徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:洛東

是枝柳右衛門の寓居

 

是枝柳右衛門の寓居(これえだりゅうえもんのぐうきょ) 2009年12月10日訪問 是枝柳右衛門の寓居 GoogleMapより  田中河内介の寓居 その4では臥龍窟の凡その場所を推定してみた。この臥龍窟には多くの有志が訪れたことが伝えられている。そして寺田屋事件の発生した夜、ここに薩摩の是枝柳右衛門が居たことから京での寓居とされる。 文久2年(1862)4月23日の夜、すなわち田中河内介が計画した義挙を実行するはずだった夜、伏見の寺田屋で薩摩藩の上意討ちが行われ、京都挙兵は行われなかった。この計画は既に書いてきたように、京で兵を挙げ関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸を襲撃、さらには青蓮… ►続きを読む

 

田中河内介の寓居 その4

 

田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その4 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 京都都市計畫圖より  田中河内介の寓居 その3では、田中河内介・左馬介父子、海賀宮門、千葉郁太郎、中村主計そして青水頼母の最期を記した。最後に川端通丸太町上ル東側にあった臥龍窟と維新後の田中河内介の扱われ方について書いてみる。 豊田小八郎著の「田中河内介」(河州公顕頌臥龍会 1941年刊)によると田中河内介は度々転居していた。嘉永3年(1850)頃と考えられている書簡には4月朔日を以って寺町五条上ルに転居したことが記されている。高瀬川に臨み、比叡、東山を望み、二階を臨川楼と号したようだ… ►続きを読む

 

田中河内介の寓居 その3

 

田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その3 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 GoogleMapより  田中河内介の寓居 その2では、寺田屋事件発生後の薩摩藩の対応について田中河内介一党以外について記してみた。ここでは河内介等の最期を描いてみる。 寺田屋事件に関わった薩摩藩士の本国への移送、そして真木和泉の列の久留米藩への引渡しがすむと田中河内介等の処遇を残すのみとなる。田中河内介・左馬介父子と千葉郁太郎、中村主計、海賀宮門は薩士21名、監察4名と多数の足軽に警固され、大阪から日向細島までは海路、それより陸路で鹿児島に向かうこととなった。  左馬介は弘化2年(1… ►続きを読む

 

田中河内介の寓居 その2

 

田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その2 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 豊田小八郎著「田中河内介伝」より  田中河内介の寓居では、安政の大獄が始まるまでの河内介の暮らしぶりについて記してきた。特に梁川星巌、梅田雲浜そして頼三樹三郎に対する人物評を読むと、「性、狷介、自らに恃むところ頗る厚く」という言葉を思い浮かべざるを得ない。ここでは安政の大獄以降、寺田屋事件の勃発から大久保一蔵達が行った後始末までを眺めて行く。 安政の大獄が執行された安政5年(1858)から文久元年(1861)にかけて、田中河内介は西国の各藩を廻り多くの志士と連絡を取っていた。豊田小八郎… ►続きを読む

 

田中河内介の寓居

 

田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ) 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 GoogleMapより  石碑や駒札もないため、その正確な場所は特定できないものの、川端通丸太町上ルには梁川星巌の鴨斤小隠とともに田中河内介の寓居・臥龍窟があった。石田孝喜氏の著書「幕末京都史跡大事典」(新人物往来社 2009年刊)の左京区の18番目に梁川星巌邸跡が採り上げられている。その2つ前では田中河内介宅跡について記述している。また京都市教育会の主要人物であり、京都の幕末史の先駆者でもあった寺井萬次郎の「京都史蹟めぐり」(西尾勘吾 1934年刊)でも左京区の部の6番目に贈正四位 梁川星… ►続きを読む

 

梁川星巌邸址 その2

 

