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新三本木の町並み その2



新三本木の町並み(しんさんぼんぎのまちなみ)その2 2009年12月10日訪問

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新三本木の町並み 右手に入口が見える

 新三本木の町並みでは、宮地拡張に伴い三本木町が移転を余儀なくされたこと、そして鴨川の西岸に新三本木町を開町したこと、さらに遊里化して行く過程と頼山陽の山紫水明処を中心としたサロンが町の発展につながったことについて触れた。ここではもう少し幕末の町並みを見て行くこととする。
 頼山陽書斎山紫水明処の道標に従い、丸太町通より北に上ると直ぐに道は左右に分かれる。左の道は西三本木通、そして右は東三本木通と呼ぶ。新三本木は南北に走る東三本木通に面した区域で、北側から上之町、中之町そして南町の3町で構成されている。既に新三本木の町並みで記したように、もともと新三本木は東洞院通出水下ルにあった上三本木町そして三本木町二丁目、三丁目が、宝永5年(1708)3月8日に発生した宝永の大火の後に行われた宮地拡張に伴い、人家を移すために新たに開市した町である。そのため、新たな地でも旧称の三本木を名乗っている。寛保(1741~43)初の京大絵図には新三本木丁とあるが、宝暦12年(1762)刊の「京町鑑」(「京都叢書 第10巻 山城名跡巡行志 京町鑑」(光彩社 1968年刊行))の寺町東には、「三本木通 切通の上の通下ル 新三本木町 其南 大上之町」と記されている。文政3年(1820)の上京軒役付帳には既に現在の町名である上之町の名が見える。碓井小三郎著の「京都坊目誌」(「京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1969年刊行))でも町名について下記のように記している。

三本木上之町也今略称す。

 「京都坊目誌」には上之町の北部に中川修理邸があったと記されている。つまり尊攘派志士・小河一敏を輩出した豊後岡藩の屋敷がこの地にあったこと示している。盟友の田中河内介が鴨川の東岸の梁川星巌寓居跡の少し北で暮らしていたことを思い出す。 上之町の南に中之町があるが、町名の由来は上之町と同じである。そして中之町の南に南之町あるいは下之町がある。「京都坊目誌」には維新前の南之町に岡山藩池田藩の邸があったとしている。このことは、「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 1979年初版第一刷)にも記述されているが、幕末千夜一夜京都絵図に掲載されている「慶応四年戊辰二月再刻 書肆文叢堂竹原好兵衛版の改正京町御絵図細見大成」では上記の岡屋敷は見つけることが出来るものの、池田屋敷の記述はないようだ。念のため、慶応四年に刊行された改正京町御絵図細見大成をベースとした、木村幸比古氏監修による「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊)を参照する。備前池田藩の京都屋敷は、小川町通武者小路上ルの靭屋町(備前屋敷)と黒門通中立売上ルの飛弾殿町(備前ヤシキ)の2箇所あったことが分かる。また先の備前ヤシキからやや西の松屋町通中立売上ルの下鏡石町に、池田満治郎という記載がある。これは明治元年(1868)3月15日に備前国岡山藩主継承と本家池田家の家督を相続した備中国鴨方藩第9代藩主の池田章政(満次郎)の居宅と思われる。備前国岡山藩第9代藩主の池田茂政は徳川慶喜の実弟であった。新政府から実兄追討の命令を受けた茂政は隠居している。備前岡山藩に関係する京の屋敷は以上の3箇所が判明している。
 さらに「京都坊目誌」には勤王家梅田源次郎雲濱がこの地に住み、その妻の千代が明治5乃至6年まで居たとしている。雲浜の有名な下記の詩は安政元年(1854)の秋に作られたもので、先妻の信子のことである。

