徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:洛東

ホテルフジタ京都

 

ホテルフジタ京都(ほてるふじたきょうと) 2008/05/15訪問 ホテルフジタ京都 鴨川側の外観 撮影2005/08/16  鴨川にかかる二条大橋の西詰めに吉村順三設計による昭和45年(1970)竣工のホテルフジタ京都が建つ。こちらのホテルには一度予約を入れたことがあったが、三宮で阪神大震災に遭い、神戸から京都へ移動することができず、泣く泣くキャンセルの電話を入れた思い出がある。残念ながら今回もこちらに宿泊する予定を組むことができなかった。またいつか機会があれば一度訪れてみたいと思う。ホテルフジタ京都の敷地の北端に、藤田伝三郎の別邸 夷川邸が残されている。  藤田伝三郎は明治期の関西… ►続きを読む

 

島津創業記念資料館

 

島津創業記念資料館(しまづそうぎょうきねんしりょうかん) 2008/05/15訪問 島津創業記念資料館  善導寺の斜め前には国登録有形文化財の島津創業記念資料館が建つ。建物は明治27年(1894)竣工の北棟と明治21年(1888)竣工の南棟から構成される。  島津製作所の創設者である初代島津源蔵は天保10年(1839)に京都の醒ヶ井魚棚、現在の堀川六条付近で仏具師であった島津清兵衛の次男として生まれる。源蔵は万延元年(1860)21歳で木屋町二条に出店している。この時、家業の仏具師ではなく鍛冶工であったようだ。この地は高瀬川の終着点に近く、重要な流通拠点であった。京都府は殖産興業のため明… ►続きを読む

 

高瀬川源流庭苑

 

高瀬川源流庭苑(たかせがわげんりゅうていえん) 2008/05/15訪問 高瀬川源流庭苑 門の中ににある山縣有朋第二無鄰菴跡の碑  島津製作所の前には、現在は「がんこ 高瀬川二条苑」となっているが、かつてここには山縣有朋の第二無鄰菴があった。無鄰菴の項でも書いたように、山縣は普請道楽で造園好きとしても知られ、生涯で無鄰菴という名の邸宅を三つも造っている。 最初の無鄰菴は長州下関の草庵であった。閑静な場所に建てられ、隣家がない様から無鄰菴と名付けられた。 2番目は慶長16年(1611)、豪商・角倉了以によって作られた木屋町二条の鴨川近くの邸宅跡を明治24年(1891)に購入し、第二無鄰菴と… ►続きを読む

 

吉村寅太郎寓居址

 

吉村寅太郎寓居址(よしむらとらたろうぐうきょのあと) 2008/05/15訪問 吉村寅太郎寓居址の碑  木屋町通三条上るの武市瑞山先生寓居跡の碑が建つ金茶寮の南側隣地に、吉村寅太郎寓居址の碑がある。1階部分が道路から少しセットバックし、前庭のように設えられている中に置かれているため、少し見づらい状況になっている。また何故だか分からないが、狸の焼き物も置かれている。 この碑も含めて「吉村寅太郎」と書かれたものを多く見てきた。しかし自ら虎太郎という文字を多用していたと言われているので、ここでは虎太郎という表記を使う。  吉村虎太郎は天保8年(1837)土佐国高岡郡芳生野村(現在の高知県高岡郡… ►続きを読む

 

武市瑞山先生寓居跡

 

武市瑞山先生寓居跡(たけちずいざんせんせいぐうきょのあと) 2008/05/15訪問 武市瑞山先生寓居跡  木屋町通三条上るにある京料理・金茶寮の門前には、ちりめん洋服発祥の地 の碑とともに武市瑞山先生寓居跡の碑が建っている。先斗町通は三条通で終わっているため、木屋町通の東側にあるこの金茶寮は鴨川に面し、納涼床を売り物としている。この店のHP(https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na081.html : リンク先が無くなりました )には、この地に武市半平太が在洛中に滞在していた料亭・四国屋丹虎があり、その… ►続きを読む

 

桂小五郎・幾松寓居跡

 

桂小五郎・幾松寓居跡(かつらこごろう・いくまつぐうきょあと) 2008/05/15訪問 桂小五郎・幾松寓居跡  三条小橋から木屋町通を北に進むと大村益次郎卿遭難碑と象山先生遭難碑が高瀬川の西岸に建つ。丁度2つの碑の正面に料亭旅館幾松があり、その門前に桂小五郎・幾松寓居跡の碑がある。 弘化3年(1846)新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門し、剣術を学ぶ。嘉永元年(1848)元服して和田小五郎から大組士桂小五郎となる。これ以降、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始める。  小五郎は嘉永2年(1849)吉田松陰に出会い、兵学を学んでいる。この時期、松陰は長州沿岸の防備視察を行って… ►続きを読む

 

