徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:京都府

平安京の条坊

 

平安京の条坊(へいあんきょうのじょうぼう) 平安京の条坊 平安神宮 2008年5月12日撮影  嵯峨野の町並み その6から、京都御所 その3にかけて、葛野郡、乙訓郡、紀伊郡そして愛宕郡の条里プランと平安京の条坊について書いてきた。大体の大きさと位置を再現してみるつもりで作成したため、地図(GoogleMap)に落としてみると、かなりズレが生じていることに気がついた。勿論当初は軽い気持ちで作り始めたのだが、いざ出来上がると今度は精度も気になってくる。特に京都の中心部の平安時代の遺跡について考える時、もう少し精度の良い条坊の再現を行わなければならないと感じた。しかし地図を作り直す時間が取れず… ►続きを読む

 

京都御苑 厳島神社

 

京都御苑 厳島神社(きょうとぎょえん いつくしまじんじゃ) 2010年1月17日訪問 京都御苑 厳島神社  白雲神社、宗像神社に続き京都御苑内三つ目の神社として厳島神社について書く。厳島神社は宗像神社のさらに南、九条家の庭園の傍らに建つ。主祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神、そして祇園女御を配祀する。配祀神はもともと平清盛の母の霊であったが、後にその姉の祇園女御に変えられと考えられている。 応保2年(1162)2月に平清盛は日宋貿易の拠点として、摂津国兵庫津の大輪田泊の前面に防波堤となる築島に着手するが、同年8月の大風によって破壊される。翌長寛元年(1163)3月に工事を再… ►続きを読む

 

京都御苑 宗像神社

 

京都御苑 宗像神社(きょうとぎょえん むなかたじんじゃ) 2010年1月17日訪問 京都御苑 宗像神社  白雲神社に続く京都御苑内の神社として宗像神社を取り上げる。宗像神社は白雲神社からさらに南に下り、賀陽宮邸と出水の小川そして下立売御門を過ぎた左手の植栽の中にある。 主祭神は宗像三女神である多紀理毘売命、多岐津比売命、市岐嶋比売命の三柱で、倉稲魂神と天岩戸開神の2柱を配祀する。かつて花山院家の鎮守神であったが、もともとは桓武天皇の勅命により、藤原冬嗣が東西両市の守護神として宗像神を勧請したが、自邸である小一条院内に遷し祀ったとされている。藤原冬嗣は人臣初の摂政となった藤原良房の父にあた… ►続きを読む

 

京都御苑 白雲神社

 

京都御苑 白雲神社(きょうとぎょえん しらくもじんじゃ) 2010年1月17日訪問 京都御苑 白雲神社  京都御苑内の3つの井戸に続いて、3つの神社について記す。 京都御所の南西隅の目印、清水谷家の椋から南に下ったところに西園寺家跡がある。その南側、丁度出水通の延長線上に白雲神社が位置する。 京都御苑 白雲神社 西園寺家址 京都御苑 白雲神社 西園寺家址  白雲神社は旧西園寺家の鎮守社で祭神は市杵島姫命。市杵島姫命は宗像三女神の一柱で、天照大神と建速須佐之男命が誓約を交わした際に生まれたとされている。後に仏教の弁才天と習合し、神仏習合思想の一つである本地垂迹において同神とされ… ►続きを読む

 

京都御苑 祐ノ井

 

京都御苑 祐ノ井(きょうとぎょえん さちのい) 2010年1月17日訪問 京都御苑 祐ノ井  縣井、染殿井に続き京都御苑内三つ目の井戸として祐ノ井を訪ねる。御所の東北角の猿ヶ辻については後で紹介するとして、祐ノ井はその猿ヶ辻のさらに北東にある。木村幸比古氏監修の「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊)を見ると、今出川御門から石薬師御門の間の公家町には、桂宮、一乗院宮、河端、鷲尾、中山、滋野井、藤波、樋口などの名前が並ぶ。この内の中山は中山慶子の父である中山忠能の邸宅があった場所で、今に祐ノ井が残る地となっている。 京都御苑 祐ノ井 中山邸址  中山慶子は天保6年(1836… ►続きを読む

