右を与力同心数十名で固め、捕縛を宣言した所、右門も逃れがたいことを察し、抵抗することなく奉行所への同道を承諾している。しかし右門の妖術を恐れた幕吏は縛を掛けた上から金網で作られた籠に押し込め、奉行所へ連行したとされている。
山縣大弐に対する取調べは拷問など行われなかったとされているが、右門の牢における拘束は厳しくに行われた。これは右門が牢から抜け出すことを恐れての措置であった。裁判場へ出る際にも金網が掛けられ、鞠問も檻箱牢のままで行われている。一切の右門の自由を束縛したため、結局右門は判決を聞く前に獄死することとなる。
明和4年(1767)8月21日、藤井右門に下された宣告は以下の通りである。
大弐方に居候、正親町三条中将家来の由申立候
藤井右門
四十八歳
其方儀、浪人山縣大弐、多能の儀を、本町三丁目町医師宮澤準曹、神田小柳町浪人桃井久馬へ吹聴致し候へ共、申消候趣に付、大弐儀甲府の御城要害等へ引当、兵学論議致し、道理相分り候由の儀、物語り仕り、且又四年以前熒惑星心宿にかゝり候由、右古書の通り兵乱の萌に候処、其後百姓騒動少しく其験有レ之旨、大弐申候様拵へ申聞候処、何方に兵乱の萌之あるべき哉、計り難き由申、甲府要害宜しく候へども、武田勝頼攻破られ候節の通に致し攻め候はゞ、甲府の御城落ち可レ申由、都て火矢の儀は、風上より射掛候に付、南風に候へば、品川辺より射縣宜候由、或は甲府の絵図に引当て雑談仕り、江戸の御城は、西の方御手薄の由に付、譬ば其方儀攻候はゞ、東の方御要害堅固なる場所より攻め申べき事の由、之を申候。勿論其方儀、反逆等の儀レ之事に候得ども、一体大弐を信仰いたし、兵学論談、又は合戦の致方を申募り候に由り、合戦致し候者の所存に相成り、自然と前書の通り、此上も無き恐多き儀を雑談いたし候段、不敬の至、不届至極に付、獄門申付る。
徳富蘇峰は近世日本国民史「宝暦明和篇」(時事通信社出版局 1964年刊)で以下のように例えているが、これが右門の役割について最も妥当な評価であろう。
若し山縣大弐を由比正雪とせば、藤井右門は、丸橋忠弥とせねばなるまい。明和事件に就ては、大弐は固よりであるが、其の責任の大半は、右門の放言高論に帰せねばなるまい。
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