大村益次郎卿遭難碑

 

大村益次郎卿遭難碑(おおむらますじろうきょうそうなんひ) 2008/05/15訪問 大村益次郎卿遭難碑  三条小橋の東橋詰の「佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町」の道標に従い、木屋町通を進むと象山先生遭難碑の左脇に大村益次郎卿遭難碑が建つ。木屋町通から高瀬川を隔てた対岸、すなわち高瀬川の西岸の高台にある。高瀬川沿いには桜の木が植えられているので、桜の開花時期から新緑の季節に訪れると碑が隠れていて見えないかもしれない。前から象山先生遭難碑も含めて碑の近くに出る経路がないか対岸から探してみているが、どうも通行の許されるものは、無いらいしい。そのためこの2つの碑は木屋町通の歩道から眺めるも… ►続きを読む

 

象山先生遭難碑

 

象山先生遭難碑(しょうざんせんせいそうなんひ) 2008/05/15訪問 象山先生遭難碑  三条小橋の東橋詰に、「佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町」の道標が建つ。三条通と木屋町通の交差部分にあるため、多くの人の目に触れるものとなっている。私が初めてこの碑を見たのはかなり昔のことになるが、道標としてはかなり立派なものであったためか、この場所で暗殺が行われたと思い込んでいた。この碑は昭和10年(1935)老舗料亭・新三浦の白井凌三が建てている。御池通の先にある「象山先生遭難碑」が大正4年(1915)、その脇にある「大村益次郎卿遭難碑」が昭和9年(1934)に建立されている。年代的には、… ►続きを読む

 

池田屋騒動址

 

池田屋騒動址(いけだやそうどうのあと) 2008/05/15訪問 池田屋騒動址  三条通が高瀬川に交わる三条小橋から西に4軒目(空地があるので実質的には5軒目となる)、明治屋京都ビルディングの東隣の店先に池田屋騒動址の碑が建つ。訪問したときも店は閉じられ、管理地の看板が出ていた。確か以前訪れた時はパチンコ屋だったような記憶が残っている。碑のほかにも三条小橋商店街振興組合の設置した説明板が建てられていた。ここは現在、「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」となっていると聞く。なお店内には映画などの階段落ちのシーンで知られる7メートルの大階段とともに、東映の監修で当時の池田屋旅館の帳場が再現されている… ►続きを読む

 

本間精一郎遭難地

 

本間精一郎遭難地(ほんませいいちろうそうなんのち) 2008/05/15訪問 本間精一郎遭難地  四条通から高瀬川の流れを見ながら木屋町通を北に入る。三本目の橋が紙屋橋と呼ばれているように、高瀬川の西側は紙屋町、東側は下樵木町となっている。現在、紙屋橋の正面にはガレージと小さな木戸がある。その北側の小野という表札のかかる町家の脇に本間精一郎遭難地と書かれた碑が建つ。 本間精一郎は天保5年(1834)越後国三島郡寺泊で酢・醤油の醸造を営む「かくほん」という屋号の豪商の長男として生まれる。嘉永6年(1853)6月ペリーが4隻の軍艦を従えて浦賀に来航したのは、精一郎が20歳の時であった。 郷里… ►続きを読む

 

瑞泉寺

 

浄土宗西山禅林寺派 瑞泉寺(ずいせんじ) 2008/05/15訪問 瑞泉寺 秀次の墓所  三条通から木屋町通に入った所に瑞泉寺がある。木屋町三条の歓楽街の真ん中にある寺院であるが、境内は嘘の様に静寂である。 瑞泉寺 関白の墓所とは思えないほど小さな山門 瑞泉寺 提灯には政権担当者の紋章である五七桐  天正14年(1586)豊臣秀吉は奈良の東大寺に倣い大仏建立を開始した。文禄4年(1595)には、ほぼ大仏殿方広寺が完成し高さ6丈(約18メートル)の木製金漆塗座像が安置された。しかし翌慶長元年(1596)畿内を襲った大地震のため大仏は大破、そして秀吉も慶長3年(1598)に死去す… ►続きを読む

 

高瀬川

 

高瀬川(たかせがわ) 2008/05/15訪問 高瀬川 一之舟入  高瀬川は慶長19年(1614)に、京都の中心部と伏見を結ぶために角倉了以・素庵父子が開削した運河である。高瀬川の名前は、輸送に使われた平底の舟を高瀬舟と呼んでいたことから付けられたものであり,角倉川ともいわれていた。 角倉家は室町幕府に仕える医者の家系であったが、了以の祖父・宗忠が商人の手腕を発揮し、帯を独占的に販売する組合である帯座の座頭職を手に入れ、その資金をもとに現在の金融業である土倉業を営むようになった。その後、次男の宗桂は土倉業を引き継ぐ傍ら、天文年間に2度も明に渡り、中国の先進医術を学んでいる。 角倉了以は天… ►続きを読む