 

京都御苑 染殿井

 

京都御苑 染殿井(きょうとぎょえん そめどのい) 2010年1月17日訪問 京都御苑 染殿井  縣井に続き京都御苑内に残る井戸として京都迎賓館の東側にある染殿井を取り上げる。井戸の傍らに建てられた案内板の説明は、かつてこの地にあった染殿第が中心となっている。その末尾に ここにある井戸の遺構が「染殿井」と呼ばれているのも、かつての染殿第にちなんだものでしょう。 と井戸の来歴に少し触れている。この井戸が染殿第の頃から使われてきたかは、どうも明らかではないようだ。  駒札にもあるように染殿第は、人臣として初めて摂政となった藤原良房の邸宅のことである。良房は藤原北家・藤原冬嗣の二男として延暦23… ►続きを読む

 

京都御苑 縣井

 

京都御苑 縣井(きょうとぎょえん あがたい) 2010年1月17日訪問 京都御苑 縣井  京都御所成立の歴史と御所内構六門について記してから、3か月の時が経てしまいました。2008年に京都を訪れて以来の長い休暇を、この秋に再び得ることができました。今まで訪れることができなかった場所などを巡る旅を10日分計画するなど準備作業に忙しかったため、ブログの更新が全くできませんでした。どのような準備を行い、どこを歩いたかについては追々書いてゆくつもりですが、なにせまだ2010年のことを書くのに精一杯であるため、2014年のことを記せるのは相当先のこととなるでしょう。  現在の京都御苑は京都御所とそ… ►続きを読む

 

京都御所 その7

 

京都御所(きょうとごしょ)その7 2010年1月17日訪問 京都御所 建礼門  京都御所 その6では、御所の九門について記した。かつては御所とともに、その周囲に並ぶ公家町を守るために設けられた門であったが、明治に入り公家町が取り壊された後は京都御苑の門となった。そのためか、かつては御所の近くに設けられた蛤御門や清和院御門も、現在では全て四周を取り囲む今出川通、烏丸通、丸太町通そして寺町通に面する位置に移されている。この項では御所の築地塀に設けられた六門について書いてみる。これは、この後に記す甲子戦争すなわち禁門の変の際に、九門とともに位置関係が分からないと理解できなくなるためである。 平… ►続きを読む

 

京都御所 その6

 

京都御所(きょうとごしょ)その6 2010年1月17日訪問 京都御所 今出川御門  京都御所 その3、その4、そして その5を使って、平安京の内裏から幕末の御所までの変遷を書いてきた。御所の領域の拡大に伴い、仙洞御所あるいは女院御所の位置に影響を与え、御所を取り巻く公家町にも当然のことながら大きな変化を与えてきた。 京都御所 今出川御門  宝永5年(1708)3月8日に京都の三大大火のひとつである宝永大火が発生している。午の下刻に油小路通三条上ルより出火、南西の風に煽られ、内裏・仙洞・女院・東宮・中宮・女一宮などの御所が炎上している。また九条家・鷹司家をはじめとする公家の邸宅や寺院… ►続きを読む

 

京都御所 その5

 

京都御所(きょうとごしょ)その5 2010年1月17日訪問 京都御所 建礼門  京都御所 その4では、徳川幕府による慶長度造営から6回目となる宝永度造営までを記した。最初の慶長・元和度造営から2回目の寛永度造営までは、後水尾院と徳川幕府の間の政治的な駆け引きの中で行われた造営と考えてもよいだろう。この時期の内裏は、豊臣秀吉による天正度造営の内裏とほぼ同じ規模であったと考えられる。 この後、僅か20年の間に内裏は3度立て続けの火災に見舞われる。寛永19年(1642)の完成後10年余の承応2年(1653)6月23日に内裏は焼失している。3度目の承応度造営が承応3年(1654)3月12日の木作… ►続きを読む

