烏帽子岩
烏帽子岩(烏帽子岩) 2010年9月18日訪問
叡山電鉄鞍馬線の貴船駅から貴船神社を目指し京都府道361号上黒田貴船線をさらに北上する。蛍岩、梅宮社そして白石社に次いで烏帽子岩と呼ばれる石が貴船川東岸に現われる。丁度、川床料理旅館の貴船べにやを通り過ぎたあたりである。
烏帽子岩と呼ばれる景勝の地は全国に数か所あるが、いずれも烏帽子に似た形状から名付けられたものである。その中でも神奈川県茅ヶ崎市の沖合にある姥島は、サザンオールスターズの歌詞に出てくることから有名である。沖合1200mにある東西600m、南北400m、高さ20m余りの無人の岩礁群は、烏帽子岩という愛称と共にこの地域のシンボルとなっている。
貴船川のほとりにある烏帽子岩は姥島と比べればかなり小振りの「石」である。その語源となっている烏帽子は平安時代から始まり近代まで続いてきた成人男子が被る帽子の名称である。今では神職あるいは相撲の行司が被っているものという印象しかないが、近代以前では比較的一般的な被り物であったことは確かである。儀式や参内などの公式の場で用いられたものが冠、それ以外の日常で用いられたものが烏帽子であったので、冠と烏帽子は同じ被り物として近しい関係にあった。
日本における冠の起源は明らかではないが、古墳の装飾品として金、銀、金銅などから成る冠や冠帽が出土していることからも既に身分を明らかにするものとして使われていたことが分かる。日本で初めての冠位や位階を定めたのは推古天皇11年12月5日(604)に制定された冠位十二階である。「日本書紀」巻二十二 豐御食炊屋姬天皇 推古天皇には以下のように記述されている。
十二月戊辰朔壬申、始行冠位。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、幷十二階。並以當色絁縫之、頂撮總如囊而着緣焉。唯、元日着髻花。髻花、此云于孺。十二年春正月戊戌朔、始賜冠位於諸臣、各有差。夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條。
最初の部分の12月は推古天皇11年12月のことである。この月の朔日は戊辰で壬申は12月5日にあたる。この日に「始行冠位」とあるので冠位十二階が施行されたのであろう。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智の12階に分けられた。徳を除く仁礼信義智は儒教の徳目である五常(仁義礼智信の順が一般的)に通じている。そして、その上位に五常を合わせ持つものとして徳が加えられたということらしい。この徳仁礼信義智には紫・青・赤・黄・白・黒の色が与えられ、大小を濃薄で表現したことで色分けされた十二階の冠位が誕生した。天皇が臣下に冠(位冠)を授け、冠の色の違いで身分の高下を表するものであった。つまり氏姓制度のように位階を世襲させるのではなく、個人に対して与えられるものであった。そのため豪族の身分秩序の再編成や官僚制度への移行が設立の目的とも考えられている。
日本が冠位を制定した頃には、既に中国及び高句麗・新羅・百済にも類似した制度が存在していた。むしろ日本にとって、これらの国々と外交交渉を行う上で意思決定に至る国の仕組みを明らかにすることが急務であった。これは政治体制自体の可視化であり、具体的には政治を主導する官人の序列を明らかにすることでもあった。推古天皇8年(600)に第一回遣隋使が派遣されている。この使者派遣で、倭国の政治体制や習俗は道理が通っていないという批判を髙祖文帝より受けることになった。つまり”倭国=未開の野蛮国”という評価を受け、第一回の遣隋使は大失策となった。冠位十二階の成立目的は、上記のような国内豪族の再編成に留まらず国辱的な失敗を挽回するための施策の一環であったとも考えられる由縁である。
このようにして国内国外からの要請により冠位十二階という制度は生まれたが、平安時代中期になると冠の形状が身分や年齢によって異なるということはなくなったようだ。そしてこの時代の冠は大きな変更もなく現代に伝わっている。図解がないので分かりにくいと思うが冠は大きく3つの部分から構成されている。頭に乗せる「甲」または「額」と呼ばれる部分。後ろに高くそびえる「巾子」、古くはここに髻を入れていた。そして「纓」と呼ばれる背中にたらす長細い薄布。
これに対して烏帽子は平安時代頃より始まったと考えられている。初期は薄い絹で仕立てたものであった。後になり黒漆を塗った紙製に変わる。衣装の格式や着装者の身分によっていくつかの種類に分かれ厳格な使い分けが行われたようだ。あくまでも成人男子の装束であるが、白拍子など女性が被る場合もあった。室町時代までは男子の象徴的な装束であったため 、烏帽子を取られたり脱がされたりすることをとても恥辱と感じ、ともかく被り物のない頭を人様に見せることは下半身を晒す以上のことであったようだ。このあたりはNHKドラマ「いいね!光源氏くん」でも登場しているので、比較的一般化してきたのかもしれない。
烏帽子にはその形状によって分類することができる。最も格式の高く現在でも神職が着用する立烏帽子。立烏帽子を折った折烏帽子、動作に便宜なように作られ武士から庶民が使用した。現代でも大相撲の行事が着用している。揉烏帽子は薄布を用い柔らかくした烏帽子。鉄烏帽子は文字通り鉄製の烏帽子。風折烏帽子は鵜匠が被る烏帽子。麻布を頭に巻いているのは頭髪をかがり火の粉から守るためである。
最後に中京区室町通三条下ルに残る烏帽子屋町という町名について書く。南北に通る室町通を挟む両側町で、北の三条通から南の六角通の間に広がる。マンションが立ち並ぶ町に変わってしまったが、町の中央部に老舗帯問屋の誉田屋源兵衛の店舗があり、かつての室町通の雰囲気を少し残している。もともと浄土宗常楽寺があったので常楽寺町と呼ばれていたが、天正年間(1573~92)に裏寺町蛸薬師下ルに移ったため地名も変わった。寛永14年(1637)の洛中絵図には「ゑぼしや丁」とあり以降変化はない。
寛文4年(1664年)に浅井了意によって著された仮名草子形式の京都の地誌「京雀」(「新修京都叢書第一巻 京童 京童跡追 洛陽名所集 京雀」(光彩社 1967年刊))には以下のような記述が残されている。
ゑぼしや町 此の町にゑぼしををりて売なり又六月十四日祇園会に黒主山をかざりてまつり渡す これ花山の桜を大伴のくろぬしがながむる所といへりある説には雲林院の花ともいへり
昔より烏帽子を商うものがこの町に多かったということである。また「京羽二重」(「新修京都叢書第六巻 京羽二重 京羽二重織留大全」(光彩社 1968年刊))の巻六の諸師諸芸の中に「御冠幷烏帽子折」という条がある。
油小路中立売下町 木村筑後
同一条下ル町 同 庄兵衛
室町一条上ル町 杉本美作
室町通三条下ル町 三宅近江
「京羽二重」は貞享2年(1685)に水雲堂狐松子によって纏められた地誌。書名は序文の「縦横筋のこまやかならん事をいはんとて京羽二重と名付け仕立る」とある。経糸と緯糸を交互に交差させて織る西陣の羽二重を由来としている。烏帽子町で烏帽子を商っていた者の中に三宅近江という人がいたということである。
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