東福寺 方丈 その2
東福寺 方丈(ほうじょう)その2 2008年12月22日訪問 東福寺 方丈 八相の庭 東福寺の開山堂と普門院の楼門を出て、再び通天橋を渡り仏殿まで戻る。その後、東福寺の方丈を拝観する。 東福寺 方丈 八相の庭 横からの眺め 東福寺 方丈 八相の庭 正面からの眺め 東福寺の方丈庭園は前回の訪問の時にかなり書いたので、書き足すことはそれ程多くないので、新たな写真を中心に感想を記していく。 東福寺 方丈 八相の庭 東福寺 方丈 八相の庭 奇岩が用いられている 昭和14年(1939)に作庭された東福寺方丈の4つの庭、「八相の庭」、「井田の庭」、「市松の庭」そして「北… ►続きを読む
東福寺 開山堂・普門院 その3
東福寺 開山堂・普門院(かいざんどう・ふもんいん)その3 2008年12月22日訪問 東福寺 開山堂・普門院 開山堂庭園 鶴島と亀島 かげまるくん行状集記 に掲載されている本朝寺塔記には京都十刹としての普門寺についての記述がある。 東福寺の項でも触れたように、東福寺創設には長い年月を要している。九条道家が京都最大の大伽藍の造営に着手したのが、嘉禎2年(1236)であり、完成に至ったのが実に建長7年(1255)のことであった。奈良における最大の寺院・東大寺と最も隆盛を極めた寺院・興福寺になぞらえて計画された寺院であったため、東大寺と興福寺から一字づつを取り、東福寺と名付けられた。上記の普… ►続きを読む
東福寺 開山堂・普門院 その2
東福寺 開山堂・普門院(かいざんどう・ふもんいん)その2 2008年12月22日訪問 東福寺 開山堂・普門院 東福寺の塔頭・霊雲院の山門を出て再び一華院と同聚院の間の道を戻る。この道の突き当たりにある大機院は、北側に並ぶ栗棘庵や善慧院と比べると高台の上に建てられている。いつも感じるが、この大機院の山門を見るために上る石段の途中からの眺めは美しい。 日下門を目指し南に進む。右手の一華院を過ぎると、左手に月華門が現れる。文永5年(1268)一条実経が常楽庵を建立した際、亀山天皇が京都御所の月華門を下賜された門とされている。常楽庵とはこれから向かう開山堂の別名である。檜皮葺切妻造、朱塗りの四… ►続きを読む
東福寺 霊雲院 その3
東福寺 霊雲院 (れいうんいん)その3 2008年12月22日訪問 東福寺 霊雲院 九山八海の庭 霊雲院の庭園は重森三玲の手によって修復、作庭されている。 東福寺 霊雲院 遺愛石 東福寺 霊雲院 東福寺 霊雲院 九山八海の庭 と 臥雲の庭 の交わる部分 「重森三玲 永遠の求めつづけたアヴァンギャルド」(京都通信社 2007年)に掲載されている年譜を見ると、遺愛石を復元修復した九山八海の庭は昭和45年(1970)、新たに作庭した臥雲の庭は翌年の昭和46年(1971)の作となっている。この東福寺と泉涌寺には多くの重森の作品が残されている。昭和14年(1939)という最初… ►続きを読む
東福寺 霊雲院 その2
東福寺 霊雲院 (れいうんいん)その2 2008年12月22日訪問 東福寺 霊雲院 山門 東福寺の塔頭・同聚院を出て、隣の一華院との間の道を西に入っていく。同聚院と一華院の2つの塔頭の白壁に囲まれた参道は東福寺の境内の中でも美しい風景の一つである。ただ長方形の敷石を5本並べた延段は、非常に簡素であるが力強い表現でもある。この参道の突き当たった先から、やや左手に建てられた霊雲院の赤い山門へ、延段は方向を変えながら結んでいく。何気ない意匠であるが破綻のない表現で纏められている。 東福寺 霊雲院 一華院と同聚院の間の小道 東福寺 霊雲院 山門へ続く 霊雲院は南北時代の明徳元年(… ►続きを読む
東福寺 同聚院