梁川星巌邸址(やながわせいがんていあと)その2 2009年12月10日訪問 梁川星巌邸址 2011年6月18日撮影  安政4年(1857)10月、梁川星巌は8年暮らした川端丸太町から、東三本木の貸家に居を移し鴨沂水荘と称している。この項では若干脱線するが、三本木に移り住んだ後の星巌と紅蘭、そして鴨沂水荘の変遷について書いていくこととする。  伊藤信著の「梁川星巌翁 附紅蘭女史」によると、 庭中怪松あり。因りてまた老龍庵と名づく。(但し老龍庵の名は丸田町の宅に住せし時にも之を用ひたり)もと中島棕隠の寓せし所にして、頼山陽が修史の亭(山紫水明処)とも相隣り、鴨水叡嶽の勝を一欄に収め、風煙絶佳… ►続きを読む

 

梁川星巌邸址

 

梁川星巌邸址(やながわせいがんていあと) 2009年12月10日訪問 梁川星巌邸址  立命館草創の地の碑から山紫水明処の前を通り丸太町通に戻る。そして丸太町橋を渡り左京区に入る。昭和47年(1972)から始まった三条・出町柳間の地下化工事は、平成元年(1989)に完成し現在では京阪鴨東線として営業している。川端通の下を京阪電車が走ることで京都の南北間の輸送力を飛躍的に増強させ、自動車による地上の交通緩和に大いに寄与している。それは鴨川とその奥の東山の景観美化の上でも大きな貢献を果たしている。 川端丸太町の交差点は、京阪鴨東線 神宮丸太町駅の地上出入口以外には特に目立ったものもない、ごく普… ►続きを読む

 

建仁寺 両足院

 

建仁寺 両足院(けんにんじ りょうそくいん) 2008年11月22日訪問 建仁寺 両足院 書院前庭  金戒光明寺大方丈の東庭 紫雲の庭を後にして、次に予定していた清水寺成就院を目指す。本来ならば山門を潜り春日北通に面した高麗門を通るところだが、放生池の南側から真宗大谷派岡崎別院と岡崎神社の間の坂道を下る。突き当たった丸太町通を東に進み、天王町の交差点辺りでタクシーを見つけ乗車する。予め運転手さんより、清水寺の周辺は人混みが凄く近くまでは行けないとの断りがあったが、ともかく五条大橋をわたり進めるところまでお願いした。車は東大路通を通り過ぎ、鴨川沿いの川端通を南下する。五条通に入ると、車はな… ►続きを読む

 

金戒光明寺 紫雲の庭

 

浄土宗大本山 紫雲山 金戒光明寺 紫雲山の庭(こんかいこうみょうじ しうんのにわ) 2008年11月22日訪問 金戒光明寺 紫雲の庭  真如堂から金戒光明寺へと続く道の東側には会津藩殉難者墓地、そして西側にはその墓地を管理している西雲院がある。これを過ぎると金戒光明寺の巨大な墓地の中に入っていく。東側の高台の上には三重の文殊塔が聳える。 金戒光明寺 墓地の中の参道 金戒光明寺 紅葉の墓地  現在は宅地化が進み判然としない状態となっているが、吉田神社のある吉田山から真如堂を経由して金戒光明寺に至る一帯は、白川通を挟んでいる西側の東山系の先端が、平坦な吉田、岡崎に延びてきたように… ►続きを読む

 

金戒光明寺 西雲院

 

金戒光明寺 西雲院 (こんかいこうみょじさいうんいん) 2008年11月22日訪問 金戒光明寺西雲院  真如堂から金戒光明寺の境内に入り、御影堂へと続く道の途中に会津藩殉難者墓地がある。道の東側に墓地、そして西側の塀の中が金戒光明寺の塔頭である西雲院の境内となっている。また会津藩殉難者墓地自体も西雲院の墓地の一部である。 西雲院の開山である宗厳は天正3年頃(1575)朝鮮に生まれたとされている。文禄・慶長の役の時に秀吉の家来小野木重勝に捕らえられ、日本に渡っている。その後、蜂須賀正勝(小六)の長男である家政が宗厳を北政所に献上し、北政所の命により滝川雄利の娘の使用人となっている。大変器量… ►続きを読む

 

