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足利将軍室町第址



足利将軍室町第址(あしかがしょうぐんむろまちていあと) 2008/05/13訪問

画像
足利将軍室町第址 今出川通から室町通に入る北東の角に建つ

 京都御苑を今出川門から出て、烏丸今出川の交差点を渡る。今出川通から室町通に入る北東の角に大正4年(1915)京都市教育会が建立した碑が立っている。ここには

     「従是東北 足利将軍室町第址」

と記されている。ここが室町幕府 花の御所の西南の角に当たる。

 足利幕府の将軍の邸宅がどのように変遷して行ったかについては、「はむはむ」さんのブログ(http://djungarian.typepad.jp/weblog/2007/03/post_b777.html : リンク先が無くなりました )に詳細に記されている。こちらを参考させて頂き、さらに大まかにまとめると3つの時代に分けて考えることができる。
 第一に初代将軍足利尊氏とその弟直義、そして2代将軍義詮までの時代。
 後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動の令旨を受けて元弘の乱が始まる。正慶2年(1333)足利高氏らの攻撃により京の六波羅探題が消滅する。その後、尊氏は建武の新政と距離を置くように東国に戻る。再び建武3年(1336)4月25日の湊川の戦いで新田義貞、楠木正成軍を破り、6月には京都を制圧する。そして暦応元年(1338)尊氏は北朝の光明天皇から征夷大将軍に任じられる。しかし貞和4年(1348)京都奪還を目指して蜂起した南朝の楠木正行を四条畷の戦いで破った後も、戦乱は治まらず観応の擾乱と呼ばれる足利幕府内の内紛も発生している。
 六波羅探題を滅ぼした尊氏が最初に居を構えたのは、押小路高倉と考えられている。そして征夷大将軍となった6年後の康永3(1344)に土御門東洞院殿に移住している。京都御所の項で触れたように、元弘元年(1331)に先代の光厳天皇は土御門東洞院殿で即位している。尊氏は、北朝の天皇を護るため内裏の南に屋敷を築いたことが分かる。ところがこの屋敷は貞和5年(1349)3月に焼失してしまう。再建される間は一条今出川にある執事高師直の屋敷に身を寄せている。同じ年のうちに再建なった土御門東洞院殿も、観応の擾乱に対応するため京を離れた観応2年(1351)再び焼失してしまう。尊氏は延文3年(1358)二条高倉にあった二条万里小路第で亡くなった。 尊氏の弟である直義は三条高倉邸に住み「高倉殿」あるいは「三条殿」と呼ばれていた。太平記によると貞和5年(1349)8月13日高師直・師泰に追われた直義は尊氏邸に逃げ込んだことになっている。しかし「はむはむ」さんの記述では、土御門東洞院殿が焼失し、尊氏は一条今出川の高師直邸に住んでいたことになるので、このあたりは少し整理が必要かもしれない。この事件により直義は失脚、鎌倉より上京した尊氏の子の義詮が三条高倉邸に入り、直義の権限を引き継ぐこととなる。そして尊氏の死後、貞治4年(1365)三条高倉邸の東隣に三条坊門殿を新造する。尊氏の二条万里小路第が発展して三条坊門殿に至ったと考えると、その範囲については、北は二条大路、南は三条坊門小路、東は万里小路、そして西は高倉小路に囲まれた南北250メートル、東西120メートルの土地を占めていたと思われる。
 通りの並び順を平安京の名称で書くと、北から二条大路、押小路、三条坊門小路(現在の御池通)そして姉小路、西から東洞院大路、高倉小路、万里小路(現在の柳馬場通)そして富小路となる。土御門東洞院殿を除き、押小路高倉、二条万里小路第、三条高倉邸そして三条坊門殿という場所は、京都御苑の南ブロックのほんの狭い範囲 4×4町の16町に集中していることが分かる。