 

京都御所 その4

 

京都御所(きょうとごしょ)その4 2010年1月17日訪問 京都御所 南西隅  京都御所 その3では、延暦13年(794)の平安京造営時の内裏から、安土桃山時代の内裏までの変遷について見てきた。内裏が火災などで焼失した際には、大内裏の官衙、京中の後院そして公家邸宅を仮御所として利用している。内裏は天徳4年(960)9月23日夜に炎上している。この時も内裏が再建されるまで仮御所が定められた。罹災と内裏再建を繰り返す中で、公家邸宅の仮御所が内裏に準ずるものとなり、平安京の里坊内に里内裏が生まれるようになっていく。 内裏の再建は平安時代の間は行われてきたが、鎌倉時代に入った安貞元年(1227)… ►続きを読む

 

京都御所 その3

 

京都御所(きょうとごしょ)その3 2010年1月17日訪問 京都御所 建礼門  本日は京都の中心である京都御所の周辺を歩くこととする。今回の訪問予定に京都御所や仙洞御所の拝観を含んでいないので、なるべく多くの時間をかけて京都御苑内を見ていきたい。特に幕末の堺町門の変すなわち八月十八日の政変と甲子戦争(禁門の変)の現場でもあるので、文久3年(1863)から元治元年(1864)にかけての歴史の転換点を頭に入れて歩こうと思う。 (https://visual.information.jp/Map/MapPos900-900.htm?35.005826651632065 ?135.7426339… ►続きを読む

 

嵯峨野の町並み その9

 

嵯峨野の町並み(さがのまちなみ)その9 2009年12月20日訪問 2009年12月20日訪問 嵐山花灯路2009 落柿舎  貞和3年(1347)に夢窓疎石が裏書したことにより、「大井郷界畔絵図」は天龍寺と臨川寺が対立することなく、臨川寺領を維持できるようにその寺領を朱線で囲んで示したことが分かる。その寺領はかつての河端殿だけではなく、南は大堰川の右岸、西は法輪寺橋、北は造路、東は造路が分岐する先までと描かれている。つまり東南隅に臨川寺領、南西隅から北西隅に天龍寺領、そして東北隅から中心にかけてが釈迦堂領と大覚寺領という構成になっている。このように絵図に描かれている範囲が「亀山殿近辺指図… ►続きを読む

 

嵯峨野の町並み その8

 

嵯峨野の町並み(さがのまちなみ)その8 2009年12月20日訪問 2009年12月20日訪問 嵐山花灯路2009 常寂光寺  嵯峨野の町並み その6では、平安時代初期の嵯峨野の開発と嵯峨院などの建立の経過について、そして葛野郡、乙訓郡、紀伊郡、愛宕郡の4郡の条里プランについて考えてきた。さらに、嵯峨野の町並み その7では、「延喜式」より平安京の条坊地割を導き出し、上記4郡の条里プランの上に乗せてみた。また嵯峨野の6ヶ里の地割だけが西側に16度傾いていることを示し、その理由と変更時期について考えた。 この項では鎌倉時代初期から室町時代初期にかけての嵯峨野における条里プランと景観の変遷につ… ►続きを読む

 

嵯峨野の町並み その7

 

嵯峨野の町並み(さがのまちなみ)その7 2009年12月20日訪問 2009年12月20日訪問 嵐山花灯路2009 大沢池  長岡京から平安京に遷都が決まると、4郡の条里プランの上に新たな40丈=400尺単位の条坊が作られることとなった。平城京の条坊が180丈と大きかったのに対して平安京では40丈とかなり小さくなっている。この条坊の大きさ以外にも2つの都城には大きな違いがあった。平安京の条坊が40丈の宅地部分に大路・小路の道路幅を足し合わせる形で作られている。つまり28丈の幅を持つ朱雀大路の西側に40丈の宅地があり、その西側に4丈の西坊城小路が作られている。朱雀大路の中心から西坊城小路の… ►続きを読む