会津藩殉難者墓地 その2

 

会津藩殉難者墓地 (あいづはんじゅんなんしゃぼち) その2 2008年11月22日訪問 会津藩殉難者墓地  真如堂から金戒光明寺の境内につながる道の左側に会津藩殉難者墓地がある。 金戒光明寺にある会津藩殉難者墓地は、坂本龍馬や天誅組の祀られている霊山墓地と違い、訪れる人も疎らで永久の眠りを護る静寂さを常に保っている。前の道は真如堂から金戒光明寺へ抜ける裏道になっているので、ある程度の数の人が行き交っているが、この墓地内で人に出会うことは少ない。恐らく明治維新史に名を留めることのない無名の人々の墓であること、そして旧幕府軍として鳥羽伏見で戦い、敗れ去った人々の慰霊の場であるからかもしれない… ►続きを読む

 

真正極楽寺 その2

 

天台宗鈴聲山 真正極楽寺 (しんしょうごくらくじ) その2 2008年11月22日訪問 真正極楽寺  櫻本陵から、再び哲学の道に戻り、そのまま東に進む。鹿ケ谷通と白川通を横断すると次第に上り坂になってくる。そのまま進むと、北側から真如堂の境内に入っている。紅葉の名所だけに、やや盛りを過ぎているものの人出は多い。今回は金戒光明寺へ急ぎ、本堂の前を通り西雲院へ出ることとする。 真正極楽寺 白川通からの坂道  真如堂は本堂を意味する言葉で、本来の名称は、鈴聲山 真正極楽寺という天台宗の寺院である。永観2年(984)比叡山の僧である戒算が比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を一条天皇生母である東三… ►続きを読む

 

白川

 

白川 (しらかわ) 2008年05月20日訪問 白川 有済橋の傍らに建つ「なすありの径」の碑  祇園新橋を流れる白川は、比叡山と如意ヶ岳の間に位置する滋賀県大津市山中町の山麓にその源を発している。この周辺の谷の流れを集めて、北白川中山町、琵琶町そして地獄谷町あたりで白川の流れとなり、志賀越道に沿って下る。北白川仕伏町あたりで京都盆地に姿を現す。慈照寺(銀閣寺)の手前で琵琶湖疏水の上を交差した白川は今出川通の下を潜り、白沙村荘橋本関雪記念館の西側を廻り込む。その後、哲学の道と琵琶湖疏水と並行に南に下っていく。天王町を越え、岡崎の織寶苑の辺りで白川通に沿って南下するが、琵琶湖疏水記念館の手前… ►続きを読む

 

祇園新橋の町並み その3

 

祇園新橋の町並み (ぎおんしんばしのまちなみ) その3 2008年05月20日訪問 祇園新橋の町並み 2008年5月15日撮影  まだまだ祇園新橋の写真が残っていますので掲載します。祇園新橋の成り立ちについては、祇園新橋の町並みをご参照ください。 祇園新橋の町並み 辰巳大明神へ続く切通し 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み 白川に架かる巽橋 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み 巽橋から下流側を眺める 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み 新橋通沿いの町並み 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み 2008年5月15日撮影 祇… ►続きを読む

 

祇園新橋の町並み その2

 

祇園新橋の町並み (ぎおんしんばしのまちなみ) その2 2008年05月20日訪問 祇園新橋の町並み 辰巳大明神の緑と朱色が町並みを活性化している  まだ祇園新橋の写真が残っていますので掲載します。祇園新橋の成り立ちについては、祇園新橋の町並みをご参照ください。 祇園新橋の町並み 巽橋の東にある新橋 太く短いため橋とは感じられないかもしれない 祇園新橋の町並み 新橋からの白川の上流の眺め 祇園新橋の町並み 辰巳大明神 祇園新橋の町並み 祇園新橋の町並み 祇園新橋の町並み 町の中のお社 祇園新橋の町並み 祇園新橋の町並み 本2階建町家塀造… ►続きを読む

 

祇園新橋の町並み

 