 貞治6年(1367)2代将軍足利義詮が病により死去すると、義満は10歳の若さで3代将軍となる。義満も三条坊門殿で暮らしていたが、永和4年(1378)に上京の北小路(現在の今出川通)室町に新しい屋敷の造営に着手する。
 京の町の東西は御所から南を向いて左京、右京と呼ばれるが、南北も二条大路を境に南を下京、北を上京とする。土御門東洞院殿を除くと足利義詮までは下京に邸宅とともに幕府の政庁を置いていたこととなる。当時の京は、ほぼ現在の京都御所の位置に内裏が置かれ、その周辺には公家たちの邸宅が並んでいた。そのため上京は公家の町、下京は商人の街という構図が出来ていた。北小路室町に邸宅を築くことは公家の街の中に武家が進出していく意味もあった。
 もともとこの地は、2代将軍足利義詮が、室町季顕からその邸宅である花亭を買上げた場所でもある。後に足利家より崇光上皇に献上され上皇の御所となったことにより花亭は「花の御所」と呼ばれるようになった。義満の時代になり、この崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地に室町第を造営した。永和5年(1379)には寝殿が作られ、庭内には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したと伝わっている。康暦3年(1381)に完成すると、それまでの三条坊門殿からこの地に移住した。平安京の室町小路に面して正門を作ったため室町殿あるいは室町第と呼ばれ、室町幕府の名の由来となった。東西1町、南北2町の敷地は当時の御所の倍にも及ぶ規模であったため、室町幕府の存在感は十分に示せたと思われる。こうして義満が下京の三条坊門殿から上京の北小路室町に移ると、それに伴い管領、守護以下の武士も一斉に引っ越しを行い、武家の新しい町が上京に現れた。
 応永元年(1394)義満は息子の足利義持に将軍職を譲る。応永4年(1397)西園寺家から京都北山の北山弟を譲り受け、舎利殿を中心とする山荘を造営し、移り住んだ。これが北山第または北山殿であり、後の鹿苑寺となる。応永15年(1408)義満が急病のために死去したことで、北山殿は10年で終わる。
 4代将軍足利義持は、義満の死とともに邸宅を室町殿から再び三条坊門殿へと移すとともに、北山殿の鹿苑寺(金閣)をのぞいて全て取り壊した。義満との父子関係は険悪であったとされているが、義満と同様に応永30年(1423)子の義量に将軍職を譲り、翌年6月に等持院で出家するが、その後も幕政の実権は握り続けた。16歳で5代将軍となった義量は病弱であった上に大酒飲みであったため、わずか19歳の若さで応永32年(1425)に死去する。自らの手には実権もなく酒宴を開くだけの人生だったのかもしれない。この後、正長元年(1428)に義持が死去するまでの約3年間は、新たな将軍が就任することなく、義持が将軍代行という形で政務を執ることとなった。そして義持の死に際して、後継者を指名しなかったため、義持の4人の弟から一人を籤引きで定めることとなった。
 籤引きの結果、既に出家していた義満の3男が還俗し、6代将軍足利義教となった。義教も最初は三条坊門殿に住んでいたが、建物を新築し室町殿へ移住した。義満を支えた将軍の中央集権権力は、義教の代に再び確立された。また義教の設立した奉公衆制度は将軍権力を支え、応仁の乱を経て明応の政変まで将軍権力を維持していくことになる。この権力の集中化と些細なことに厳しい処断を行う恐怖政治が義教の最期につながっていく。嘉吉元年(1441)赤松教康は義教を招いて西洞院二条の邸へ宴を行った。義教は少数の側近を伴い、家臣の館に出向いた。そしてこの宴の最中に義教は赤松満祐・教康父子に暗殺される。混乱した幕府は討手を差し向けることなく、領地播磨への赤松父子の帰国を許してしまう。
 暗殺された義教の跡を継ぎ9歳で7代将軍となった足利義勝もわずか8ヵ月後に死去し、後任に義勝の弟の義政が8代将軍に就任したのは元服を迎えた宝徳元年(1449)のことであった。義政は将軍就任当初、上京の烏丸資任の屋敷 烏丸殿に住んでいたが、やはり室町殿移住への気持ちは強く、将軍親政を開始すると長禄2年(1458)に室町殿の造営を始め、翌3年に実現させている。
 義政は祖父 義満や父 義教の政策を復活させようと試み鎌倉公方と関東管領の内紛に積極的に介入したが、将軍家の執事や正室 日野富子の実家の介入などにより、将軍としての実権は無いに等しい立場となっていた。次第に義政は政治への関心を失い、酒宴に溺れていった。応仁元年(1467)応仁の乱が起こり、戦乱は全国規模へ発展していった。
 義政は文明5年(1473)に山名宗全と細川勝元が死んだことを契機に将軍職を子の足利義尚へ譲り隠居した。文明7年(1475)に室町殿が戦火で焼失すると富子と義尚が細川勝元の別邸であった小川殿へ、義政は東山殿へ移る。延徳元年(1489)義尚が六角討伐の陣中で死去すると義政は足利義稙を自らの養子に迎え、第10代将軍に指名する。そして延徳2年(1490)銀閣の完成を待たずして死去する。
 義満から義政までの時代は上京の室町殿と下京の三条坊門殿を交互に移り住むことが行われ、ある意味で将軍の権力の誇示がなされた時代とも言える。

