カテゴリー:京都府
泉涌寺 悲田院
泉涌寺 悲田院(ひでんいん) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 悲田院の山門 守脩親王墓、淑子内親王墓そして朝彦親王墓と賀陽宮墓地、久邇宮墓地を過ぎると泉涌寺の大門が現れる。既に何度か書いてきたように泉涌寺の境内は、この大門から東側へ下る形で広がっていく。悲田院へは、この大門の前を通り過ぎ総門へ向かう参道の途中、京都市立月輪中学校の手前を西側に入って行った先にある。 泉涌寺 悲田院 泉涌寺道から山門に至る参道 泉涌寺 悲田院 本堂と毘沙門堂 泉涌寺 悲田院 毘沙門堂 悲田院は本日拝観する泉涌寺の塔頭の最後になる。 1月の成人式の日に行われている泉山七福神巡りでは、… ►続きを読む
朝彦親王墓 その3
朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか)その3 2008年12月22日訪問 朝彦親王墓 安政6年(1859)12月7日に、退隠 永蟄居が加えられた朝彦親王は、12月11日に青蓮院を出て相国寺の塔頭桂芳軒に移り、獅子王院宮と名を変えて謹慎する。安政の大獄の処刑は安政6年(1859)10月27日の吉田松陰を以って終わる。そして翌万延元年(1860)3月3日の桜田門外の変で、井伊直弼は水戸藩と薩摩藩の脱藩浪士によって暗殺される。しかし朝彦親王の永蟄居が許されるのは、さらに先の文久2年(1862)4月30日まで待たねばならなかった。明らかに弾圧の首謀者がいなくなったにもかかわらず許されなかった2年… ►続きを読む
朝彦親王墓 その2
朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか)その2 2008年12月22日訪問 朝彦親王墓 朝彦親王は文政7年(1824)伏見宮邦家親王の第4王子として生まれている。朝彦親王も同様だが、父の邦家親王は17王子、15王女と現在では考えられないほど子宝に恵まれている。第1王子・山階宮晃親王(文化13年(1816)生まれ)、第2王子・聖護院宮嘉言親王(文政4年(1821)生まれ)、第3王子・曼殊院宮譲仁親王という兄達の母が藤木壽子であるのに対して、朝彦親王の母は青蓮院坊官・鳥居小路経親の長女信子である。坊官とは門跡寺院の家臣のなかで最上位の者であるため、卑賤の子と言うわけではない。伏見宮家は妃鷹司景… ►続きを読む
朝彦親王墓
朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか) 2008年12月22日訪問 朝彦親王墓 賀陽宮墓地と久邇宮墓地 雲龍院の拝観を終えて、泉涌寺の大門方向に歩いていくと、解脱金剛宝塔の南に賀陽宮墓地と久邇宮墓地がある。 文久3年(1863)の八月十八日の政変の政変後、一時尹宮と称していた中川宮朝彦親王は、翌元治元年(1864)に賀陽宮の宮号を賜っている。宮号は朝彦親王の宮邸として賜った京都御所南方の旧・恭礼門院の女院御所にあった榧の老木に由来すると言われている。明治元年(1868)朝彦親王が広島流謫された際に宮家は廃されるが、明治33年(1900)朝彦親王の第2王子である邦憲王によって宮家は再興され… ►続きを読む
泉涌寺 雲龍院 その2
泉涌寺 雲龍院(うんりゅういん)その2 2008年12月22日訪問 泉涌寺 雲龍院 書院庭園の全景 泉涌寺 雲龍院の項から書き始めた、室町幕府の開闢から雲龍院の創建にかけての40年間の政治情勢をもう少し続ける。 足利尊氏は南朝と和睦を結ぶという禁じ手を使用することで、一時的に足利直義討伐に勢力を集中することが可能になり、直義を降伏に追い込むことに成功する。しかしこの代償は大きかったのではないだろうか。尊氏は再び南朝方の攻勢に晒されるようになる。 北畠親房の指揮の下、東西で呼応して京と鎌倉の同時奪還を企て、正平7年(1352)2月に尊氏の征夷大将軍を解任し、後醍醐天皇の皇子・宗良親王を奉… ►続きを読む