東福寺 同聚院(どうじゅいん) 2008年12月22日訪問 東福寺 同聚院 山門 東福寺の塔頭・海蔵院を出て、北側の非公開の塔頭の門前を巡る。これらの塔頭の簡単な説明と写真は改めて東福寺の塔頭という形で項を起こす。 海蔵院の並びに龍眠庵、そして北に進むと右手に霊源院、そしてその奥の細道を入って行くと盛光院がある。再び戻ると正面右手に戊辰役殉難士菩提所の石碑が建つ退耕庵がある。再び海蔵院まで戻り、塔頭の並ぶ道を南に下って行く。左手に栗棘庵、善慧院(明暗寺)、大機院と並び、右手には同聚院、一華院そしてその奥に霊雲院が建つ。万寿寺、勝林寺から始まり、東福寺の臥雲橋より北側の塔頭で常時公開され… ►続きを読む
東福寺 海蔵院
東福寺 海蔵院(かいぞういん) 2008年12月22日訪問 東福寺 海蔵院 山門 東福寺の塔頭・勝林寺の石段へと続く道を過ぎると、すぐ右手に海蔵院の山門が開いている。他の多くの塔頭とは異なり、中に入っていくことをできるように見える。この山門の右に社会福祉法人洛東園の看板がかかり、左にはかすれて読めなくなった表札がかかる。ここを海蔵院と知らなかったら、ただ古びた門のある養護老人ホームとしか見えないかもしれない。実際、山門を潜って境内に入っても、洛東園の生活感の方が圧倒的に強く、宗教施設としての雰囲気は薄い。洛東園の公式HPを見ると、昭和27年(1952)に海蔵院の境内に東福寺が設立された… ►続きを読む
東福寺 勝林寺
東福寺 勝林寺(しょうりんじ) 2008年12月22日訪問 東福寺 勝林寺 門前の石段 泉涌寺・東福寺の町並みでも記したように、悲田院から京都市立日吉ヶ丘高校の南側を通る細い階段を下ると東福寺の塔頭・即宗院の東下に出る。この上部の高台には西郷隆盛が碑文をしたためた薩摩藩士東征戦亡之碑と戦死した藩士等の名を刻んだ石碑が建つ。東山から延びる泉涌寺と東福寺の間には湧水が流れる小川の名残のような谷があり、それが現在の道路となったようにも見える。このまま東福寺の境内に沿って進むと、東福寺の僧堂への入口が左手に現れる。道路からは奥の堂宇を見ることが適わないが、GooglMapを見ると、本堂から通天… ►続きを読む
泉涌寺・東福寺の町並み
泉涌寺・東福寺の町並み(せんにゅうじ・とうふくじのまちなみ) 2008年12月22日訪問 泉涌寺・東福寺の町並み 左に道が続く 右は泉涌寺 悲田院の山門 悲田院の墓地より京都の市街地を眺めた後、山門から境外に出る。泉涌寺の大門で教えられた東福寺への近道に従い、泉涌寺道へ少し戻ると南に下って行く道に出会う。 前回の訪問(2008年5月10日)の時は、北側に延びる階段を下った。この道は京都市立月輪中学校の西側を通り、そのまま進む(北進)と法音院の東で泉涌寺道に戻ってしまう。そのため途中を西に曲がり住宅街に入っていった。京都第一赤十字病院の裏手から、勝林寺へ続く階段や海蔵院を見ながら臥雲橋に… ►続きを読む
泉涌寺 悲田院
泉涌寺 悲田院(ひでんいん) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 悲田院の山門 守脩親王墓、淑子内親王墓そして朝彦親王墓と賀陽宮墓地、久邇宮墓地を過ぎると泉涌寺の大門が現れる。既に何度か書いてきたように泉涌寺の境内は、この大門から東側へ下る形で広がっていく。悲田院へは、この大門の前を通り過ぎ総門へ向かう参道の途中、京都市立月輪中学校の手前を西側に入って行った先にある。 泉涌寺 悲田院 泉涌寺道から山門に至る参道 泉涌寺 悲田院 本堂と毘沙門堂 泉涌寺 悲田院 毘沙門堂 悲田院は本日拝観する泉涌寺の塔頭の最後になる。 1月の成人式の日に行われている泉山七福神巡りでは、… ►続きを読む
朝彦親王墓 その3
朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか)その3 2008年12月22日訪問 朝彦親王墓 安政6年(1859)12月7日に、退隠 永蟄居が加えられた朝彦親王は、12月11日に青蓮院を出て相国寺の塔頭桂芳軒に移り、獅子王院宮と名を変えて謹慎する。安政の大獄の処刑は安政6年(1859)10月27日の吉田松陰を以って終わる。そして翌万延元年(1860)3月3日の桜田門外の変で、井伊直弼は水戸藩と薩摩藩の脱藩浪士によって暗殺される。しかし朝彦親王の永蟄居が許されるのは、さらに先の文久2年(1862)4月30日まで待たねばならなかった。明らかに弾圧の首謀者がいなくなったにもかかわらず許されなかった2年… ►続きを読む
朝彦親王墓 その2
朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか)その2 2008年12月22日訪問 朝彦親王墓 朝彦親王は文政7年(1824)伏見宮邦家親王の第4王子として生まれている。朝彦親王も同様だが、父の邦家親王は17王子、15王女と現在では考えられないほど子宝に恵まれている。第1王子・山階宮晃親王(文化13年(1816)生まれ)、第2王子・聖護院宮嘉言親王(文政4年(1821)生まれ)、第3王子・曼殊院宮譲仁親王という兄達の母が藤木壽子であるのに対して、朝彦親王の母は青蓮院坊官・鳥居小路経親の長女信子である。坊官とは門跡寺院の家臣のなかで最上位の者であるため、卑賤の子と言うわけではない。伏見宮家は妃鷹司景… ►続きを読む
朝彦親王墓
朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか) 2008年12月22日訪問 朝彦親王墓 賀陽宮墓地と久邇宮墓地 雲龍院の拝観を終えて、泉涌寺の大門方向に歩いていくと、解脱金剛宝塔の南に賀陽宮墓地と久邇宮墓地がある。 文久3年(1863)の八月十八日の政変の政変後、一時尹宮と称していた中川宮朝彦親王は、翌元治元年(1864)に賀陽宮の宮号を賜っている。宮号は朝彦親王の宮邸として賜った京都御所南方の旧・恭礼門院の女院御所にあった榧の老木に由来すると言われている。明治元年(1868)朝彦親王が広島流謫された際に宮家は廃されるが、明治33年(1900)朝彦親王の第2王子である邦憲王によって宮家は再興され… ►続きを読む
泉涌寺 雲龍院 その2
泉涌寺 雲龍院(うんりゅういん)その2 2008年12月22日訪問 泉涌寺 雲龍院 書院庭園の全景 泉涌寺 雲龍院の項から書き始めた、室町幕府の開闢から雲龍院の創建にかけての40年間の政治情勢をもう少し続ける。 足利尊氏は南朝と和睦を結ぶという禁じ手を使用することで、一時的に足利直義討伐に勢力を集中することが可能になり、直義を降伏に追い込むことに成功する。しかしこの代償は大きかったのではないだろうか。尊氏は再び南朝方の攻勢に晒されるようになる。 北畠親房の指揮の下、東西で呼応して京と鎌倉の同時奪還を企て、正平7年(1352)2月に尊氏の征夷大将軍を解任し、後醍醐天皇の皇子・宗良親王を奉… ►続きを読む
泉涌寺 雲龍院
泉涌寺 雲龍院(うんりゅういん) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 雲龍院 山門 泉涌寺の大門を出る前に、参道の南側の分かれ道を入って行く。泉涌寺 その3で記したように経蔵や解脱金剛宝塔など見ながら東に進むと、雲龍院の2つの門が現れる。 泉涌寺 雲龍院 浴室脇から続く石段 泉涌寺 雲龍院 山門と表門が並ぶ 真言宗泉涌寺派は古義真言宗に属し、総本山は泉涌寺である。泉涌寺は密(天台・真言)・禅・律・浄の四宗兼学の道場として、俊芿が開創したことにより始まる。このような独自の宗風を保ち、さらに皇室の香華寺として護られてきたが、明治時代に入ると皇室による保護も無くな… ►続きを読む
泉涌寺 その3