 そして第三の時代は9代将軍足利義尚から最後の15代将軍足利義昭まで。文明5年(1473)から天正16年(1588)の約100年間は、将軍家の権威も失墜し京都から追われることも度々あった。そのため室町殿や三条坊門殿のような定められた居住地はなかったと考えられる。9代義尚は応仁の乱で室町殿が焼失すると細川勝元の別邸小川殿に、10代義稙も細川讃州邸である一条御所に住んでいる。さらに11代義澄は細川政元の屋敷の一部に居候する形で暮らしていた。再び将軍に返り咲いた義稙は永正10年(1513)に三条坊門殿の1町南に三条御所を築いたと考えられている。12代義晴の御所の名称や位置は今日まで伝わっていない。13代義輝は、天文16年(1547)上京の勘解由小路(現在の下立売通)室町にあった武衛陣に御所を築いた。武衛陣は、もとは管領斯波義将の邸宅で、応仁の乱で戦火に遭い焼失した。永禄8年(1565)三好義継らに襲撃された義輝は自ら太刀を執り迎え撃つが、この邸宅で討ち死にする。14代義栄は永禄11年(1568)2月に第14代将軍として将軍宣下が下されたが、一度も上京することがなかった。同年9月に足利義昭を擁立して上洛した織田信長によって15代将軍は義昭に移る。信長は義輝が御所を築いた武衛陣の地に強固な邸宅を建設し、義輝はここに住んだ。このあたりの経緯は二条城の項で触れているのでそちらもご参照下さい。
 以上3つの時代に分けて足利幕府の政務の中心がどのように変遷していったかを見てきた。建武式目が確立された建武3年(1336)からに織田信長によって足利義昭が京都から追放される元亀4年(1573)までの約240年間のうち、花の御所と呼ばれ、室町幕府の名称となった室町殿が歴史の舞台にあったのは、永和4年(1378)の義満の造営から、文明7年(1475)の室町殿の焼失とその後の東山殿への移住までのがわずか100年間であったことに気がつく。しかし将軍に権力が集中し安定していた江戸時代と比較して、応仁の乱を始めとして戦乱絶えなかった室町時代の中においてもこの100年間だけが、将軍親政が行えた時代だったことを考えると室町幕府の名称こそが、この幕府の正式な名称であること理解できる。

「足利将軍室町第址」 の地図





足利将軍室町第址 のMarker List

No.名称緯度経度
 足利将軍室町第址 35.0291135.7579

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