泉涌寺 雲龍院
泉涌寺 雲龍院(うんりゅういん) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 雲龍院 山門 泉涌寺の大門を出る前に、参道の南側の分かれ道を入って行く。泉涌寺 その3で記したように経蔵や解脱金剛宝塔など見ながら東に進むと、雲龍院の2つの門が現れる。 泉涌寺 雲龍院 浴室脇から続く石段 泉涌寺 雲龍院 山門と表門が並ぶ 真言宗泉涌寺派は古義真言宗に属し、総本山は泉涌寺である。泉涌寺は密(天台・真言)・禅・律・浄の四宗兼学の道場として、俊芿が開創したことにより始まる。このような独自の宗風を保ち、さらに皇室の香華寺として護られてきたが、明治時代に入ると皇室による保護も無くな… ►続きを読む
泉涌寺 その3
真言宗泉涌寺派総本山 東山 泉涌寺(せんにゅうじ)その3 2008年12月22日訪問 泉涌寺 仏殿と舎利殿 泉涌寺の開山となる俊芿律師は、朝野の尊信が非常に厚く、後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇、後高倉上皇らのほか、大臣顕官の多くが大師に帰依し受戒されている。俊芿律師は泉涌寺竣工の翌年の嘉禄3年(1227)に亡くなっている。そして寛喜3年(1231)に生まれた四条天皇が、俊芿律師の生まれ変わりとされている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には下記のような記述が残されている。 天子の官寺となる事は、八十六代四条院を権輿とせり。此… ►続きを読む
泉涌寺 その2
真言宗泉涌寺派総本山 東山 泉涌寺(せんにゅうじ)その2 2008年12月22日訪問 泉涌寺 大門から仏殿を眺める 泉涌寺本坊の玄関を出て、仏殿、舎利殿を中心とする泉涌寺の伽藍を見ていく。 泉涌寺 参道 右手は大門に通じる 泉涌寺 大門 泉涌寺の起源について最初に現われて来るのは、天長年間(824~834)弘法大師が、この地に結んだ草庵である。この草庵が後の法輪寺となったとされている。このことは泉涌寺の塔頭の一つである今熊野観音寺や善能寺でも触れているように、数々の弘法大師にまつわる伝承が入り混じり、歴史として判別することが困難になっているようだ。今熊野観音寺の公式HPに… ►続きを読む
泉涌寺 本坊
泉涌寺 本坊(せんにゅうじ ほんぼう) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 本坊 御座所庭園 月輪陵の白砂を敷き詰めた前庭には御座所庭園とつなぐ木戸がある。その位置を確認した上で、再び勅使門の前を戻り、泉涌寺本坊に入る。 泉涌寺 本坊 霊明殿の唐門 泉涌寺 本坊 泉涌寺 本坊 泉涌寺本坊は、霊明殿、御座所そして海会堂の3つの建物とそれらをつなぐ御座所庭園によって構成されている。霊明殿は、四条天皇御尊像と御尊牌をはじめ、明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后の御真影と御尊牌、それ以前の天皇・后妃・親王方の御尊牌を奉安し、回向を行うための施設である… ►続きを読む
泉涌寺 月輪陵 その2
泉涌寺 月輪陵(つきのわのみささぎ)その2 2008年12月22日訪問 泉涌寺 月輪陵・後月輪陵 孝明天皇の後月輪東山陵の参拝を終え参道を下る。御陵はかなり高台に造られているため、御座所などの建物の屋根が眼下に見える。御陵参道の入口から、泉涌寺の舎利殿前の受付で拝観料を納め、泉涌寺の境内に入る。今回の訪問の時は心照殿が休館だったため、御座所を含めた本坊の拝観が自由であった。 とりあえず境内と本坊の拝観を後回しにして、月輪陵と後月輪陵の参拝に向かう。仏殿と舎利殿の北側を廻り、霊明殿の唐門を過ぎると月輪陵と後月輪陵へ続く木の門が現われる。 泉涌寺 後月輪東山陵参道からの眺め 泉涌… ►続きを読む
泉涌寺 後月輪東山陵