俄虜入浪華港、吉野十津川郷民謀出拒
請予為帥、慨然有作
妻臥病牀児叫飢
挺身直欲當戎夷
今朝死別與生別
唯有皇天后土知

 妻は病床に臥し児は飢えに叫ぶ、身を挺して直ちに戎夷に当らんと欲す、今朝死別と生別と、唯皇天后土の知る有り、という意である。病に臥しているのは妻だけではなく、妻の実母も雲浜の家で療養せざるを得ない状況になっている。嘉永年間(1848~54)から続く生活困窮がここで頂点に達する。「続日本史籍協会叢書 梅田雲浜関係史料」(東京大学出版会 1976年復刻)に掲載されている雲濱年譜によると、安政2年(1855)3月に妻の信子、そして4月に信子の実母も病没する。6月に三条通東洞院梅忠町に転居している。石田孝喜氏の「幕末京都史跡辞典」(新人物往来社 2009年刊)では、樫原の小泉仁左衛門達が用意したとしている。そして大和高田の木綿商の村島長兵衛の分家に当たる村島内蔵進の長女千代子を後妻にむかえている。恐らく碓井小三郎は旧三本木町と新三本木町を混同したのではないだろうか?

 上記年譜と雲濱没後事略によると雲浜とその家族の足跡は以下のようになる。

文化12年(1815) 若狭国小浜城下竹原三番町に生まれる
文政12年(1829) 河原町二条 山田仁兵衛に寄寓
          堺町二条 望楠軒に通学する
天保元年 (1830) 江戸に留学
天保11年(1840) 小浜に帰る
天保12年(1841) 関西九州諸国を遊歴 後に山田仁兵衛に寄寓
天保13年(1842) 大津に居を設ける
天保14年(1843) 兄の死に伴い江戸に赴く大津から京都に移り
          大津から京都に移り木屋町二条に寓する
嘉永5年 (1852) 生活困窮のため洛西高雄に転居する
          不便なため一条寺村に移る
嘉永6年 (1853) 四条寺町に移る
安政2年 (1855) 妻信子没後、三条東洞院梅忠町に転居
安政3年 (1856) 烏丸御池に移る
安政5年 (1858) 烏丸御池の自邸で捕縛され、江戸に護送される
安政6年 (1859) 獄死し浅草海禅寺泊船軒に葬られる
          9月に家族の町内預けを解かれる
万延元年 (1860) 千代、子を伴い大和高田の村島内蔵進方
          に引き移る
文久元年 (1861) 安祥院に雲濱先生之墓を建立
文久3年 (1863) 浅草海禅寺泊船軒に墓が建立される
慶応3年 (1867) 千代、次女ぬいを伴い京都に戻る
明治5年 (1872) 千代、京都府女紅場に勤務する
明治8年 (1875) ぬい、京都府女紅場英語教員となる
明治13年(1880) ぬい、病死し東大谷墓地に葬られる
明治16年(1883) 霊山に雲濱君碑が建立される
明治22年(1889) 千代、病没し東大谷墓地に葬られる
          歯骨が安祥院に埋められる
明治30年(1897) 小浜市外青井山に梅田雲濱先生之碑が建立

 慶応3年(1867)に千代と次女のぬいが京に戻ってから明治22年(1889)の千代病没までの居所が書かれていないので、もしかしたら碓井の記述どおり女紅場に近い南之町に住んでいたのかもしれない。

 また、三本木町は会津藩公用方・秋月悌次郎が暮らした街としても知られている。
 秋月悌次郎は、文政7年(1824)丸山胤道の次男として会津若松城下に生まれる。司馬遼太郎の「司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅 4 勝海舟~新選組」(中公文庫 2010年刊)の中に「ある会津人のこと」と題された秋月悌次郎と高崎正風について書いた文を見つけることができる。もともと「オール讀物」1974年12月号に掲載されたもので、近年になって幕末同時代の新選組や見廻組などと併せて編集したものである。この一文の中に悌次郎の子孫である秋月一江氏より秋月家の所在を教えてもらっている下りがある。一江氏は江戸末期の会津若松城下を描いた屏風絵の中の外堀に面した一点を竹竿で指し示している。司馬は城郭から遠く離れ、徒士階級の住んでいた界隈に悌次郎が生まれたことより、悌次郎のその後の出世が、当時の身分関係に煩い会津藩においては異例のことであったことを記している。