祇園新橋の町並み (ぎおんしんばしのまちなみ) 2008年05月20日訪問 祇園新橋の町並み 辰巳大明神と町家  一力亭の角で四条通の北側に渡る。祇園新橋に向かうのには、花見小路通から行くのではなく、一本西側の細い道を北に上るほうが、祇園の風情を感じられて良い。花見小路通は飲食店の入ったビルが立ち並び、新宿の歌舞伎町とほぼ変わらない風景になっている。 祇園新橋の町並み いづう 2008年5月15日撮影 祇園新橋の町並み いづう 2008年5月15日撮影  天明元年(1781)創業の鯖寿司で有名ないづうの店の前を過ぎる辺りから祇園新橋に近づいていくという感じが強くなる。3階建て… ►続きを読む

 

祇園の町並み その3

 

祇園の町並み (ぎおんのまちなみ) その3 2008年05月20日訪問 祇園の町並み 四条通に面した一力亭  最終日の朝、八坂神社脇のホテルをチェックアウトし、荷物を持ったまま修学院離宮などがある洛北を目指す。修学院離宮の決められた拝観時間より少し早めにホテルを出て、市営地下鉄・東山駅に向うが、その途中で朝の祇園を見学する。前日の夜半の雨も早朝には上ったものの雲の流れは速く、本日の天気はどのようになるか定まらない。祗園の石畳は昨晩の雨のお陰で綺麗に洗われている。一力亭を中心とする四条通の南側の祇園を歩く。 祇園の町並み 四条通花見小路下る  上七軒でも触れたように、京都の花街は現在… ►続きを読む

 

祇園の町並み その2

 

祇園の町並み(ぎおんのまちなみ) その2 2008年05月18日訪問 祇園の町並み 夜の辰巳大明神 祇園の町並み 鴨川の西岸に建つ東華菜館  四条河原町から四条通を東に進む。近江屋 その3で触れた鳥新は、高瀬川の東詰めにあったと言われている。慶応3年(1867)11月15日の夜、坂本龍馬は近江屋から峯吉に軍鶏を買いに行かせている。おそらく往復で30分もかからない場所にあるこの店から戻ると既に事件は終わっていた。その先には東華菜館の装飾的な建物が現れ、四条大橋へとつながる。この一見4階建てに見える建物は、当時流行していたビアホールとして大正15年(1926)ヴォーリズによって設計さ… ►続きを読む

 

近江屋跡 その3

 

近江屋跡(おうみやあと) その3 2008年05月18日訪問 近江屋跡 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地の碑  再び話しを坂本龍馬と近江屋に戻す。 慶応3年(1867)11月15日を再現してみる。  近江屋跡 その2で触れたように越前藩から帰京した龍馬は、河原町三条の酢屋へ戻る。材木業を営む酢屋は、角倉家より高瀬川の木材独占輸送権を得ていたことより、伏見・大坂への連絡や高瀬川沿いの各藩邸へ折衝の拠点とするには適していた。海援隊京都本部が酢屋に置かれたことで、陸奥宗光、長岡謙吉等数多くの土佐藩士が投宿している。その後、土佐藩邸と河原町通を挟んだ場所で醤油商を営む近江屋・井口新助邸へ移る。この時期… ►続きを読む

 

近江屋跡 その2

 

近江屋跡(おうみやあと) その2 2008年05月18日訪問 近江屋跡 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地の碑  船中八策の全てが龍馬のアイデアではない。文久2年(1863)幕府総裁職に就任した松平春嶽のために、横井小楠が幕政改革の方針を国是七条により定めている。船中八策はこの国是七条に強い影響を受けている。そして龍馬も推奨した公議会論は慶応4年(1868)越前藩士由利公生による五箇条の御誓文の草案へとつながっていく。現在、船中八策の作者が坂本龍馬であること事自体にも疑いが持たれている。確かに龍馬の手による船中八策が発見されていないため証明することはできない。そういう意味でも、この時代のある範囲… ►続きを読む

 
 

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