泉涌寺 後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 月輪東山陵 後堀川天皇の觀音寺陵の石段を下り、再び参道を進む。参道の終着点はかなり広い空間となり、トラックが2台止められていた。おそらく御陵の整備のためのものだろう。傍らには菊花の手水があった。月輪陵で見かけたものと同じ意匠のものだ。 泉涌寺 月輪東山陵 泉涌寺 月輪東山陵 後月輪東山陵には第121代孝明天皇が祀られている。 天保2年(1831)仁孝天皇の第4皇子・統仁親王として生まれている。兄の親王達がいずれも早世しているため、天保11年(1840)に立太子されている。弘化3年… ►続きを読む
泉涌寺 觀音寺陵
泉涌寺 觀音寺陵(かんおんじのみささぎ) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 觀音寺陵 来迎院の山門を出て石橋を渡り、左手の石段を登る。この来迎院と善能寺の敷地が、泉涌寺の境内に比べると谷筋にあることが分かる。すなわち泉涌寺が東山へと続く一様の斜面上ではなく、複雑な起伏の上に造られてきた。これがまた泉涌寺を散策する上で方向感覚を失う原因ともなっている。 泉涌寺 觀音寺陵 参道入口に建つ道標 泉涌寺 觀音寺陵 善能寺と来迎院の間の石段を登り切ると、目の前に泉涌寺の主要伽藍である仏堂と舎利殿が現れる。ここから中に入ると拝観料が必要になるので、觀音寺陵と後月輪東山陵の参拝を先に… ►続きを読む
泉涌寺 来迎院 その2
泉涌寺 来迎院(らいごういん)その2 2008年12月22日訪問 泉涌寺 来迎院 石橋と山門 善能寺の山門を出ると、目の前の谷に石橋が架かる。この橋の先に来迎院の山門が建てられている。 泉涌寺 来迎院 山門脇に建つ碑 ゆな荒神社と独鈷水が記されている 泉涌寺 来迎院 左手に本堂、正面に荒神堂への石段 泉涌寺 来迎院 右は独鈷水 大同元年(806)弘法大師が荒神像を安置したのが、来迎院の始まりとされている。唐で修行を行っていた弘法大師が感得した荒神尊の像を日本に持ち帰り、この来迎院の地に草庵を結び祀ったとされている。弘法大師が奉祀した400年後の建保6年(1218)… ►続きを読む
泉涌寺 善能寺 その3
泉涌寺 善能寺(ぜんのうじ)その2 2008年12月22日訪問 泉涌寺 善能寺 遊仙苑の鶴亀石 善能寺 その2で書いたように、善能寺は八条猪熊通にあり二階観音堂と呼ばれていた。そして弘仁14年(823)弘法大師が稲荷大明神を祀る寺として善能寺と号している。 泉涌寺 善能寺 本堂の祥空殿 泉涌寺 善能寺 三尊石 泉涌寺 善能寺 三尊石裏の築山 その後、 天文24年(1555)後奈良天皇により泉涌寺の護持院として今熊野観音寺の西北に移されている。そして明治維新を経て荒廃し、明治20年(1887)再興の時に現在の地に移される。もともとこの地には安楽光院という塔頭があった… ►続きを読む
泉涌寺 善能寺 その2
泉涌寺 善能寺(ぜんのうじ)その2 2008年12月22日訪問 泉涌寺 善能寺 山門 宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所の前を過ぎると、善能寺の白い塀が現れる。丸く曲げられた塀の角を越えると、左手に来迎院の山門と石橋、右手に善能寺の山門が見える。 泉涌寺 善能寺 塀の先に山門が見える 泉涌寺 善能寺 境内の角から振り返る 今熊野観音寺の鳥居橋が見える 善能寺は、もともと八条猪熊通にあり二階観音堂と呼ばれていた。偶然ではあるが、かつて戒光寺があった地と近い。そして弘仁14年(823)弘法大師が稲荷大明神を祀る寺として善能寺と号している。 泉涌寺 善能寺 泉涌寺 善能… ►続きを読む
宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所
宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所(くないちょうしょりょうぶ) 2008年12月22日訪問 宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所 奥に善能寺祥空殿の屋根が見える 今熊野観音寺の鳥居橋を再び渡る。この今熊野観音寺への参道と御寺泉涌寺霊園へと続く道、そして塔頭の善能寺と来迎院へ続く道の合流点まで戻る。ここから善能寺、来迎院を経由して泉涌寺の本坊へと向かう際に、宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所の前を通りかかる。 宮内庁書陵部書陵部では、皇室関係の文書・資料の管理と編修及び陵墓の管理が行われている。書陵部は図書課、編修課、陵墓課の3つの課と5つの区域にわけて陵墓を管理している陵墓監区事務所の4つの組織に… ►続きを読む
泉涌寺 今熊野観音寺
泉涌寺 今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 今熊野観音寺 本堂と多宝塔この構成が今熊野観音寺の現在の景観を作り出している 新善光寺の前の坂を上り、再び泉涌寺道を進む、右手に京都市立月輪中学校を見ながら進むと、目の前で道が三方向に分かれる。左は善能寺、来迎院と今熊野観音寺へ、中央は泉涌寺の本坊へ、そして右は泉涌寺の大門へと続く。左に折れた先にある赤い欄干の鳥居橋を渡り、さらに進むと今熊野観音寺の伽藍が見えてくる。 泉涌寺 今熊野観音寺 泉涌寺道から今熊野観音寺への入口 泉涌寺 今熊野観音寺 泉涌寺道から本坊への参道と大門への参道上の写… ►続きを読む
泉涌寺 新善光寺
泉涌寺 新善光寺(しんぜんこうじ) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 新善光寺 山門 戒光寺の山門の石段を下り、泉涌寺道を再び先に進む。本道から分かれて左に下っていく道の角に新善光寺の大きな白い道標が建つ。この坂道を下ったところに、新善光寺の山門が開いている。 泉涌寺 新善光寺 山門へと続く坂道 泉涌寺 新善光寺 泉涌寺 新善光寺 左手に泉涌寺の幼稚園がある 泉涌寺の公式HPに掲載されている新善光寺の起源は、寛元元年(1243)僧・値願念西が歓進し、後嵯峨天皇の御願寺として一条大宮の地に創建となっている。勅命によって大工藤井為行、小工沙弥教弘らが信州信濃善光寺本… ►続きを読む
泉涌寺 戒光寺
泉涌寺 戒光寺(かいこうじ) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 戒光寺 山門 法音寺の小さな山門を出る。柵の外側からであるが戒光寺の墓地の一部分にある禁裏御陵衛士墓所を先に参拝している。順番が逆になってしまったが、目の前の石段を上り戒光寺の山門を潜る。 泉涌寺 戒光寺 境内 鎌倉時代の安貞2年(1228)宋から帰朝した曇照忍律によって八条大宮の東、堀川の西に後堀川天皇の勅願所として創建されたのが起源とされている。 曇照は浄業とも呼ばれる鎌倉時代の律宗の僧で、文治3年(1187)に生まれている。近江の園城寺や奈良の諸寺で顕密二教を学ぶ。建保2年(1214)宋に渡り、鉄翁守一よ… ►続きを読む
泉涌寺 法音院
泉涌寺 法音院(ほうおんいん) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 法音院 山門 即成院の山門を出て、泉涌寺総門を潜る。50メートルも進まない内に左手の石段の上に戒光寺の山門、右手に法音院の小さな山門が現れる。先ず右手の法音院に入る。 法音院の公式HPには、鎌倉時代末期の嘉暦元年(1326)無人如導宗師によって泉涌寺山内に創建されるとある。無人如導は弘安8年(1285)あるいは翌年の9年に誕生したとされている。北野社に千日参りをされて霊告を得たことから出家している。応長元年(1311)北野社の神宮寺として東向観音寺を中興している。 また聖武天皇の妃である光明皇后が、まだ皇太子妃であっ… ►続きを読む