 丸山家の家督は長男の胤昌が継いだため、悌次郎は別家として秋月姓を称するようになる。そして藩校の日新館に学び、南摩綱紀とともに秀才として知られるようになる。天保13年(1842)より江戸に遊学し、弘化3年(1846)昌平坂学問所に入る。ここで10年以上学んだ悌次郎はついには寮舎の舎長を務め幕府から手当ても貰っている。その後、帰藩し日新館儒者になる。安政6年(1859)初頭、西国諸藩の国情調査という藩命を受け、この年の3月に会津若松を発っている。悌次郎は備中松山で河井継之助に、そして長州で奥平謙輔に出会うなど、昌平黌で知り合った重野安繹を訪ね薩摩に至る。しかし重野は遠島処分にあっていたため、再会とともに薩摩内の国情調査を果たせず長崎、大阪を経て和田倉門内の会津藩江戸上屋敷に戻る。悌次郎は巡察の報告として「観光集」全7巻、「列藩名君賢臣事実」全10巻を纏めている。
 このような経歴自体が会津藩にとって珍しく、文久2年(1862)閏8月1日、松平容保が京都守護職を拝命すると、家老横山主税の抜擢により公用方に登用される。中村彰彦氏の小説「落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎」(中公文庫 2008年刊)の上巻第四章に三本木屋敷という章があり、下記のような引越し風景が記されている。

京の三本木は、東に鴨川、西に河原町通りを隔てて御所の森を仰ぐ町屋であった。
北には出水通り、南には丸太町通りが東西に走り、戸数は四十五軒。屏風屋、絵草紙屋、両替商などの店構えと、店を出さない仕舞屋とが入り混じっていた。
閏八月中に上洛した会津藩先乗り組の面々は、その仕舞屋を何軒か借りあげてここに住まうことにした。

 そして中村彰彦氏は、これらの仕舞屋を所司代詰めの与力たちが見つけておいたと書いている。この地を選んだ理由として、丸太町通を二里西に進むと幕府本営の二条城とその北にあった所司代屋敷に突き当たる地理的な分かり易さを挙げている。そして現在の京都府庁の地に京都守護職屋敷跡が造営されたのが文久3年(1863)のことであった。ただし河原町通は現在ほどの大通りでなかったので、「寺町通を隔てて御所の森を仰ぐ町屋であった。」の方が、当時の様子に近いのではないかとも思う。
 司馬遼太郎は先の「ある会津人のこと」の中で下記のように三本木町を描いている。

秋月は、鴨川のほとりの三本木に下宿していた。障子をひらけば叡山が見え、夜は水の流れの音がひときわ高くなる。三本木はいまはそうではないが、このころはお茶屋(酒楼)の町で、諸藩の周旋方(公用方)は、主として、三本木で会合し、芸者をあげて遊んでいた。秋月はどうにも謹直な男だったが、京で酒楼の町に下宿していたところを見ると、この界隈のふんいきが嫌いではなかったのであろう。

 この秋月悌次郎の下宿した三本木屋敷が歴史の表舞台に現れるのは、文久3年(1863)8月13日のことであった。続日本史籍協会叢書「七年史」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻)の第一巻 癸亥記三に下記のように記されている。

薩州藩高崎左太郎正風、会津藩公用局員を三本木に訪うて、秋月悌次郎、広沢富次郎、大野英馬、柴秀治等に説いて曰く、大和行幸の事たる、長州人及び真木和泉等、密かに三条中納言等と結託して、御親征行幸の途上より、俄かに公卿諸侯に詔を齎らさしめて関東に下し、天下に号令せんとの陰謀にして、堂上を脅迫し、国事掛の過激輩が、叡旨を矯めたるの偽勅なり

 薩摩と会津の間に同盟が結ばれ、この5日後の8月18日に八月十八日の政変が起こる。

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新三本木の町並み 細い東三本木通

「新三本木の町並み その2」 の地図





新三本木の町並み その2 のMarker List

No.名称緯度経度
 頼山陽書斎山紫水明処 35.0176135.7703
  旧三本木町一~三丁目 西北 35.0193135.7605
01  山紫水明処 35.0181135.7708

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