 

原了郭

 

原了郭(はらりょうかく) 2008/05/15訪問 原了郭 既に店を閉めた後 2008年5月12日撮影  四条大橋を渡り、八坂神社に向う四条通の北側、有名な一力茶屋の斜め向かいに原了郭の店舗がある。それほど間口の広くないビルの1階の片隅に入った店舗であるため、四条通を探しながら歩いても通り過ぎてしまうことがある。ビル名称が祇園了郭ビルとあるので、自社ビルなのかもしれない。実際に何回か四条通を東西に行き来した記憶がある。またこの店は木曜定休日なので、時々定休日に訪れ、店を見つけることが出来なかったのかもしれない。今回も訪問日が木曜日だったので、お土産は四条河原町の京都高島屋の地下売場で購入… ►続きを読む

 

祇園・先斗町の町並み

 

祇園・先斗町の町並み(ぎおん・ぽんとちょうのまちなみ) 2008/05/12訪問 祇園  都ホテルから三条通を西に歩き、鴨川を渡り、橋詰を南に下ると先斗町に入り込む。夕食の店を探しながら細い道を2往復した。夕食後、祇園界隈を散策する。 先斗町 三条橋から鴨川沿いの川床を眺める 先斗町 先斗町 先斗町 先斗町 先斗町 石畳の道は細いが行き交う人は多い 先斗町 先斗町 先斗町 先斗町 先斗町 川床納涼床は5月から始まる 先斗町 四条橋より川床を眺める  先斗町は鴨川と木屋町通の間にある花街で、町と付くが正式な地名ではない… ►続きを読む

 

平安神宮神苑

 

平安神宮神苑(へいあんじんぐうしんえん) 2008/05/12訪問 平安神宮神苑 臥龍橋  平安神宮神苑への入口は、白虎楼の翼廊にある。一歩くぐり戸の中に入ると、大都市の中心にある庭と思えないほどの自然と静けさが満ち溢れている。神苑は築庭からまだ百年程度の庭であるが、樹木や池泉は完全に自然の一部となっている。 平安神宮神苑 入口  約10,000坪の神苑は4つの庭に分かれる。拝観順路に従うと大極殿の東側の南神苑から西神苑へ、そして西側の中神苑から東神苑の順に巡ることとなる。この4つの庭にはそれぞれ池泉があり、異なった性格に仕上げられている。この庭は七代目小川治兵衛が明治28年(18… ►続きを読む

 

平安神宮

 

平安神宮(へいあんじんぐう) 2008/05/12訪問 平安神宮 大極殿 手前に龍尾壇が見える  満願寺から冷泉通を西に歩き平安神宮の東南角に出る。文子天神の後ろにクレーンが見えているように、このあたりはマンションあるいは宿泊以外の目的のホテルが建ち並び、東山側の邸宅、別荘、企業・団体の保養所ということから変わりつつあるようだ。 旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。 平安神宮 応天門 平安神宮 応天門より見た大鳥居  京都にとって平安神宮は新しく造られた神社といっても良いだろう。平安神宮の公式HP(http://www.heianjingu.or.jp/01/… ►続きを読む

 

満願寺

 

日蓮宗 満願寺(まんがんじ) 2008/05/12訪問 満願寺 山門  白河院から1ブロック、北西100メートルの場所に満願寺がある。ここは観光寺ではなく、自由に境内に入れる。山門をくぐると正面に大きな本堂があり、その本堂の前左手に文子天神、右手に閼伽井がある。 山門を見れば分かるように満願寺の山号は示現山、日蓮宗に属する寺院である。 寺伝によると天慶3年(940)多治比文子が菅原道真の霊夢を感じ、北野朝日寺の僧最珍を開基に請じて西ノ京北町に堂宇を建立し、道真自作の天満自在天像を安置したことに始まる。 満願寺 文子天神  多治比文子は生年も没年も不詳の平安時代中期の女性である。童女… ►続きを読む

 

白河院

 

白河院(しらかわいん) 2008/05/12訪問 白河院 庭園  洛翠を出て、白川通から二条通に入り、1ブロック西に進むとこけら葺屋根に瓦を載せた大門が現れる。ここが白河院の表門である。車止めがあるため、左側の建物に入り、庭園の拝観を申し出る。 白河院 大門  この藤原氏の氏長者である藤氏長者として良房の7代目にあたる藤原師実の時に、この別荘地は白河天皇に献上された。師実は藤原氏絶頂期である藤原道長の孫、平等院を建立した頼通の子にあたる。師実は養女の賢子を白河天皇に入内させ、敦文親王と善仁親王が産まれたことから後宮政策は成功を収めた。その後、善仁親王への皇位継承(堀川天皇)において… ►続きを読む

 
 

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