 

嵯峨野の町並み その6

 

嵯峨野の町並み(さがのまちなみ)その6 2009年12月20日訪問 2009年12月20日訪問 大悲閣千光寺からの眺望  二尊院 時雨亭跡からの眺めは、残念ながら木々が密生しているためあまり良いものではなかった。恐らく展望台として整備していないためであろうが、そのような整備を行われずに今のままの姿であることを望む。 大悲閣千光寺からの眺望 比叡山と双ヶ丘 大悲閣千光寺からの眺望 双ヶ丘 大悲閣千光寺からの眺望 比叡山と仁和寺  この日は大悲閣千光寺、大河内山荘、常寂光寺、そしてこの二尊院と、少しづつ北に移動しながら眺望を見比べる楽しみがあった。特に大河内山荘から常寂光寺… ►続きを読む

 

二尊院 時雨亭跡

 

天台宗 小倉山 二尊院 時雨亭跡(にそんいん しぐれていあと) 2009年12月20日訪問 二尊院 時雨亭跡  二尊院の本堂の西側の斜面に墓地が広がる。この広い墓地の中で迷わないように、湛空上人廟の前に道標が建てられている。北側は角倉家墓地と三帝の塔、そして南側に進むと時雨亭跡に至る。この道標に従い、湛空上人廟の前から凡そ南側に5分弱歩くと、ぽっかりと開けた広場に出る。この間、さして上り道になっていなかったので、恐らく湛空上人廟とほぼ同じ標高にあったと思われる。建物の礎石と思われるものが数個残されており、説明板にはここが二尊院の時雨亭跡だと記している。GPSで確認すると、庫裏や書院のある… ►続きを読む

 

二尊院 その2

 

天台宗 小倉山 二尊院(にそんいん)その2 2009年12月20日訪問 二尊院 角倉家墓地  二尊院では、嵯峨天皇による創建から法然と九条家そして法然の弟子達による再興、そして応仁の乱の後の広明恵教と三条西実隆父子による再興について書いてきた。特に江戸時代に入ると、徳川家による寄進だけではなく、嵯峨の豪商角倉家が檀家となったことで寺運を一層興隆させている。 二尊院 西行法師庵の跡 紅葉の馬場の左側に建つ 二尊院 本堂と前庭・竜神遊行の庭 二尊院 本堂庭園  これに対して正徳元年(1711)の「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))… ►続きを読む

 

二尊院

 

天台宗 小倉山 二尊院(にそんいん) 2009年12月20日訪問 二尊院  落柿舎を出て、再び愛宕街道に戻り、北に向かって歩く。有智子内親王墓そして去来墓、西行井戸のある弘源寺墓地を過ぎると、二尊院の総門が現れる。 二尊院 紅葉の馬場から石段を眺める 二尊院  天台宗の寺院・二尊院の山号は小倉山。正式な名称は二尊教院華台寺という。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)には、創建についての2つの説を併記している。承和年間(834~47)に嵯峨天皇が慈覚大師に勅して創建したとする説。二尊教院は釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を本尊としたことに由来し… ►続きを読む

 

落柿舎 その3

 

落柿舎(らくししゃ)その3 2009年12月20日訪問 落柿舎  落柿舎 その2では、去来の落柿舎購入から芭蕉の三度の訪問について書いてきた。ここではその後の落柿舎について触れてみる。 向井去来は名を兼時、号を元淵と云う。去来は別号である。父の元升は肥前国長崎の儒者で、慶安4年(1651)次男として生まれ、万治元年(1658)8歳の時に京に移り住んでいる。飛鳥井家に仕え、儒学、暦学、射術を学ぶ。後年松尾芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。関西の俳諧奉行と称され、落柿舎に以下のような制札を掲げている。 一 我家の俳諧に遊ぶべし、世の理屈を言ふべからず一 雑魚寝には心得あるべし、大鼾をかくべからず一 … ►続きを読む

 
 

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