真言宗泉涌寺派総本山 東山 泉涌寺(せんにゅうじ)その3 2008年12月22日訪問 泉涌寺 仏殿と舎利殿 泉涌寺の開山となる俊芿律師は、朝野の尊信が非常に厚く、後鳥羽上皇、土御門上皇、順徳上皇、後高倉上皇らのほか、大臣顕官の多くが大師に帰依し受戒されている。俊芿律師は泉涌寺竣工の翌年の嘉禄3年(1227)に亡くなっている。そして寛喜3年(1231)に生まれた四条天皇が、俊芿律師の生まれ変わりとされている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には下記のような記述が残されている。 天子の官寺となる事は、八十六代四条院を権輿とせり。此… ►続きを読む
泉涌寺 その2
真言宗泉涌寺派総本山 東山 泉涌寺(せんにゅうじ)その2 2008年12月22日訪問 泉涌寺 大門から仏殿を眺める 泉涌寺本坊の玄関を出て、仏殿、舎利殿を中心とする泉涌寺の伽藍を見ていく。 泉涌寺 参道 右手は大門に通じる 泉涌寺 大門 泉涌寺の起源について最初に現われて来るのは、天長年間(824~834)弘法大師が、この地に結んだ草庵である。この草庵が後の法輪寺となったとされている。このことは泉涌寺の塔頭の一つである今熊野観音寺や善能寺でも触れているように、数々の弘法大師にまつわる伝承が入り混じり、歴史として判別することが困難になっているようだ。今熊野観音寺の公式HPに… ►続きを読む
泉涌寺 本坊
泉涌寺 本坊(せんにゅうじ ほんぼう) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 本坊 御座所庭園 月輪陵の白砂を敷き詰めた前庭には御座所庭園とつなぐ木戸がある。その位置を確認した上で、再び勅使門の前を戻り、泉涌寺本坊に入る。 泉涌寺 本坊 霊明殿の唐門 泉涌寺 本坊 泉涌寺 本坊 泉涌寺本坊は、霊明殿、御座所そして海会堂の3つの建物とそれらをつなぐ御座所庭園によって構成されている。霊明殿は、四条天皇御尊像と御尊牌をはじめ、明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后の御真影と御尊牌、それ以前の天皇・后妃・親王方の御尊牌を奉安し、回向を行うための施設である… ►続きを読む
泉涌寺 月輪陵 その2
泉涌寺 月輪陵(つきのわのみささぎ)その2 2008年12月22日訪問 泉涌寺 月輪陵・後月輪陵 孝明天皇の後月輪東山陵の参拝を終え参道を下る。御陵はかなり高台に造られているため、御座所などの建物の屋根が眼下に見える。御陵参道の入口から、泉涌寺の舎利殿前の受付で拝観料を納め、泉涌寺の境内に入る。今回の訪問の時は心照殿が休館だったため、御座所を含めた本坊の拝観が自由であった。 とりあえず境内と本坊の拝観を後回しにして、月輪陵と後月輪陵の参拝に向かう。仏殿と舎利殿の北側を廻り、霊明殿の唐門を過ぎると月輪陵と後月輪陵へ続く木の門が現われる。 泉涌寺 後月輪東山陵参道からの眺め 泉涌… ►続きを読む
泉涌寺 後月輪東山陵
泉涌寺 後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ) 2008年12月22日訪問 泉涌寺 月輪東山陵 後堀川天皇の觀音寺陵の石段を下り、再び参道を進む。参道の終着点はかなり広い空間となり、トラックが2台止められていた。おそらく御陵の整備のためのものだろう。傍らには菊花の手水があった。月輪陵で見かけたものと同じ意匠のものだ。 泉涌寺 月輪東山陵 泉涌寺 月輪東山陵 後月輪東山陵には第121代孝明天皇が祀られている。 天保2年(1831)仁孝天皇の第4皇子・統仁親王として生まれている。兄の親王達がいずれも早世しているため、天保11年(1840)に立太子されている。弘化3年… ►続きを読む